アフリカ諸国との格の違いを見せつけられたジンバブエの現状
こんにちは。自転車世界一周の周藤卓也@チャリダーマンです。モザンビークからジンバブエに入ります。
経済崩壊のニュースが流れたジンバブエを旅することはずっと前から楽しみでした。そのジンバブエで「アフリカの旅」は終ったかもしれません。経済崩壊したとはいえ、今までのアフリカ諸国とは格が違いました。今でさえ驚くのですから、さぞかし昔は凄い国だったのでしょう。現在、ジンバブエドルは消滅して米ドルと南アフリカランドが流通しています。経済は復興しつつありますが、ムガベ大統領による独裁というジレンマは抱えたままです。そんなジンバブエの2012年の現状をまとめてみました。
ジンバブエの首都Harare(ハラレ)はこちら。
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ジンバブエでは東部のMutare(ムタレ)と首都Harare(ハラレ)に滞在しました。
モザンビークとの国境に近いMutareは周辺の鉱山地帯の中心都市で、東西に伸びるメインストリートを中心に商業地区が広がっています。アフリカの都市はゴミゴミと雑然として息苦しくなりがちですが、Mutareはすっきりと整然としていて、すがすがしくもありました、市街で見かける家々は塀に囲まれて庭やプールもある大きな邸宅。街の造りも、家の造りもこれまでのアフリカではありません。土地を十分に使ったその風景はオーストラリアのようでした。
Mutareのメインストリート。
青い空が気持ちよくもありました。
首都Harare(ハラレ)の中心街も高層ビルが林立していて圧倒されました。ケニアのNairobi(ナイロビ)以来の大きな首都でした。中心街は道路が碁盤目に結ばれていて歩きやすかったです。郊外には住宅が広がって、ショッピングモールが点在していました。スーパーマーケットの品揃えは豊富で、Made in Zimbabweの商品もたくさんあります。目立ったのはしっかりとした靴下。このHarareもまた今までのアフリカらしくありませんでした。
真っ直ぐ進むとHarareの中心街に入ります。
高層ビルの中に佇む教会。
碁盤目に道路が行き交う中心街の交差点。
メインストリート。ビル屋上の奇妙な物体は何?
中心街にあるショッピングセンターと真新しいビル。
中心街から郊外に抜ける道路は緑のトンネルの様でした。
宿の近くにある「Avondale Shopping Center」
ヨーロッパにあるようなパーツまで扱うサイクルショップもあったショッピングモール「Arundel Village Center」
ジンバブエでは久し振りに全国的にチェーン展開をしているファストフード店を見かけました。モロッコ以来でした。徐々にアフリカが終っていく気がします。
ファストフード店の看板が並びます。
「CHIKEN INN」のファストフード。
「CREAM INN」のソフトクリームは口の中で溶ける滑らか舌触り。カメルーンやガボンで食べたものは偽者でした。
ジンバブエ人に愛される「Cascade」はオレンジ味の乳飲料です。
Harareの中心街の南西にあるダウンタウン(商業地区)には、インド系や中国系の商店が連なり賑わっています。中心街のショッピングモールとはまた客層の違うジンバブエ庶民の地区です。ここで、ボロボロになっていた長ズボン(20ドル)と、サイクリングにも使えそうな化繊のTシャツ(2ドル)を手に入れました。中国製の衣服には日本語の値札もついています。4900円と日本語で書かれていても、ここだと10ドルで売られていました。インド製の自転車チューブなんかも手に入れました。経済崩壊なんてあったのかと疑うくらいに、ここにはたくさんの物であふれていました。
Harareの商業地区(ダウンタウン)
店先にはこのように商品と値札が貼られているから買物しやすい。
上写真の通り値札は米ドル表示……。
そう、ジンバブエドルは消滅していました。代わって流通しているのが米ドルと南アフリカランドです。スーパーマーケット、ガソリンスタンド、道路の料金所とすべて米ドルで表示されていました。銀行のATMで国際キャッシングをすると米ドルが出てきます。これまではインターネットの料金を聞くと「1時間でこれだけの金額」という答えでしたが、ジンバブエでは「1ドルでこれだけの時間」という答えで奇妙でした。マーケットで野菜を買うときも「1ドルでトマト5個、1ドルで玉ねぎ5個」と言われたりしてました。だから「1ドルでトマト2個、玉ねぎを3個」という買物をしてました。瓶のコカコーラも50セントでした。40セントにも60セントにもできません。2本で1ドルにならないとお釣りが煩わしいですから。
ジンバブエの通貨が米ドルに切り替わったのはいいですが、小銭の扱いに問題が生じています。かつて訪れた東ティモールも、通貨は米ドルでしたがセントは独自の硬貨が流通していました。このジンバブエでは南アフリカランドの硬貨が使われています。これも不思議なもので、1米ドル(約81.1円)、10ランドが(約106.6)円であっても、1米ドル=10ランドで計算されたりするのです。50セント(約40.5円)のお釣りが5ランド(約53.3円)で返ってきていました。ただ、首都Harareでは50セント(約40.5円)のお釣りは4ランド(約42.6円)と相場に近かったのですが。
このようにお釣りの扱いが複雑なので、なるべく端数がでないようにして買物をしていました。スーパーマーケットでは小銭の換わりにレシートや10セントと書かれてある券をくれます。これを次回の会計で出すと値引きされるのです。(日本円は2012年03月初めのレートで換算しています。)
よく使われる小額紙幣の1米ドルはクタクタで布のよう。だからといって、新しく紙幣を刷ることはできません。
スーパーマーケットで次回の清算に使えるレシートと小銭のクーポン券。
ガソリンスタンドも米ドル表示。
道路の料金所の米ドル表示は「1、2、3、4、5」……こんなに大雑把でいいのでしょうか。
ジンバブエはイギリスの植民地、白人国家ローデシアを経て、1980年に独立しました。アパルトヘイトを行っていた南アフリカを始め、ポルトガル植民地のアンゴラ、モザンビークと、南部アフリカに住む黒人にとって自由を掴むことは大変な時代でした。1960年に「アフリカの年」として一斉に独立した黒人主体の国家とは違います。ジンバブエは独立ともに白人社会と協力して順調な経済成長を続けました。大規模な農業生産は「アフリカの穀物庫」としてジンバブエ経済を支えていました。どこで歯車が狂ってしまったのでしょうか。
十分な土地が広がるジンバブエ、国土は日本とほぼ同じながら、人口は10分の1です。
有刺鉄線の向こうは私有地。
「アフリカの穀物庫」を体現しています。
広大な農場が広がっていました。
大規模で効率的な灌漑システム。
育てられているのは外貨取得を担っているタバコ。
そもそも最初からムガベ大統領は独裁的な手法をとっていました。それでも何とか国として成り立っていたジンバブエですが、1990年代後半から崩れ落ちて行きます。1997年に政権内部の腐敗からクーデターを起こしかねない軍部を抑える為に、軍部に影響のあるジンバブエ独立の為に戦った元解放ゲリラを懐柔する必要がでてきました。そのために行なった元解放ゲリラ向けの破格の年金給付は、国家財政を破綻させるのに十分でした。
追い討ちをかけるように1998年、内乱の起きたコンゴ民主共和国の政権側を支援するために軍隊を派兵をします。この第二次コンゴ戦争は政権側にアンゴラ、ナミビア、ジンバブエ、反政府側にウガンダ、ルワンダがついて、さながらコンゴ民主共和国の豊富な資源を巡る代理戦争を呈していました。この派兵はムガベ大統領の後妻であるグレース夫人名義になっていたコンゴ民主共和国内のダイヤモンド鉱山を守るためとも言われています。
2000年からは白人農場の強制収用を進めました。土地を奪われた白人は国を出て行き、農業技術は失われました。失政に失政を重ねてハイパーインフレに陥り、ジンバブエ経済は一度崩壊しました。この経済崩壊は頻発する停電、明かりのつかない街灯、補修されない道路と、いたるところで傷としてジンバブエに残っていました。
紙くずとなってしまったジンバブエドル。
補修されていないHarare市内の荒れたアスファルト。
道路脇のレストエリアにある壊れたままの椅子。
こうしてムガベ大統領が強権を振るうジンバブエは独裁国家なのでしょうか。ですが、ツーリストビザが国境で即日発行されます。係官が親切にもフォームの記入を手伝ってくれました。どこに行くに自由で、ナイジェリアのように警察署で尋問されることもなく、中国のような宿泊制限もありません。本当の独裁国家であれば、北朝鮮やトルクメニスタンのように旅行に制限が加わります。
商店の中にムガベ大統領の肖像画をみかけましたが、これはアフリカには一般的なこと。ザンビアですら現職の大統領の肖像画は掲げられています。ジンバブエの自由を感じたのは首都Harareで目にしたタブロイド紙のトップ記事でした。「ムガベ大統領、議会中に居眠り」……こんな見出しが躍っていました。ムガベ大統領は独裁的ですが、ジンバブエを独裁国家とは感じませんでした。
ジンバブエの2008年の大統領選挙は与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(ZANU-PF)のムガベ大統領と、最大野党の民主変革運動(MDC)のモーガン・ツァンギライ議長による決選投票となりました。最初の投票でツァンギライ議長より得票率の低かったムガベ陣営は徹底的な妨害工作に出ます。身の危険を感じたツァンギライ議長は決選投票からの撤退を決断するしかありませんでした。このことが国際社会からの非難を呼び、また国内でも混乱が続きました。事態の収拾を図るためにZANU-RFとMDCは連立政権を組むことになります。ムガベ大統領、ツァンギライ首相という形です。議会でも野党は与党に拮抗する議席を保有しています。本当の独裁国家はこうはなりません。ムガベ大統領自身が88歳と高齢であることを踏まえると、ムガベ大統領後の明るいニュースに期待せずに入られません。
ジンバブエの人たちもこれまでのアフリカに比べると違って見えました。ボロの服を着ている人も少なく、逆に、破けたズボンとTシャツで歩いていた自分の方が浮いていたでしょう。通学する子どもたちもきちんとした制服を着ていて頼もしい感じです。照れた感じで話しかけてくるのもまたいい。ジンバブエ人とはたまに会話を楽しんでいました。穏やかで会話に繋がりを持たせるほど理解力のあるジンバブエの人たちと話をするのは気持ちよくもありました。
ジンバブエ人:
お前は結婚をしているのか?
チャリダーマン:
していたらこんなことはできないよ。奥さんや子どもの為には働かないといけないし。
ジンバブエ人:
自転車で旅行だなんて、それは凄い事じゃないか。
チャリダーマン:
いやいや、これは遊びだからね。あなたの仕事の方が大切だよ。
ジンバブエ人:
Karibaの近くにはライオンやチーターが出るぞ。
チャリダーマン:
だから、こういうトラックステーションでテントを張らないと。
きわめつけはイミグレーションの係官です。「コンニチハ、ジンバブエへヨウコソオコシクダサイマシタ」と片言の日本語を話してくれました。いやいや、出国させてくださいよ。でも、彼のおかげで気持ちよくジンバブエを後にできました。
休憩している時に少し話をしたジンバブエの人たち。
白人のジンバブエ人もみかけました。入国の際にモロッコから愛用しているターバンを腕に遊ばせていると「あら、あなた怪我でもしているの」と老人のご婦人。心配かけてごめんなさい。ご夫妻でイミグレーションで手続きをしていました。ちらっとみえたパスポートはジンバブエのものでした。また、たくさんの距離表示の矢印がある所で「写真を撮ってあげましょうか?」と話しかけてくれたのも白人のご婦人、こちらもご夫妻で車に乗っていました。南アフリカの人かなとも思って「どこから来ているんですか?」と訊いてみると「ここから100kmくらいの街よ」とジンバブエの人でした。白人農場の強制収用ということがあっても、住み続けるジンバブエの白人が意外でした。白人でも黒人でも同じジンバブエ人なのかもしれません。
白人のご婦人に撮ってもらった写真。
一度だけ「ムガベ大統領は好きか」と地元の黒人に聞きました。彼の答えは「イエス」でした。「あなたの国だからあなたが決めることだけど」と断った上で、「彼は経済を崩壊させたけれどね」と自分の意見を口にしました。「トマトやポテトとかの野菜が大きい。他のアフリカならもっと小さい、だけどジンバブエにはテクノロジーがある」「高圧線が3本流れていたけれど、普通なら1本だけだよ」とジンバブエのことを褒めると嬉しそうにしていました。本当にジンバブエには力があります。
アフリカで気になっている子どもの数を聞いてみると「こどもは2人、それ以上は作らないよ」と彼は答えました。彼がムガベ大統領を支持しているか、それが本心なのかは分かりません。ただ、何にせよ次の大統領選挙は公正に実施されて欲しいものです。その公正さが保障されるならば、ジンバブエ人は選択を間違うことはないでしょうから。
カリバダムによって発電される電気を送る3本の高圧線。ザンビア側は2本の高圧線、通常だったら1本、コンゴ共和国は0本で建設中でした。
ジンバブエはMutare→Rusape→Maronder→Harare→Banket→Karoi→Makuti→Karibaと約660kmを走りました。実質の走行は7日間です。ジンバブエには合計して18日間滞在していました。
峠を越えるときに見下ろしたMutareの市街。
ブッシュキャンプ。
首都Harareは宿の敷地内にテントで7米ドル。
宿には立派なキッチンがあって自炊もできます。
スパゲッティを作りました。
ジンバブエからザンビアへはKariba(カリバ)の国境を使いました。ここにはザンベジ川を堰き止めて作ったカリバダムがあります。このためにできたカリバ湖は長さ280km、幅20kmで世界屈指の人造湖です。このKaribaへ向かう道ではたくさんのボートを牽引した白人の車とすれ違いました。このKariba一帯は国立公園に指定されていて、シマウマと猿を見かけました。
Karibaに向かう途中い広がる森。人の気配はありません。
こちらがカリバ湖
手を伸ばせばシマウマ。
こちらを警戒しています。
歌舞伎役者のようなシマウマの縞。
猿も横断して行きました。
たくさんの猿が通りますよ。
お腹に小猿を抱えた母猿。
そして、こちらがカリバダム。
ダムの堤防が道路となっていてザンビアへと渡ります。面白い国境です。
ダム下流のザンベジ川。
ジンバブエからザンビアに入ります。
(文・写真:周藤卓也@チャリダーマン
自転車世界一周取材中 http://shuutak.com)
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