レオナルド・ダ・ヴィンチが「理想郷」としてデザインするはずだった幻の首都がある
レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリアのルネサンス期を代表する画家と言われ、実際にフィレンツェやミラノといったイタリアの都市で多くの時間を過ごしました。しかし、ダ・ヴィンチの作った機械仕掛けの獅子に感銘を受けたフランス王フランソワ1世からロワール渓谷に招待されたことをきっかけに、ダ・ヴィンチは晩年をフランスで過ごすことになりました。建築と工学に集中した晩年のダ・ヴィンチにゆかりのある建築物たちが、Smithsonian.comで公開されています。
Explore France's Loire Valley in the Footsteps of Leonardo da Vinci | Travel | Smithsonian
https://www.smithsonianmag.com/travel/explore-frances-loire-valley-in-footsteps-of-leonardo-da-vinci-180971039/
◆1:クロ・リュセ城
by Nadègevillain
フランスに移ったダ・ヴィンチが暮らしたのは、フランス王が暮らしたアンボワーズ城敷地内の邸宅である、クロ・リュセ城でした。ダ・ヴィンチはクロ・リュセ城で3年を過ごし、自らのことを「父」と呼ぶフランソワ1世のもとに地下道を使って会いに行っていたとのこと。イタリアからフランスに移住する際、ダ・ヴィンチは「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3つの絵画を持ち込んだといわれています。そして1519年、クロ・リュセ城の寝室で卒中のためダ・ヴィンチは67歳で亡くなりました。
2019年現在、クロ・リュセ城は寝室、スタジオ、壁のフレスコ画、キッチンの炉辺に至るまでが全てダ・ヴィンチが暮らした当時の形に復元されています。庭にはダ・ヴィンチの発明である二輪戦車をはじめとするフルスケールの発明品が展示されているとのこと。
◆2:シャンボール城
by Calips
シャンボール城はダ・ヴィンチが亡くなった年に建設が始まったため、ダ・ヴィンチがその完成を見ることはありませんでした。しかし、歴史学者やダ・ヴィンチの研究者は、ダ・ヴィンチが少なくとも城の一部の建設に関わったものとみています。東北大学名誉教授の田中英道氏によると、ダ・ヴィンチのオリジナルの設計図は発見されていないものの、建物のフットプリントは紛れもなくダ・ヴィンチのデザインとのこと。建物の見どころの1つである二重らせんの階段は、ダ・ヴィンチの作品のほぼ全てに見られる数学的な優雅さがみられるそうです。
◆3:ロモランタン=ラントネー
by Vincent4145
ロモランタンは、フランシス1世が「フランスの首都となる理想郷」を作り出すためにダ・ヴィンチを雇いデザインを依頼した街。このプロジェクトは運河や王宮、庭園、水車小屋、灌漑(かんがい)農地、下水道、近郊都市の建設を含む大規模なものでしたが、ダ・ヴィンチの死により実現することはありませんでした。
◆4:アンボワーズ城
1400年代から1800年代まで王宮として使われたアンボワーズ城は、ダ・ヴィンチの家から1000フィート(約300m)も離れていない場所にありました。現在は城、庭園、塔、地下などが訪問者に対して公開されています。
19世紀に入ると宮殿の大部分は取り壊され、この中にはダ・ヴィンチが埋葬された教会も含まれました。約100年後、ダ・ヴィンチのものとみられる骨が発見されると、ダ・ヴィンチはSaint Hubertの教会に改めて埋葬されます。墓石にはダ・ヴィンチの名前と共に、なぜSaint Hubertに埋葬されているのかという経緯が記されています。
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