動画

エジプト最後の女王クレオパトラはいかにして全てを失ったのか


有名なエジプトの女王で世界三大美女としても知られるクレオパトラがどのような人物でどのような政治を行い、なぜ「古代エジプト最後の女王」となったのかについて、教育系YouTubeチャンネルのNightshiftが解説しています。

How the Last Queen of Egypt Lost EVERYTHING - YouTube


一般的に「クレオパトラ」と言う場合は古代エジプト・プトレマイオス朝最後の女王である「クレオパトラ7世」を指します。Nightshiftはまずクレオパトラの性格を表すエピソードとして、妹であるアルシノエ4世の処刑を挙げました。ローマのユリウス・カエサルと同盟を結んだクレオパトラと対立したアルシノエ4世は敗戦して捕虜となり市中引き回しの刑を受け、クレオパトラはアルシノエ4世の処刑を命じましたが、カエサルの意向によりアルシノエ4世は死刑をまぬがれました。しかし最終的に、カエサル暗殺後にクレオパトラの意向を受けた実権派の手によって殺害されたと記録が残っています。


このように身内であっても過激な姿勢をとっていたクレオパトラは、「生まれつきの裏切者」であったとNightshiftは指摘しました。紀元前51年に18歳のクレオパトラは弟のプトレマイオス13世と共同統治を開始します。なお、プトレマイオス朝では権力を血筋の間でとどめるために近親婚が常識であり、クレオパトラはプトレマイオス13世や同じく弟のプトレマイオス14世と結婚して共同統治をしていました。


当時のプトレマイオス朝は穀物の余剰の主な取引先としてローマを相手にしていましたが、ローマ側はエジプト地域をパートナーではなく属州として見なしており、クレオパトラはローマをなだめるような形で権力を維持していたとのこと。しかし、ローマの債権者に船舶を供給したり巨額の借金を伴う賄賂を贈ったりしていた上、ナイル川周辺の増水量が少なかったことで不作が発生したことで経済が大きな打撃を受け、住民からの大きな反発を招きました。


クレオパトラにとって、妹のアルシノエ4世と10歳の弟のプトレマイオス13世はともに王位継承争いにおいて脅威となり得る存在でした。プトレマイオス13世の側近は共同統治にもかかわらず独占的に政治を行うクレオパトラを不満に思い、プトレマイオス13世に反感の意思を植え付けた上で、経済の悪化に対する国民の怒りを女王に向けさせるよう働きかけました。結果として紀元前49年の夏にクレオパトラは都市から追放され、記録から名前が抹消されました。


一度は完全に失脚したクレオパトラでしたが、残っていた資金を使って傭兵を集めて軍を組織し、反撃の準備を整えました。そんな中、未払いの借金を取り立てるためにローマの英雄であるカエサルがエジプトに到着しました。クレオパトラはカエサルに直接会って権力を取り戻すための味方につけるため都市に戻り、寝具袋に身を隠してカエサルの部屋に運び込まれるという作戦に出ました。


この密会によりクレオパトラはカエサルの支持を獲得し、プトレマイオス13世側および「ローマに染まっていない女王」として支持を獲得した妹のアルシノエ4世と対立しました。軍を率いて反乱したアルシノエ4世らとの戦いは約4カ月の間続きましたが、ローマ軍の増援により決着し、最終的にプトレマイオス13世はナイル川で溺死、アルシノエ4世は捕虜となりました。そしてクレオパトラはもう1人の弟であるプトレマイオス14世と結婚して共同統治により王位を回復します。


クレオパトラはカエサルとの間に子どもを出産し、ローマとのつながりも強い絶対的な王として君臨したかに思えました。しかし、カエサルに敵対するローマ側は「クレオパトラがカエサルをローマの価値観から遠ざける」と主張して敵視したほか、カエサルは群衆の嘆願によってクレオパトラの意に反してアルシノエ4世を処刑せずに追放するなど、クレオパトラの思い通りにはなりませんでした。そして、紀元前44年にカエサル暗殺が発生し、遺言状にはカエサルとクレオパトラの間の息子であるプトレマイオス15世カエサリオンの名前がなかったことで、クレオパトラは最大の後ろ盾を失いました。


クレオパトラは共同統治していたプトレマイオス14世を処刑し、当時3歳のカエサリオンを後継者に据えることで権力を確固たるものにしようと試みました。また、ローマでは西部のオクタウィアヌスと東部のマルクス・アントニウスで対立しており、クレオパトラはアントニウスに接近して同盟関係の主導権を得ました。クレオパトラはまず、追放されていたアルシノエ4世の処刑を断行し、アントニウスに資金提供した上で領土拡張を要求しました。さらにクレオパトラはアントニウスの子どもを出産し、血縁によって同盟関係を確固たるものにしました。クレオパトラはエジプトとローマを統合する王朝の樹立を構想していたと考えられています。


アントニウスは自らの権力とクレオパトラへの忠誠心を示した上で、カエサリオンを「王の中の王」であるカエサルの真の息子であり後継者であると宣言しました。アントニウスの前妻はオクタウィアヌスの姉であり、カエサルと血縁関係にあるオクタウィアヌスではなくカエサリオンを後継者としたアントニウスの宣言は、オクタウィアヌスにとって強い屈辱でした。そこでオクタウィアヌスはアントニウスを「女に操られた男」、クレオパトラを「危険な外国の女王」と呼ぶ中傷キャンペーンを展開し、アントニウスの「死後はクレオパトラと共に葬られたい」という遺言を暴露しました。さらに、内戦を避けていたローマに向けて「敵はクレオパトラとその仲間」と示し、クレオパトラに宣戦布告をしました。


アントニウス軍とオクタウィアヌス軍が衝突したアクティウムの海戦が紀元前31年に勃発し、結果としてクレオパトラの船団を含むアントニウス軍は決定的敗北を迎えました。オクタウィアヌス軍がエジプトへ侵攻する中、クレオパトラは霊廟(れいびょう)に立てこもり、財宝と共に籠城します。そこへ自殺未遂で瀕死のアントニウスが運び込まれ、クレオパトラの腕の中で死亡しました。クレオパトラは市中に引き回されて群衆に晒された妹のアルシノエ4世を想起し、紀元前30年に自ら死を選びました。クレオパトラの墓は見つかっておらず、クレオパトラの手記や遺言なども全く残されていません。シェイクスピアの戯曲「アントニーとクレオパトラ」や多くの歴史書では「毒蛇に身をかませた」とされていますが、一部の歴史学者は「クレオパトラは美しいまま亡くなって、死後も伝説的美人としての評判を保ちたいと考えたでしょう」と述べて服毒自殺だという証拠を示しています。

クレオパトラの自殺方法はヘビではなく服毒自殺だった - GIGAZINE


クレオパトラは高い政治力と強い野心、現実的な判断力を持ち合わせており、冷徹で合理的な戦略家でもありました。そんなクレオパトラを打倒したオクタウィアヌスの戦略は、「敵を外国の脅威に仕立てあげることで内戦を正当化し、世論を完全掌握する」という、「現代でも通用する巧みな戦略」とNightshiftは表現しています。

この記事のタイトルとURLをコピーする

・関連記事
英語版Wikipediaの2022年閲覧数トップは「ワールドカップ」や「ウクライナ侵攻」を差し置いて「クレオパトラ」 - GIGAZINE

クレオパトラの自殺方法はヘビではなく服毒自殺だった - GIGAZINE

古代エジプトでは天文学にどのようなアプローチが用いられていたのか? - GIGAZINE

エジプト人が古代の儀式で体液や幻覚剤が入ったカクテルを飲んでいた可能性が研究により判明 - GIGAZINE

ナイル川の源流を巡る冒険の歴史とは? - GIGAZINE

in 動画, Posted by log1e_dh

You can read the machine translated English article How did Cleopatra, the last queen of Egy….