独裁者たちの最期、カダフィらはどのように生きて終わりを迎えたか


10月20日にリビアの最高指導者だったカダフィが亡くなりました。リビアでは42年間にわたってカダフィ政権が続いていましたが、2011年2月に発生した内戦から体制がほころんでいき、ついに政権は打倒されました。カダフィ自身も潜伏先で拘束され、その際に頭に銃弾を受けて死亡しました。

過去にもカダフィと同じように、一人で国を支配した独裁者がいましたが、その多くは似たような運命を辿っています。独裁政治でその政治家が生涯権力を持ち続け、国民からの支持を受け続けるというのは、よほど優れた手腕を持っていないと不可能ということです。

ムアンマル・アル=カダフィ (1942-2011)


カダフィが子どものころ、アラブ諸国とイスラエルが戦った第一次中東戦争が起こり、エジプトではナセルがエジプト革命を起こし、王政を倒してエジプト共和国を建国しました。これに強く影響を受けたカダフィは、リビアの軍人となったのち1969年にクーデターを起こして王政を打倒、リビア・アラブ共和国を建国しました。


カダフィは長らく汎アラブ主義で、欧米とは対立する路線を取っていました。しかし、アメリカ同時多発テロの発生時にはテロを引き起こしたアルカイダを強く批判、核査察団の受け入れも行い、アメリカとの国交正常化にこぎ着けました。

リビア国内には中央銀行がなく、税金はゼロ、電気代も教育も医療も無料という政策が取られていました。そのため、カダフィは「民衆に支持されていない暴君」というわけではありませんでしたが、政権を打倒する動きには弾圧を加えて市民を殺害しており、2011年2月にとうとうカダフィ退陣を求める動きからリビア内戦が発生。最後は反体制派の民兵に拘束され、自らの持っていた黄金の拳銃で頭を撃ち抜かれました。

サダム・フセイン (1937-2006)


1980年以降、中近東のニュースで名前をよく報じられていたのがイラクのフセイン大統領です。カダフィと同様、フセインも若い頃にエジプト革命を見た世代であり、イラクの王制打倒の一翼を担いました。1979年にイラク共和国の大統領に就任したフセインは、まず臨時会議で反フセイン派を一掃し独裁体制を確立しています。

フセインはアメリカの支援を受けてイランとの戦争に挑んだ時期もありましたが、その後はおおむねアメリカと対立する路線を取りました。その結果、2001年のアメリカ同時多発テロをきっかけに完全に敵対する関係となり、2003年にイラク戦争が勃発。フセインは逃亡するも民家に潜伏していたところを拘束され、裁判にかけられました。フセインは湾岸戦争後、反政府運動を起こしたシーア派やクルド人あわせて10万人を虐殺しており、「人道に対する罪」で死刑判決を言い渡され、2006年12月30日に刑が執行されました。

スロボダン・ミロシェヴィッチ (1941-2006)


ユーゴスラビアは「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と呼ばれる多民族国家で、1980年まではチトーのカリスマ性と巧みな政策によって運営されていましたが、チトーが死ぬとボロボロと崩れていきました。やがて、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアが分離し、ユーゴスラビアはセルビア共和国とモンテネグロ共和国、コソボ自治州、ヴォイヴォディナ自治州で構成される連邦国家に姿を変えました。

ミロシェビッチはセルビアの政治家で、ユーゴスラビアからスロベニアなどが独立する際に軍事介入を行い、コソボ自治州の独立運動も軍事力によって抑え込む政策を採りました。他の例に漏れず、ミロシェビッチも対立派を虐殺。最終的にNATO(北大西洋条約機構)軍の空爆を受け、コソボは国連によって管理されることになりました。その後も大統領を続けるべく2000年の選挙にも出馬を予定していましたが、国民の激しい反対運動に遭って退陣。「人道に対する罪」で起訴され、裁判中の2006年に心臓発作で亡くなりました。

ニコラエ・チャウシェスク (1918-1989)


1970~80年代の独裁者として有名なのがチャウシェスク。スターリンの作ったルーマニアの共産党政権の指導者で、独裁者にありがちな恐怖政治、個人崇拝の強要を行っていました。その過激さはスターリンをも上回ると表現され、実際、この時代のルーマニアは西側諸国だけではなく、共産主義の盟主であるソビエト連邦との関係が悪化したほどでした。

チャウシェスクはその姿勢から反ソ連と見られたこともあり、西側諸国から融資を得ることはできましたが、その融資の返済が首を絞めていきます。とにかく債務の返済を考えたチャウシェスクは、国民の食料を配給制にしてまでも農産物や工業製品を輸出(飢餓輸出)、国民は寒さと飢えに苦しむ、東欧最低レベルの生活を余儀なくされました。一方で、チャウシェスク自身は立派な大統領宮殿に住み、家族や親族で政権を支配していました。

しかし、1989年に東欧で共産党政権が次々と倒れたのをきっかけに国民がとうとう蜂起(ルーマニア革命)。チャウシェスク夫妻は逮捕されて軍事法廷にかけられ、即日銃殺刑が執行されました。

ヨシフ・スターリン (1878-1953)


ソビエト連邦は共産党による一党独裁状態であり、その最高指導者は全員独裁者であると言えますが、特にその素質が強かったのがスターリンです。1920年代までソ連の指導者はロシア革命を主導したレーニンが務めていましたが、レーニンは1918年に暗殺未遂事件に遭い、スターリンが実権を握ります。

1924年のレーニン死後、スターリンは指導者の座に就きます。まずスターリンは諜報関係を強化し、人気の高かった部下や自身の反対者らを暗殺したり、陰謀に巻き込んで逮捕・処刑していきました。1936年から1938年に「大粛清」によって約70万人を処刑、スターリンは絶対的権力を手にしました。スターリンの影響力は強く、第二次世界大戦後、東ヨーロッパにいくつもできた共産党政権の成立や、1949年の中華人民共和国建国、朝鮮半島北部への朝鮮民主主義人民共和国建国は、いずれもスターリンがアメリカなどの西側諸国と対立するために作ったものです。

そんなスターリンも、1953年、寝室で脳卒中に襲われます。すぐに対処できればよかったのですが、スターリンは暗殺を恐れて寝室を毎日使い分けており、さらにその鍵は警備担当者しか持っておらず、スターリンを起こしてしまって不興を買ってはいけないと考えた警備担当者が朝になっても何もしなかった、という事態が重なって、発見時にはかなり重篤な状態になっており、倒れて4日後に亡くなりました。

アドルフ・ヒトラー (1889-1945)


チャップリンの映画「独裁者」で風刺の対象になったヒトラー。「独裁者」といえば多くの人がヒトラーの名前を思い浮かべるほどにイメージがこびりついています。

ヒトラーは画家志望でしたが、ドイツの熱烈な愛国者でもありました。やがて、政治活動にのめりこみ、ドイツ国家社会主義労働者党(ナチス)の党首となります。ドイツは1929年の世界恐慌で大きな社会的混乱が起き、共産党が支持を伸ばしました。これを富裕層は恐れ、唯一共産党に対抗できる政党としてナチスを支持。1933年にヒトラー内閣が誕生します。権力を持ってからの動きは素早く、1934年には大統領と首相を合体させた指導者(総統)となり、独裁体制を築きました。

第二次世界大戦の序盤にはヨーロッパに広くドイツの版図を広げたヒトラーでしたが、戦線は膠着、1944年には完全にドイツ劣勢へと傾きます。いよいよ終わりを悟ったヒトラーはソ連軍がベルリンに迫ってきた1945年4月30日、総統地下壕で拳銃自殺を遂げました。

ベニート・ムッソリーニ (1883-1945)


第二次世界大戦ではヒトラーの盟友として戦ったムッソリーニですが、政治家としてはヒトラーよりも先輩です。

もともと社会主義者だったムッソリーニは、第一次世界大戦が起きると反革命に立場を転じ「ファシスト党」を結成して社会主義政党への攻撃を行います。1922年にはファシスト党政権樹立を目論んでローマへ進軍。これが成功し、1925年に独裁政権を確立しました。

独裁者が必ずしも暴君ではないというのは歴史が証明していますが、ムッソリーニも同様で、景気低迷に苦しんでいたイタリアはこの政権下で景気が回復、失業者も減少、治安が改善し、犯罪組織はほぼ壊滅するなどの成果がありました。しかし、1929年の世界恐慌では大きなダメージを受け、財政支出が膨らみます。このあと、イタリアは軍備増強に走り、第二次世界大戦ではドイツ、日本とともに枢軸国として参戦します。

しかし、イタリアの軍備は満足なものではなかったので戦果が挙がらず、ムッソリーニは失脚。北イタリアからスイスへと向かう途中にパルチザンに捕捉され、略式裁判で銃殺刑が決定。1945年4月28日に処刑場で命を落としました。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク (1881-1938)


独裁者はその権力に魅入られてしまうのか、道を誤り、やがて支持を失うというケースが多く見受けられますが、ケマル・アタテュルクは「成功した独裁者」と呼ばれる傑物です。

ケマルが生まれた頃のトルコはオスマン帝国の支配下にあり、ケマル自身もオスマン帝国の士官学校に在学しました。第一次世界大戦でオスマン帝国は敗れ、領土を分割する講和条約を結ばされます。ケマルは領土占領の反対運動の先頭に立って抵抗。新たな講和条約を結ばせることに成功します。若いころから専制政治に疑問を持っていたケマルは、このとき同時に帝国政府の廃止も決定し、自らトルコ共和国の初代大統領になりました。

ケマルはトルコの脱イスラム国家・西欧化を推し進めました。西欧化によってトルコ人は全員姓を持つことを義務づけられましたが、ケマルの姓「アタテュルク」はこの際に議会から贈られたもので、「父なるトルコ人」という意味を持っています。そんなトルコの父、ケマル・アタテュルクは1938年に肝硬変で亡くなりました。

ユリウス・カエサル (BC100-BC44)


そもそも始めに独裁者になったのは誰なのか、というと、シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の主人公としても知られるユリウス・カエサルです。

当時のローマは共和政で、任期1年の執政官2名が政治の最高責任者でした。しかし、国家の非常事態にあって2人の執政官が協議を重ねるのは効率的ではないということで、短期間だけ1人に権力を集中させるシステムが生まれました。これが独裁官です。通常、独裁官の任期は6ヶ月で、対外戦争の時などに任命されてきました。カエサルは、自らの権力を確固たるものにするために、終身独裁官に就任しました。ローマには元老院、民会、護民官と他にも政治を担う役職がありましたが、このカエサルの動きによってそれらは有名無実化しました。

シェイクスピアも描いているとおり、カエサルはこの終身独裁官になって間もなく暗殺されています。しかし、その権力はオクタウィアヌス(アウグストゥス)に引き継がれ、ローマは皇帝を頂点とした帝政へと移行していきます。

ちなみに、カエサル以前にスッラが終身独裁官になっていますが、こちらは共和政ローマを維持するために2年間にわたって様々な制度改革を行ったもので、改革を終えた後は辞任しています。

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