取材

コンゴでマラリアと腸チフスを併発したチャリダーマン、ビザが取れず立ち往生


こんにちは、自転車世界一周の周藤卓也@チャリダーマンです。中部アフリカのガボンからコンゴに入って首都のBrazzaville(ブラザビル)を目指しました。コンゴでは道路の8割が未舗装で、転倒して擦り傷の絶えない毎日でした。ここでマラリア腸チフスを併発し、寝込んでしまいました。病院で点滴を受けたり注射をされたりと治療を受ける、悲惨な状況でした。首都Brazzavilleでは次の国のビザが取れません。厳しい旅となり、大きな決断を迫られました。

コンゴの首都Brazzavilleはこのあたり。

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ガボン南部のNdendeからコンゴの国境を目指します。


交通量は少なく、たまにこうした車が通るくらいです。


ガボン最後のDoussalaの集落を通り過ぎての一枚。ここでガボンの出国手続きを済ませます。


ここがガボンとコンゴの国境でした。コンゴ側の最初の集落のNgongoで入国手続きを済ませました。


ここがNgongoに一軒しかない宿です。ここで1泊していきます。


ベッドがあるだけの簡単な部屋。


でも、蛍光灯と扇風機がありました。電気の無い集落でしたが、この宿は発電機を回していました。


宿の周りを山羊が闊歩しています。


ガボンに比べると道路脇のゴミが増えました。気持ちのよいものではないですね。


宿から数分歩けば綺麗な川がありました。ここで体を洗って、洗濯もすませます。そうしていると子どもたちが木彫りのカヌーに乗って下流へ流されていきました。「なに!探検するの?」子どもたちの顔はいきいきとしていて楽しそうでした。


Ngogoから南に進んで、Dolisieを目指します。

もちろん未舗装路です。


集落を通り過ぎると、村人たちが総出で道脇にならびます。マラソン選手を見守る沿道の観客みたいで、嬉しいやら恥ずかしいやら。


比較的平坦な道が続いたので何とか走りきれました。


緑の中を進みます。


こんな砂場に車輪を取られて、一日に一度は大きく転倒していました。ペダルとシューズが固定されていて、地面に足をつけるのが間に合いません。逆に間に合って足をつけたからこそ転倒せずにすんだという回数は数え切れませんでした。


途中で大きな河も渡ります。


しっかりとした橋が架かっていました。


どこまでも未舗装路。


車どころか人すら見当たりません。


ただ真っ直ぐに、どこまでも伸びる赤土の道がありました。


Dolisieの郊外は工事中で、ロータリーを作っていました。


広がるDolisieの街の郊外。


Ngongo→Nyanga→kibangou→Dolisieという行程でした。

Nyangaでは地元の人に混じって河で沐浴をしました。


その河の近くで、「外国人よ、キャーキャー」と近づいたり逃げたりしていた子どもたち。写真を撮らせてもらったけど、ちょっと表情が硬いですね。


Nyangaで泊まったベッドしかない安宿。


ひっそりとしている明け方のNyangaの街。


こちらもベッドしかなかったkibangouの安宿。


kibangouの安宿ではランプを貸してくれました。町に電気が来ていないので、ランプは灯油を使ってます。はじめてランプを使ったのはガボンの宿でしたが、コンゴではこのように何度かランプを使っています。貴重な経験でした。


こちらも明け方のkibangouの街。Nyangaもkibangouも距離がある上に未舗装路だったので、早朝から走り出さないといけませんでした。


Dolisieの街は大西洋に接するPointe-noireと首都Brazzavilleを結ぶ幹線上にあります。街は綺麗なアスファルトが最近整備されたようで、電気も水道も問題なく、商店にも物がたくさんあります。ガボン南部から道なき道を進んできたので、文明あふれるDolisieの街に到着した達成感は格別でした。

そして、ここで腸チフスとマラリアで寝込みました。お見苦しい姿で申し訳ございませんが、百聞は一見にしかずといいますのでご了承下さい。


Dolisieに着いた翌日から熱が上がり始めて、ニ日目、三日目と寝込んでいました。二日目に高熱となった時点で「これはマラリアに違いない」と治療薬コアルテムの使用を開始します。これで治ってしまう人も居るのですが、なかなか快復しません。「この日で駄目なら病院行く」と決めた翌朝に熱は下がることがなく、一緒に旅をしていた責自さんに「ごめん病院行く」と頼んで付き添ってもらい、タクシーに乗り込んで病院へ向かいました。ベッドの上に載せられて点滴や注射やら治療を受けました。血液検査の結果はマラリアと腸チフスでした。医師は「お腹壊していないか」と聞いてました。下痢が酷い状態でした。これが腸チフスで、そのせいで熱が下がらないわけです。

経過を振り返ると
1日目:36℃から38℃くらいまで上がる。熱はあるのに元気で一日動いていた。
2日目:40℃付近の高熱で寝込む、マラリアの治療薬のコアルテムの服用を開始。
3日目:40℃付近の高熱が続いて寝込む。明日の朝に熱が下がっていなければ病院にいくことを決める。
4日目:朝に熱が下がっていなく、病院で診察をして点滴や注射の治療を受ける。

責自さんが病院の中にある薬局で薬をそろえてくれました。


原因として考えられるのは、調子に乗ってどんどん飲んでいた井戸水。


副因としては、
・50km、50km、90km、100kmと4日間にわたって未舗装路の走行が続いたこと。特に最後のニ日間は距離もあり厳しい走行でした。
・この4日間、たいした物を食べなかったこと。走行途中の集落には食堂も見つからず、朝も昼もチーズにパンといった具合でした。
・コンゴに入ってから瓶ジュースと瓶ビールの値段が同じになってしまい、どうせ飲むならと割安のビールを選んでいたこと。いつもはそこまで飲まないのに、毎日一本瓶を開けていたので、肝臓に負担がかかっていたかもしれません。

治療で使う注射器


診察の後は入院することなくホテルへ戻り、安静にしていました。マラリアは4日間病院に通って、お尻に治療薬の注射を打ってもらい、腸チフスはシプロフロキサシンという強力な抗生物質の内服で治療していました。病院に行ってからは快方に向かいます。結局9日間もDolisieにいました。

ですが、腸チフスは事前に予防接種ができました、モロッコの日本大使館でも勧められています。事前情報があった髄膜炎は予防接種したのですが、腸チフスはしませんでした。それが、この結果です。多少、面倒でもやっておくべきでした。西アフリカで高熱が出ると、まずマラリアを疑います。それが腸チフスによる高熱だったら、判断が混乱します。大きな都市できちんとした病院があったから良かったものの、田舎の集落で発症していたらと思うとぞっとします。

また、
・一緒に旅している責自さんがいてくれたこと。誰かいてくれると心強いです。
・街に入る前に郊外にある病院を見ていたこと。新しく建てられた建物はヨーロッパみたいで安心できました。
・同行していた責自さんがカメルーンでマラリアの疑いで入院していて、費用も目安がついたこと。
・病院にキューバから派遣されている医師がいて、中南米を旅してスペイン語に堪能な責自さんとコミュニケーションが取れたこと。おかげで詳細な病状が分りました。
と、状況も恵まれていました。

西アフリカを旅するチャリダーはかなりの高確率でマラリアにかかっています。だから、自分もマラリアの特徴である高熱を測る体温計とマラリアの治療薬コアルテムを携帯していました。ですが、腸チフスにかかるとは考えてもいません。病院に行くまでは高熱と下痢と吐気で食事も取るに取れない状況で体力が落ちていき悲惨な状況でした。


西アフリカで流行している熱帯熱マラリアはマラリアのなかでも迅速かつ適切な対処をしないと、重症化し死に至る危険性があります。実際に近い時期に西アフリカを旅をしていた日本人夫婦が、フライト直後に南米のボリビアでマラリアと思われる症状で命を落としています。だからこそ、いろいろと書かせてもらいました。アフリカを旅する際には髄膜炎、腸チフス、マラリアと病気に関しては、しっかりと構えていってください

回復したところで首都のBrazzavilleを目指します。Dolisie→Nkayi→Loutete→Mindouli→kinkala→Brazzavilleという行程でした。

ガボンみたいな熱帯雨林は広がっていなく、草地が広がる寂しい光景でした。


路面がしっかりしているので、走りやすい未舗装路。


Dolisieからkinkalaの街まで未舗装路が続きます。


まったく信じられない状況でした。


というのも、DolisieからBrazzavilleまでは幹線です。日本でいうなら国道1号線で名古屋から東京にあたるようなところ。鉄道は走っているのですが、道路は未だに舗装されていません。内戦があったとはいえ、その状況が理解できませんでした。同じように内戦のあったカンボジアや東ティモール、シエラレオネの幹線は舗装されていましたし……。ガボンもそうでしたが、独立してから何をやっていたかは気になるところです。ただDolisieからBrazzavilleまで、中国主導の道路工事が始まっています。大西洋に接するPointe-noireからDolisieまでは舗装が済んでいました。

いい形をしていた教会。


怪しいチャリダーさんの来訪にはしゃいでた子どもたち。なぜか小鳥を持っていました。


ボロ小屋で休憩中にのぞいてきた子どもたち。


そんな子どもたちと一緒に写真を撮ると和みますね。


こちらも休憩中に様子をうかがっていた子どもたち。カメラを取り出すと、ポーズを撮って構えてくれました。力強い構えです。


道路の隣を走る線路を超えないとMindouliの街に入れません。


話しかけてきた女の子たち。


ここも内戦の傷跡でしょうか。荒れ果てているMindouliの駅舎。


Dolisie→Brazzavilleの間は、Ngongo→Dolisieの間よりアップダウンがあって大変でした。砂地で上り坂だと、どうにもなりません。


砂が深いと自転車に乗っていられません、降りて押さないといけませんでした。砂に埃に汗が混じって、信じられないほどに汚れています。


首都Brazzavilleから75km手前のKinkalaでようやく舗装路になりました。ここからBrazzavilleまでは舗装されています。Dolisieから4日間の未舗装路も終了しました。お疲れ様でした。


コンゴは内戦が終ったばかりで、荒れ果てた町が多かったのですが、国は落ち着いていました。過去の旅行者の記録には、賄賂要求の警官や強盗被害の話があり、かなり心配していたのですが何も問題は起きませんでした。明るい子どもたちや素朴な人たちに囲まれて楽しかったです。大人も子どもも道脇に並ぶ姿なんて、今までなかったですから。

世界一周を計画していたころのコンゴは、内戦をしていて、旅することができない国でした。でも、平和になった国をチャリダーは颯爽と駆け抜けていきます。東ティモール、コソボ、シエラレオネに続いてコンゴも走ることができて良かったです。今は走れないイラクやアフガニスタンなんかも、いつしか走れるようになるでしょう。世界中を自転車で走れるようになることがチャリダーとしての願いかもしれません。

内戦の傷跡が残るDolisieの建物。


コンゴのBrazzavilleから、コンゴ民主Kinshasaへ進む予定でした。この二つのコンゴは別々の国です。Kinshasaのあるコンゴ民主は旧ザイールといったら分かりやすいでしょう。旧ザイールは面積約234万平方キロメートル、人口約6300万人とアフリカ中央に位置する大きな国です(コンゴは面積約34.2万平方キロメートル、人口約370万人)。この紛らわしい二つのコンゴのを区別するため、コンゴブラザビル、コンゴキンシャサと首都名を後に付けたり、英語ならBrazzavilleをCongo、kinshasaをDemocratic Republic Congoを略してDRCと呼んでいます。日本だとコンゴ共和国と、コンゴ民主共和国になるでしょうか。今回はBrazzavilleをコンゴ、Kinshasaをコンゴ民主と呼ばせてもらいます。

Brazzavilleで滞在していた宿。


Brazzavilleに着いた翌日に、コンゴ民主の大使館にビザの申請へ行くと、「次のアンゴラのビザを手に入れたら、ビザを出してやってもいい」と言われました。トランジットを取るわけでもないのに、ツーリストビザでこの条件です。カメルーンの首都Yaoundeと同様に簡単にビザが取れなくなってました。ですからアンゴラビザの取得を試みますが、こちらもこちらでどうにもなりません。問題のある国ほど、ビザは簡単に取れないのです。

コンゴ民主は11月に大統領選挙、国政選挙を控えていました。現在コンゴ民主のビザが取れないのはこれが原因でしょう。1997年に独裁者モブツを追い出した反政府ゲリラの頭目ローラン・カビラが大統領になりました。ですが、彼は護衛兵によって殺されてしまいます。現在の大統領はその息子ジョゼフ・カビラで、2006年には選挙によって大統領に選ばれています。2006年は内戦が終って最初の選挙だったため、今年の選挙は二回目になります。広大な国土を持つコンゴ民主はダイヤモンドやコバルトなど世界有数の資源国であり、かつコンゴ動乱など、古くから他国に翻弄されてきた歴史があります。こんなに不安定な選挙は他にはないでしょう。だからこそ、外国人には見せたくないのかもしれません。何が起きるか分かりませんから。

ザイール河の向こうはコンゴ民主の首都Kinshasa。すぐ傍にあるのに届きませんでした。


ビザが取れなくて立ち往生するのは2度目の経験です。2008年5月北京オリンピック前の香港で中国ビザが取れませんでした。返還によって香港と中国は同じ国となったのですが、一国二制度のもと今でも国境があります。そして、香港は通常なら簡単に中国ビザが取れる場所でした。日本人が中国を旅行する際、2週間までならビザは必要ありません。ベトナムから中国南部に入って2週間で香港にやって来ました。香港から上海か青島まで走って、船で日本に帰る計画だったのですが、ビザはどうにもなりません。ビザ無しでの2週間では期間が足りず、香港から地元の福岡まで飛行機で帰りました。あの時の香港も、中国がすぐ傍にあるのに届かなかったわけです。

そして、今回も飛ぶことに決めました。


2009年の5月に日本を出発して、このBrazzavilleまでは自転車の轍をつなげてきました。たまに「日本から走ってここに来た」と言うのは何よりの旅の実感でした。それが、ここで切れてしまうのは残念です。でも仕方ありません。気持ちを切り替えて新しいところを走ります。

東アフリカに向かいました。

(文・写真:周藤卓也@チャリダーマン
自転車世界一周取材中 http://shuutak.com
)

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in 取材, Posted by logc_nt

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