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世界で最も売れなかったゲーム機「ピピンアットマーク」はどうして失敗してしまったのか?

by Flávio Dechen

1972年にマグナボックスから「オデッセイ」が発売されて以降、家庭用ゲーム機は世代を重ねながらさまざまな機種が登場しました。1980年代に発売された任天堂のファミリーコンピュータやセガのメガドライブなどは、今なおレトロゲームファンから人気の高いゲーム機ですが、一方で家庭用ゲーム機の長い歴史の中に埋もれてしまい、人びとの記憶から失われつつある不遇のゲーム機も存在します。その一例として「ピピンアットマーク」が、技術系メディアのars technicaで紹介されています。

The Mac gaming console that time forgot | Ars Technica
https://arstechnica.com/gaming/2018/03/the-mac-gaming-console-time-has-forgot/


1993年中頃、Appleは、6億ドル(約630億円)の費用を投入して開発したレーザープリンター・カラーモニターなどが全て不振に終わり、業績は低迷していました。1993年当時のPC市場ではAppleのシェアはおよそ12%でしたが、AT互換機はMacintoshの10倍の売れ行きを見せ、Appleのシェアはどんどん縮小していく一方でした。起死回生の策として出したPDA端末「Apple Newton」はPDAとしては大きすぎるサイズ・操作性の悪さなどで酷評を受け、完全に失敗に終わりました。

by guccio@文房具社

そこで、それまでAppleが占有していたMacシステムのライセンスを解放し、Apple以外の企業もMacintoshのハードウェアを製造できるようにし、同時にMac OSに対応したゲームソフトを市場に投入することで、市場のシェアをMicrosoftから奪うことができるだろうと、Appleの取締役や経営幹部は考えました。なお、Apple創立者の一人であるスティーブ・ジョブズはこの時既にAppleから追放され、取締役から退いています。

そんな時、マッキントッシュOEM製品のディレクターであるエリック・サーキン氏は、日本のおもちゃ会社であるバンダイからMac OSベースのゲーム機を作りたいというアプローチを受けました。

1994年、バンダイはパワーレンジャーをアメリカでヒットさせ、関連商品の売上げから約3億3000万ドル(約350億円)の利益を得るなど、順調に世界的大企業へ成長していました。創業者の長男である山科誠氏は、バンダイを単なるアクションフィギュアのおもちゃ会社としてではなく、ディズニーや任天堂のようなグローバルエンターテインメント企業としてマルチに展開させていく構想を描いていました。バンダイは「セーラームーン」「ドラゴンボール」「パワーレンジャー」など、自社が抱えているキャラクターのゲームをプレイできるMac OSベースのマルチメディアマシンの開発を計画したというわけです。

by heath_bar

そこで、サーキン氏は日本へ飛び立ってリサーチを行い、バンダイと話し合いを進めて、「ピピンプロジェクト」を立ち上げました。しかし、Appleのゲーム機開発担当部署であるパーソナルインタラクティブエレクトロニクス(PIE)が、日本の企業とのゲーム機製造に全く乗り気ではありませんでした。そのため、Appleは携わるのはハード開発の協力のみで、製造・マーケティング・ブランディングには一切関与しないという契約を交わしました。

しかし、Appleとバンダイは計画当初から足並みがそろいませんでした。バンダイは「安価でMacに互換性のあってインターネットが可能なマシン」というコンセプトを掲げていたのですが、「インターネットは金にならない」と考えていたAppleはこのコンセプトに懐疑的だったとのことです。さらに、「他社製の安価なMac互換機によって現行のMacintoshの売上げが下がるようなことがあってはいけない」と考えていたため、ハード開発の段階でAppleが現行のMacintoshに近いシステムを要求し、予定よりもコストが跳ね上がってしまいました。


Appleとバンダイの意思疎通がうまくいかなくなることで、プロジェクトはより複雑になっていき、十分な成果を出すには納期が短すぎるとソフトウェアのエンジニアがストライキを行ったとのこと。にもかかわらず、サーキンさんは現場でスタッフをやりくりして、自らも残業をしまくることでなんとか納期内に「ピピンアットマーク」を完成させ、なんとか生産のめどが立ちます。そのかいもあって、発売前のモニターには10万人の応募が集まり、ピピンアットマークは注目を集め、乗り気ではなかったAppleの経営陣も注目するようになりました。

発表会でのピピンアットマークの紹介スピーチの後、サーキンさんはとあるゲーム開発者から「このゲーム機はインターネットデバイスなのでしょうか?それとも新しいゲーム機なのでしょうか?」と質問をぶつけられましたが、サーキンさんは答えることはできなかったとのこと。サーキンさんら現場で開発に関わっていたメンバーの目にはピピンアットマークは非常に優れたマシンに映りましたが、現実にはPlayStationセガサターンよりもゲームの性能は劣っており、普通のPCやMacintoshほどのコンピューティングパワーもないという、どっちつかずなマシンになってしまっていたのです。


ピピンアットマークは日本では、モデム内蔵式のモデルが1996年3月に税別6万4800円で、モデムや一部付属ソフトを外した単品版が1996年6月に税別4万9800円で発売されました。なお、2年前の1994年に発売されたPlayStationの税別3万9800円、同じく1996年に発売されたNINTENDO64の税別2万5000円という価格と比較すると、ゲーム機としてはかなり強気な価格設定といえます。

アメリカで同時発売されたソフトは、「アニメデザイナー ドラゴンボールZ」「GUNDAM TACTICS MOBILITY FLEET0079」などのバンダイの版権を用いたゲームや海外ゲームの移植作の他、百科事典ソフトやインターネット接続用のソフトなど、「マルチメディアマシン」の名にふさわしく幅広いジャンルのものでした。また、Mac互換性によってMac OS向けのゲームタイトルも一部遊ぶことが可能となっていました。しかし決め手となるようなキラータイトルに恵まれませんでした。


バンダイは「ピピンアットマークは50万台売れるだろう」と見込んでいたそうですが、結果的にこの予想は全く達成されませんでした。それどころか全世界で4万2000台という売上げで、世界で最も売れなかったゲーム機という不名誉な称号で後世まで語り継がれることになります。バンダイ側は累計で260億円の損失を出し、ピピンプロジェクトは1997年3月に解散となり、Appleは4100人の従業員を解雇しました。このあまりにも大きすぎる失敗の原因には、強気な価格設定・中途半端な性能・貧弱なソフトラインナップ・電話注文を中心とした独特の販売方式が上げられています。

最初から最後までその開発に携わっていたサーキンさんは「ピピンアットマークは失敗してしまいましたが、当時のAppleではその失敗も致し方ありません。Appleが本腰を入れて開発を行い、第二世代・第三世代と新機種を重ねていれば、成功した製品に違いません」と主張しています。

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in ゲーム, Posted by log1i_yk

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