色仕掛けで機密情報を盗み出す「ハニートラップ」を第2次世界大戦時に実行したMI6の美女スパイ
By Lindsey Martin
映画や小説で美女スパイがハニートラップを仕掛けるというストーリーがありますが、フィクションではなく本当にハニートラップを実行して敵の重要人物を誘惑し、世界大戦時の戦局を左右するほどの実績を挙げていたMI6の美女スパイ、ベティ・パックについてAtlas Obscuraが取り上げています。
The Brilliant MI6 Spy Who Perfected the Art of the 'Honey Trap' | Atlas Obscura
http://www.atlasobscura.com/articles/the-brilliant-m16-spy-who-perfected-the-art-of-the-honey-trap
「シンシア」というコードネームを持つベティ・パックは、イギリスの情報機関であるMI6の女性スパイとして活躍していました。ハニートラップで標的に接触してピロートークで情報を盗み出すというまさに女版ジェームズ・ボンドとも言える彼女は、第二次世界大戦時に数十年間知られていなかったフランス・イタリアの海軍の暗号を入手するなどの多大なる実績を挙げました。この働きで連合国が枢軸国をリードすることになり、最終的に戦争の勝利にも貢献したことになります。
もともとベティはイギリス人ではなく、1910年にアメリカ・ミネソタ州で生まれました。ベティはまだ少女の頃から周囲の大人を魅了するほどの容姿を持ち、11歳のベティに心を奪われたイタリアの外交官が話をするために学校を訪れることもあったそうです。大きく優しい青い瞳と悩ましい声、金髪がかった赤毛を持ち、10代のころから背が高く大人びて魅力的だったベティは、スパイの素質を生まれつき備えていたといえます。
高校生になったベティは奔放な男女の愛に目覚め、日記に「最も素晴らしい喜びとは男女が共に過ごすこと」と記すほどだったそうです。その結果ベティは19歳で妊娠することになり、誰が父親かもわからなかったとのこと。ベティの環境では「10代の未婚の母」は社会的な死と同じ意味合いを持っていたため、彼女はある作戦を立てました。それは週末のパーティーで知り合ったイギリス大使館の外交員であるアーサー・パックを誘惑することで、ベティは2倍以上年の離れたアーサーを誘惑し、既成事実を作ったわけです。
これがきっかけで2人は1930年に結婚しましたが、子どもと血のつながりがないことに気付いたアーサーは、ベティの子どもをイギリスで里親に出すことを強要。これがきっかけで夫婦仲は冷え切り、ベティは婚外関係を持つようになりました。トライリンガルだったベティは、アーサーの仕事でチリやスペインに滞在中に外交的な妻としての役割を果たす中で、情報収集のスキルを磨き始めたとのこと。
ベティ夫妻がスペインにいた1936年、スペイン共産党政府を支持する選挙が起こったのですが、ベティの知り合いを含む聖職者グループが監禁されてしまいました。ベティの知り合いの聖職者が投獄された時、ベティはローマ法王の教皇使節(教皇庁の外交使節)との面会をセッティングし、友人を解放するよう説得したとのこと。これは危険な活動でもありましたが、最終的にベティは監禁されていた多くの聖職者らをスペインから国外逃亡させることに成功。内戦勃発に伴ってスペインを離れたベティでしたが、恋人だったスペインの貴族が投獄されたことを知り、スペインに戻って恋人を釈放する工作も成功させています。
1938年にベティはアーサーの新しい赴任先であるポーランドに移住しました。冷え切った夫婦関係に孤独を感じていたベティは、ポーランド外務省で働く男性と知り合ったのですが、彼はベティと親しくなると、ポーランドが秘密裏に資金をドイツに送金していることを漏らしました。この話に危険を感じたベティはイギリス大使館に赴き、情報機関のトップだったジョン・シェリー氏に事情を説明。スペインでの活躍を含め素質を見抜かれたベティは、正式にスパイとしてMI6へ参加することになったわけです。
ベティがスパイとして初めて与えられたミッションは、ポーランドの外務大臣だったユゼフ・ベックおよびミカル・ルビンスキ伯爵から情報を得るというもの。セッティングされた外交パーティで2人はすぐに恋人関係になり、ベティは「ピロートーク」で得た彼の悩みを報告書に書き出していきました。この貢献が大きく認められ、「ハニートラップ」はベティのスパイとしての主要な武器として知られるようになったわけです。ベティはルビンスキから、イギリスが数十年間突破できていなかったドイツの暗号機をポーランドがすでに解読していることを突き止めるという功績も残しました。
ベティの情報からイギリス政府はポーランドに情報を公開させることに成功したのですが、ポーランドの協力なしでは、アラン・チューリングがコンピューターを完成させることはできなかったと言われています。
ほかにもベティはプラハでドイツ人の政治家だったコンラート・ヘンラインのオフィスから情報を盗み出すミッションを受け、ハニートラップを使ってドイツが中央ヨーロッパに侵攻する3年分の計画を記した地図などの非常に貴重な情報を盗み出すことにも成功しています。
この頃ベティは夫のアーサーと小さな娘と別れ、幼年期の実家であるワシントンD.C.にフリーランス・ジャーナリストの「エリザベス・トーマス」として帰国。ベティの社交界に侵入するスキルはイギリスの諜報機関でも認められており、より大きな仕事も任されるようになりました。ベティはこれ以降の期間を「人生で最も幸福な時期」と話しており、イタリア海軍やフランス海軍の暗号を盗み出すことに成功するなど、第二次世界大戦の戦局を変えるほどの功績を収めました。
なお、フランス大使館に侵入するために近づいた大使館の広報担当のチャールズ・ブッシュとベティは、「ハニートラップ」ではなく本当にお互いを愛し合うようになり、ベティはスパイであることをブッシュに明かしました。その結果、ブッシュは母国に背いて連合国に採用されることになり、フランス海軍の暗号を受け渡したとのことです。2人はまるで映画のようにペアでスパイとしての仕事をこなし、金庫への侵入に気付かれて見張りがやってきた時には、裸になって情事を装うことでその場を切り抜けたこともあったそうです。
スパイを退職した2人は結婚し、ピレネー山脈の中世の城で暮らしたとのこと。ベティは1963年にがんを患って亡くなりましたが、死ぬ直前に「今までの行いで恥じることはあったか」と尋ねられました。問いに対してベティは「恥じる?私の仕事の成果として、少なくとも数千万人ものアメリカ人とイギリス人の命が救われたと上官は言っていました。私が携わったことは『立派な女性』なら後ずさるようなものです。しかし、戦争とは『立派な方法』では勝てません」と言い残したそうです。
・関連記事
史上最も偉大な二重スパイ「ガルボ」がノルマンディ上陸作戦を成功に導くまでの道のり - GIGAZINE
CIAの元工作員である女性がスパイになった理由・任務・訓練などを明らかにする - GIGAZINE
放射性物質を使ってのスパイ暗殺疑惑と事件の背景とは - GIGAZINE
元スパイが恐怖の自動車ハッキングを実演、ブレーキやハンドルを操作するなど何でもあり - GIGAZINE
CIAが敵の組織を破滅に追いやるために潜入スパイに実行させた「愚者の心得」をまとめたマニュアル「Simple Sabotage Field Manual」 - GIGAZINE
・関連コンテンツ