取材

織田信長が城攻めで作った可能性が高い佐和山城近辺の遺跡を見てきた


滋賀県彦根市にある松原内湖遺跡の発掘調査で、「堀切」や「竪堀」と呼ばれる遺構が見つかりました。これらは状況から考えて、遺跡の南側にある佐和山城に磯野員昌が立て籠もった際、織田信長が作ったものである可能性が高いとのことなので、見に行ってきました。

公益財団法人滋賀県文化財保護協会
http://shiga-bunkazai.jp/

松原内湖遺跡の発掘調査現地説明会開催のご案内 | 公益財団法人滋賀県文化財保護協会

まずは最寄り駅であるJR彦根駅に到着。


2014年11月30日に終わったはずの「彦根城フェス」のひこにゃんバナーがぱたぱたと風に揺れていました。


駅前の通りを西に向かって歩いて行くと、すぐに彦根城が見えてきます。しかし、今回目指すのはこのお城ではありません。


北東側に目を向けるとこんもりとした山があります。これが佐和山で、ちょうど山の頂上の平になった部分に佐和山城がありました。織田信長がこの佐和山城を攻めるときに作ったものだと考えられる遺構が見つかったのが、今回目指す松原内湖遺跡です。


彦根市合同庁舎の東側を通る道を道なりに北の方へ向かうと、「佐和山城趾」への案内板が出てくるので、これを右折。


踏切を渡ったところに石垣と「佐和山城跡」の看板が見えていますが、城に登るので、踏切を渡った後は左折。


ここはお寺や神社が並ぶ通り。


その奥のほうにあるのが「弘德山龍潭護國禪寺」(龍潭寺)。


お寺の向かいに「佐和山城跡」の案内板が立っています。


「佐和山城跡遺構概要図」の右上に描かれているのがここ、龍潭寺。境内を通って登山道が西の丸方面へ伸びているので、これを上がっていこうとしているわけです。なお、本来の城の正面は東側で、国道8号線沿いに登城口があるのですが、龍潭寺側の道に比べて整備されていないため今回は諦めました。


境内にはのちに佐和山城に入った石田三成の像が。


ともかく、この「佐和山ハイキングコース」を歩いて行けば城跡に着くはず。


観音堂の横手を抜けていきます。


墓地を抜けていく道ですが、これで合っています。


寺の境内は舗装されていますが、すぐに非舗装でアップダウンの激しい道になります。曲がりなりにも「山の城」なので、最低限、歩きやすい靴と服装が必要。


上りの勾配はなかなかのものが続きますが、15分弱あればこの分岐点まで来られるはず。


この辻は、龍潭寺側から上がってくると左が大洞弁財天、右が佐和山城跡へと続きます。なお、山全体が麓にある清涼寺の境内なので、団体だと入山許可状が必要だとのこと。


このあとも城跡へは上りが続きます。


塩硝櫓跡は整備中らしく、立ち入り禁止でした。


そこからちょっと上がると、平たくなった小さな広場状のところが西の丸跡。


ここは本丸から見て北西側。調査の結果、このあたりからは曲輪・土塁・竪堀などが見つかっています。


西の丸からもうちょっとがんばれば山頂、本丸跡です。おおよそ15分で山頂に到着、距離は1kmで、ゆっくり上がっても30分ほどの距離です。


略図で見るとこんな感じ。……略しすぎのような……。


標高は232.9m。城の施設をあらかた破壊する「破城」が行われたとみられていて、石垣など一部は残されていますが、櫓などの施設は一切残っていません。


ただ、非常に景色がよく、「武士の夢 佐和山」と書かれた看板の方向には……


彦根城が見えています。写真右手、緑に覆われているあたり。


さらに左側に視線を移すとJR彦根駅(写真左寄り・枝と重なる部分)も見えています。


南側に連なる山はゴルフ場になっていました。


東側はこんな感じ。右寄りに見える白くて高いタワーはフジテックエレベータ研究塔。高さは170m。


眼下を貨物列車が通過していきました。この佐和山丘陵が江北・江南の境目だったとのことで、要衝として名だたる武将たちが入っていたのもわかる気がします。


これは北西のほうを向いたところ。中央左寄りに近江高校があり、下の方は斜めにJR線が走っています。ちょうどこの写真に写っているあたりに、かつて「松原内湖」という湖があって、写真右手側のほうに松原内湖遺跡がある、という位置関係です。内湖は1944年から戦後にかけて干拓され、高校の敷地や水田などになりました。


佐和山城を確認したところで、山を下ります。


写真左手側が佐和山城跡、正面が先ほど上ってきた龍潭寺側、右が大洞弁財天。手前向きに「鳥居本」と案内が出ていますが……


道は落ち葉で埋もれていました。この、鳥居本方面から龍潭寺まで抜けていた道が「かもう坂通り往還」、通称「龍潭寺越え」です。


今回は時間があったので、大洞弁財天の方から回ってみることにしましたが、先ほどよりもアップダウンが激しく、早々と後悔する羽目に……。山歩きに慣れている人であれば、そう苦しむようなコースではありません。


こちらの道は「東山ハイキングコース」だそうです。


峠を過ぎて下っていくとき、北の方に東北部浄化センターが見えます。このセンターの北側が松原内湖遺跡。


ぐるっと大回りして、15分ほどで大洞弁財天境内の裏手に到着。


裏から出てきたので、目の前にある建物は奥の院。


石段を1つ下ったところにあるのが長寿院弁才天堂。戦国時代ではなく、彦根藩4代目城主・井伊直興が元禄8年(1695年)から翌年にかけて建立したもの。


龍潭寺に向かったときとは別の踏切を抜けて、遺跡を目指します。


てくてくとJRの線路沿いに北へ向かうと、陸橋が見えてきます。


この陸橋が東北部浄化センターへと向かう道。


右手側に広がるのが浄化センター。


その奥の方にあるのが遺跡です。


いざ、現地へ。


なんてことはない斜面のように見えますが……


上の方には「竪堀(たてぼり)」が顔を見せています。ここが何の遺構なのかということは、直接的な物証は出ていないのですが、姉川の戦いの後、佐和山城に籠もった磯野員昌を織田信長が攻めたときに作ったものである、という可能性が状況から考えると高いであろう、とのことでした。


足元がぬかるんでいることもあって人数を区切りながらでしたが、ちょうど「堀切(ほりきり)」と「竪堀」の境目あたりを渡るように設けられた足場を渡って、間近で見られることに。


この斜め下からのアングルだと全体像がよくわかりませんが……


近づいていくと、尾根がざっくりと抉られているのがわかります。これが「堀切」と呼ばれるもの。城に籠もった兵士が移動するとき、丘陵地なので尾根伝いに移動するのが早いため、その動きを阻害するために尾根を削り取っているわけです。


深いところだと3mほども掘り下げられているとのこと。


その堀切からほぼ境目なく斜面へと続いていくのが「竪堀」。堀切と同じように、地表を掘り下げることで移動の阻害を狙ったもの。等高線に対して垂直方向に掘られています。


下から見上げるとこんな感じ。なお、二筋の竪堀があるように見えますが、中央は地層の重なりを確認するために残してあるもので、本来は一筋の太い竪堀が掘られていました。両脇は岩がそのまま残され、さらに残土を積み上げて土塁のようにしていたのではないかとみられています。


登った足場から反対側を見ると谷のようになっています。竪堀は続いていないように見えますが……


調べによると、はるか遠くにある鉄塔のあたりにも堀切が確認されているため、ここを結ぶように鹿垣(害獣などの移動を阻害するための垣根)が設けられていたのかもしれない、とのこと。


なお、竪堀~堀切に続くラインから斜めに向けても掘り下げられた部分があります。


この「斜め堀」がなぜ掘られたのかは今のところわかっていないのだそうです。


ちなみに、堀の上の方は古墳時代後期の石列を壊して掘られています。


松原内湖の遺跡は、昭和58年(1983年)に東北部浄化センターが作られるときから発掘が進められていて、古代の営みの形跡が見つかっているのですが、今回は戦国期のものとみられる遺構だったので大々的に発表が行われたのだそうです。ここには(PDFファイル)国道8号線米原バイパスが建設される予定で、その際には遺跡は埋め戻されるのではないか、とのことでした。


遺跡入口に立てられていたプレハブの中では出土品の展示が行われていました。


出土したのはこんな品々。古いものだと古墳時代の須恵器があります。白磁の壺や天目茶碗などは江戸時代、このあたりが里山になってからのものだとみられています。江戸時代のものが、堀切・竪堀が廃棄されたあととみられる部分から出土したことで、この遺構が古墳時代から江戸時代にかけてのものであろうという推測がなされ、諸々の状況から、信長の佐和山城攻めに際して作られたものであろう、と絞り込まれたわけです。


遺構自体はこれでおしまいですが、それだけでは何なので、米原バイパスのほうはどうなっているのか、見に行ってみることにしました。遺跡の西側にはJR琵琶湖線が、さらにその西側を滋賀県道329号彦根米原線が通っています。


その県道329号線に向けて、ぐにゃっと合流しているのが米原バイパスです。


南から進むと、まっすぐ県道329号を行けば米原市街地へ入りますが、左折して米原バイパスを通れば敦賀や長浜へショートカットできます。


地図でみるとこんな感じ。米原と彦根を結ぶ主要な道路としては佐和山の東を走る国道8号線がありますが、渋滞が激しいため、米原市街地を迂回するように作られました。この先、東北部浄化センターの北側をかすめるようにして山を抜け、鳥居本のあたりで国道8号線に合流する予定。


この地点で振り返り、バイパスの延長線上を見てみるとJRの向こうに草に埋もれたトンネルの姿が……。


位置関係はかなりざっくりですがこんな感じ。現地で小耳に挟んだ情報によると、国鉄時代、昭和30年代ぐらいまでは線路がこのトンネルを通っていたのだとのこと。


松原内湖遺跡を見学したとき、谷のようになっていた部分がありましたが、ここは旧線跡だったらしい、というわけです。その痕跡として、写真正面の斜面にはまだうっすらと法面のようなものが残っています。


ちなみに、このあたりはおおよそながら米原と彦根の中間点あたり。どちらに向かうのも辛いところだったので、同じ辛いなら物珍しい方向へ……と考えて東へ向かった結果、佐和山城から見下ろしたフジテックのエレベータ研究塔の横を通ることになりました。


松原内湖遺跡から歩くこと45分、近江鉄道のフジテック前駅に到着。……これなら、米原までまっすぐ歩いた方が早かったかも。


しかし、こちらまで歩いてきたおかげで、佐和山城跡の手前を走る新幹線を見ることができました。


フジテックのエレベータ研究塔は新幹線からもよく見えますが、その前を走って行く新幹線を見る、というのも乙なもの。


この、松原内湖遺跡の調査結果などを含む、平成26年度滋賀県発掘調査成果報告会が2015年3月7日(土)にコラボしが21の3階大会議室で行われます。9時受け付け開始で、9時30分~16時30分。事前申し込みは不要、参加費無料です。

報告会では松原内湖遺跡のほか、甲賀市の水口岡山城遺跡・貴生川遺跡、栗東市の下鈎東遺跡・手原遺跡、大津市の南滋賀遺跡・穴太遺跡、彦根市の名勝玄宮楽々園、長浜市の神照寺坊遺跡、近江八幡市の金剛寺城遺跡・八反田遺跡についての発表が行われるので、興味のある人は足を運んでみて下さい。

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in 取材, Posted by logc_nt

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