「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーにまつわる8つのワイルドなエピソード
アメリカの理論物理学者であるロバート・オッペンハイマーは第二次世界大戦中に連合国側の原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画を主導し、「原爆の父」として知られます。アメリカで2023年7月21日(金)にクリストファー・ノーラン監督による映画「オッペンハイマー」の公開が控える中、「オッペンハイマーにまつわる8つのワイルドなエピソード」について科学系メディアのLive Scienceが紹介しています。
8 wild stories about J. Robert Oppenheimer, the 'father of the atomic bomb' | Live Science
https://www.livescience.com/physics-mathematics/8-wild-stories-about-j-robert-oppenheimer-the-father-of-the-atomic-bomb
◆1:ブラックホールの存在を初めて提唱した
オッペンハイマーは天体物理学の領域でも活躍しており、白色矮星(わいせい)の特性や中性子星の質量限界の計算といった先駆的な研究を行っていました。中でも注目すべきなのが、指導学生だったハートランド・スナイダーと共に1939年に発表した「On Continued Gravitational Contraction.(継続的な重力収縮について)」という論文であり、オッペンハイマーはこの論文中で宇宙のどこかに重力崩壊した星が存在すると提唱しました。これはブラックホールの存在を初めて理論的に示したものでしたが、その後オッペンハイマーは原爆開発のために招集され、宇宙の研究からは退きました。
◆2:アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と呼んだ
オッペンハイマーは非常に優れた知性と学習意欲を持っていましたが、政治的な争いには向いていなかったといわれています。アメリカ共産党と関係が深かったオッペンハイマーは、プリンストン高等研究所の所長だった1954年にジョセフ・マッカーシー主導の赤狩りの対象となり、原子力委員会によって休職処分とされてしまいました。
この際、アルベルト・アインシュタインは原子力委員会による調査や公聴会にさらされずとも、ただ立ち去ればいいと進言したそうですが、オッペンハイマーは所長の座にとどまって戦うことを選択しました。これに対してアインシュタインはある日、オッペンハイマーのオフィスを訪れて、秘書に対して「narr(ドイツ語で『バカ、愚か者』という意味)がいるぞ」と言ったとのことです。
◆3:確執のあった教授をリンゴで毒殺しようとしたと証言されている
オッペンハイマーはイギリスのキャヴェンディッシュ研究所で物理学の博士号取得に向けた研究を行っていた頃、感情的な問題や孤立感の高まりによってうつ病が深刻化していたとのこと。オッペンハイマーは理論系に才能があったものの、指導教官のパトリック・ブラケットによって実験系の作業を強いられたことで、さらに精神的に不安定になっていたそうです。
大学時代のオッペンハイマーの友人だったフランシス・ファーガソンは、当時のオッペンハイマーは「有害な化学物質を染み込ませたリンゴ」をブラケットの机の上に置いたことを告白したと証言しています。なお、実際にオッペンハイマーがそのようなことを実行した証拠はなく、たとえ実行したとしてもブラケットが毒リンゴを食べることはありませんでした。
◆4:トルーマン大統領はオッペンハイマーを「泣き虫」と呼んだ
オッペンハイマーはプレッシャーに弱い人物だったとも評されており、広島・長崎に原爆が投下された2カ月後にアメリカ大統領のハリー・トルーマンと面会した際には、将来的なソ連との核戦争について懸念を示したとのこと。トルーマンは「ソ連が原爆を開発するのは無理だ」と主張してこの懸念を一蹴したものの、なおもオッペンハイマーは「大統領、私は自分の手が血で汚れていると感じます」と言い、トルーマンは激怒して会談を打ち切りました。
トルーマンは会談後、国務長官のディーン・アチソンに「あいつの手は私の半分ほども血で汚れてないだろう!」「あのクソ野郎を二度とこのオフィスで見たくない」と言ったそうです。その後もトルーマンは定期的にアチソンに対してオッペンハイマーへの不満を漏らしており、1946年の手紙でもオッペンハイマーのことを「泣き虫の科学者」と書いています。
◆5:学生からとても人気があった
オッペンハイマーは理論物理学者であったものの、「世界を理解するためには数学さえあればいい」というタイプではなく、さまざまな修辞を使ってわかりやすい講演を行いました。物理学を超えた幅広い分野に造詣が深かったこともあって講義を受けた学生からの人気は非常に高く、中には服装やタバコの銘柄、話し方までオッペンハイマーのまねをするファンまでいたそうです。
◆6:人文科学にも関心を持ちサンスクリット語を含む多言語を話すことができた
オッペンハイマーは人文科学にも強い興味を持っており、英語以外にもギリシャ語・ラテン語・フランス語・ドイツ語・オランダ語・サンスクリット語を話すことができました。また、カール・マルクスの「資本論」をわずか3日で読んだほか、大長編であるマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を休暇中にむさぼり読んだこと、ヒンドゥー教の経典である「バガヴァッド・ギーター」を読むためにサンスクリット語を学んだことなどが伝えられています。
1965年にNBCが行ったインタビューの中で、オッペンハイマーは原子爆弾の実験で最初のキノコ雲を見た時のことを回想し、「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語りました。これはバガヴァッド・ギーターの中から引用した一節であり、オッペンハイマーの広範な知識を示唆するものです。
◆7:12歳の頃にプロの地質学者と間違われて講演を行った
オッペンハイマーは7歳の頃から結晶の構造と偏光に魅了され、熱狂的な鉱物コレクターになると共にタイプライターで手紙を書き、地質学者らと文通を交わすようになりました。オッペンハイマーが12歳の頃、文通相手のある地質学者はオッペンハイマーが子どもであることに気づかず、ニューヨーク鉱物学クラブで講演するよう招待したとのこと。家族はこのことを面白がり、あえてオッペンハイマーが子どもであることを隠したままクラブに連れて行きました。プロの地質学者だと思われていた講演者が12歳の少年だったことを知り、学者たちは驚きながら大笑いしたとのこと。オッペンハイマーはそのままクラブで講演を行い、学者たちから喝采を受けたとのことです。
◆8:最初の核実験に死んだ恋人にちなんだコードネームを付けた
オッペンハイマーは1936年に出会ったジーン・タトロックという女性と恋に落ち、二度もプロポーズしたものの結局は別の女性と結婚しました。共産党員でありうつ病に苦しんでいたタトロックは、1944年に薬物の過剰摂取で死亡しました。人類最初の核実験である「トリニティ実験」という名称は、タトロックがオッペンハイマーに教えたジョン・ダンの詩から引用したものといわれています。
・関連記事
ついにあのアインシュタインも登場するクリストファー・ノーラン監督作品「オッペンハイマー」予告編が公開中 - GIGAZINE
核兵器製造を目指した「マンハッタン計画」のコスト内訳を調べてわかったこととは? - GIGAZINE
人類史上最速の物体は「核実験でふっ飛ばされたマンホールのフタ」 - GIGAZINE
知識が少ない人物でも核兵器の設計が可能であることを証明した1967年の実験とは? - GIGAZINE
一体なぜ核実験によって生み出された緑色の石が「トリニタイト」と名付けられたのか? - GIGAZINE
人類初の核実験により生まれた人工鉱物「トリニタイト」とは? - GIGAZINE
機密扱いだったアメリカの「核実験記録フィルム」で新たに62本の映像が公開される - GIGAZINE
・関連コンテンツ