一体なぜ核実験によって生み出された緑色の石が「トリニタイト」と名付けられたのか?
by Joel Deluxe
1945年8月6日、日本の広島市に対してアメリカが原子爆弾の「リトルボーイ」を投下し、大量の死傷者および被ばく者が生まれました。そんな原子爆弾の実戦投入の前に行われた核実験がトリニティ実験であり、この実験に伴って誕生した人工鉱物の「トリニタイト」にまつわるエピソードが、スミソニアン博物館のウェブサイトで公開されています。
A Chunk of Trinitite Reminds Us of the Sheer, Devastating Power of the Atomic Bomb | At the Smithsonian | Smithsonian
https://www.smithsonianmag.com/smithsonian-institution/chunk-trinitite-reminds-sheer-devastating-power-atomic-bomb-180972848/
第二次世界大戦中、アメリカを中心とした国々はナチス・ドイツなどの枢軸国に対抗するため、原子爆弾の製造を目標としたマンハッタン計画を実施。科学部門の責任者であったロバート・オッペンハイマーらを中心とした研究チームは1945年7月、ついに世界初の原子爆弾の爆発実験を行います。
トリニティ実験と呼ばれた爆発実験が行われたのは、ニューメキシコ州のソコロという都市から南東48kmの地点に作られた実験場です。研究者らは「ガジェット」と名付けられた原子爆弾を、高さ20mの鉄塔の上に設置。実験は当初7月16日の午前4時に行われる予定でしたが、雷雨のために一時計画はストップし、天候が好転するのを待ったとのこと。
やがて天候が安定し、7月16日の午前5時30分ごろに原子爆弾は起爆装置を用いて爆発させられました。野球ボールほどの大きさしかないプルトニウムの球体内で起きた核の連鎖反応は、TNT換算で1万9000トンに相当する爆発力をもたらし、鉄塔は足場まで蒸発してキノコ雲を作り出しました。
by Berlyn Brixner
このトリニティ実験の際に発生したクレーターの内部で、主にケイ酸塩からなる砂漠の砂が融解し、明るい緑色のガラスに変化しました。核実験場には大量のガラスが残されることとなりましたが、当初は壮大な実験結果の背後に紛れて言及されなかったとのこと。
緑色のガラスについて有名になったのは第二次世界大戦後のことであり、訪問者らは緑色のガラスを、トリニティ実験場のお土産として持ち帰るようになりました。Time誌は1945年9月の記事において、「緑の翡翠の湖」とガラスの散乱する様子を説明しています。最初のうちはこのガラスについて決まった名称がなく、付近の都市アラモゴードから名を取って「アラモゴードガラス」と呼ばれたり、原子爆弾(atomic bomb)から名を取って「アトモサイト」と呼ばれたりしたそうですが、やがてトリニティ実験に由来する「トリニタイト」という名前が付けられました。
by Kelly Michals
ここで一つ疑問とされているのが、一体なぜ核爆発実験の名称にキリスト教の教えである「トリニティ(三位一体)」を付けたのかという点です。トリニティ実験という名称を生み出したのはオッペンハイマーであるとされており、マンハッタン計画の軍の最高責任者であったレズリー・グローヴズは、後にオッペンハイマーに対して「なぜトリニティ実験と名付けたのか?」と手紙で尋ねています。
これに対してオッペンハイマーは、「私がなぜこの名称を付けたのか、ハッキリとはわかりません」と返したとのこと。しかし、この後に続けて「ですがこの時、私の頭の中で何を考えていたかはわかります。ジョン・ダン(16世紀から17世紀のイングランドの詩人)が死ぬ前に残した、私の好きな詩です」と述べており、名付けた時に考えていた「西と東は、平らな地図の上では(私のように)一つであるように、死もまた、復活に接しているのです。(As West and East / In all flat Maps ‐ and I am one ‐ are one, / So death doth touch the Resurrection.)」という詩を引用しています。
この詩を引用したオッペンハイマーは、「これだけでは三位一体(Trinity)にはなりません。しかし、ダンが書いた有名な賛美詩には『Batter my heart, three person'd God(私の心を打ち砕いて下さい、三位一体の神よ)』とあります。これ以上の手がかりは何もありません」と続けて書いています。
by 12019
オッペンハイマーは本当にトリニティ実験と名付けた由来が自分でもわからなかったのか、それともわざと核心を述べなかったのかは不明ですが、トリニティ実験場に残された緑色のガラスはトリニタイトと呼ばれるようになりました。当時は新種の鉱石として、トリニタイトがマニアの間で流通したとのこと。
1940年代から1950年代にかけて多くの人々が勝手に実験場に入り込み、トリニタイトを採取していましたが、アメリカ軍は1952年に実験場跡地を埋め立ててしまい、トリニタイトの採取を違法としました。しかし、違法となる以前に採取されたトリニタイトの所持・取引は違法ではないため、記事作成時点でも地元の販売店やインターネットの通販サイトなどで購入できるそうです。
by Sascha Grant
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