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北アフリカに伝わる伝説の女王「ディヒヤ」とは?


現在の北アフリカ、主にアルジェリアには民衆のために大国と戦った女王「ディヒヤ」の伝説があります。一体どんな人物だったのか、科学系YouTubeチャンネルのKurzgesagtが解説しています。

Her Visions Defeated an Army - YouTube


7世紀、現在のチュニジアとアルジェリア東部にあたる沿岸地域は、カルタゴの都市から統治するビザンツ帝国の支配下にありました。しかし、大西洋まで続く広大な内陸部は、ビザンツ人がムーア人と呼び、後にアラブ人がベルベル人と呼ぶ人々のものでした。この名称はおそらくギリシャ語の「バルバロイ(異邦人)」に由来するとされていて、今日、その子孫の一部はこれを蔑称と見なし、代わりに「自由なる民」を意味する「イマジゲン(Imazighen)」という呼称を好みます。これらの集団は数千年にわたって北アフリカに暮らしてきましたが、多くの場合、共通の言語によってのみ結び付けられていました。


古代には彼らの王国の一部がローマ帝国に吸収され、多くの人々が多様なローマ・アフリカ社会に溶け込みました。しかし、西ローマ帝国が5世紀に崩壊し、ビザンツ帝国が534年に土地のごく一部しか奪還できなかった後、帝国の影響力はゆっくりと衰えていきました。

そのため2世紀後には、再びイマジゲンの勢力が台頭します。族長たちは古いローマ都市を拠点に小王国を支配し、別の者たちはビザンツ帝国の辺境要塞を掌握していました。数十もの独立部族がサハラ砂漠のオアシスへ家畜を連れて移動したり、誰にも支配されないよう険しい崖の上に定住したりしていました。


そのうちの1つ、アルジェリアにあるアウレス山脈の村に暮らしていたのがディヒヤです。後に敵となったアラブ人たちはディヒヤを「アル=カーヒナ」、すなわち「魔術師」と呼びます。しかし彼女の生涯は砂漠の焚き火の周りで語り継がれた物語を通じてしか伝わっていないため、その出自は謎に包まれています。


ディヒヤを語る上で欠かせないのがイスラム教の存在です。

イスラム教の宗教的・政治的指導者だった預言者ムハンマドは632年に亡くなりましたが、後継者たちは彼の信仰を急速に広めました。わずか10年のうちに、後継者が統治した国「カリフ国」の軍隊はペルシアのサーサーン朝を滅ぼし、レバントとエジプトをビザンツ帝国から奪い取り、世界の二大強国に屈辱を与えました。661年に血なまぐさい内戦が終わると、ウマイヤ朝がこの国を掌握します。


ビザンツ帝国に致命的な打撃を与えるため、カリフ国は複数の戦線で戦争を開始しました。一部のイマジゲン部族は早い段階でカリフ国側につきましたが、他の部族はビザンツ帝国と同盟し、激しく抵抗しました。

内部対立によって征服は遅れましたが、692年、ウマイヤ朝のカリフ(指導者)であったアブド・アル=マリクは支配権を確保し、自らの帝国の強さを示そうとします。アブド・アル=マリクは新たな将軍として、シリアのウマイヤ朝エリート層に属するハッサーン・イブン・アル=ヌウマーン・アル=ガッサーニーをマグリブ(北西アフリカ)へ送りました。シリアのウマイヤ朝エリート層に属するハッサーン・イブン・アル=ヌウマーン・アル=ガッサーニーです。彼は4万人を率いて西へ進軍しました。


まずハッサーン将軍は、北アフリカにおけるローマ権力の古代の中心地・カルタゴを狙います。ハッサーン将軍らが到着した時点でビザンツ人たちは恐怖のあまり逃亡しており、ウマイヤ朝は大勝利を収めましたが、その先の土地はまだウマイヤ朝のものではありませんでした。そこでハッサーン将軍は「この地で最も強力な支配者は誰だ?」と現地の人々に尋ねましたが、自治部族と緩やかな連合体が入り乱れる世界では、本当の権力の所在を見極めるのは困難でした。

イマジゲンの一部を最後に統一した王は、以前のアラブ軍襲撃で殺されていました。しかしそのとき、多くのイマジゲンが思いがけない新たな指導者のもとへ再結集していました。アウレス山脈に君臨する、絶大な権威を持つ戦士の女王、ディヒヤです。


ハッサーンの軍隊はディヒヤが君臨する地に攻め入ろうとしていました。軍勢には、ペルシア人がコプト系エジプト人と背中合わせに騎乗し、さらにさまざまな民族が加わっていました。信仰に引かれて来た者もいれば、報酬や略奪品を求める者もいました。そして多くは、アラブ帝国の圧倒的成功に引き寄せられていました。ビザンツ支配に苦しんでいた多くのイマジゲン部族民もまた、今や新興勢力に賭けていました。


ディヒヤは何千ものイマジゲン騎兵による連合軍を率いて下山し、二つの勢力は現在のアルジェリアにあるメスキアナ付近と思われる川岸で激突します。ここでディヒヤは大勝利を収め、ハッサーンとその軍は東へ逃走し、現在のリビアに到達するまで止まりませんでした。


屈辱を受けたアラブ人たちは、この壊滅の地を「苦難の川」と呼びました。ディヒヤは80人の捕虜を得ましたが、ハーリド・イブン・ヤズィードだけを除いて全員を解放します。ディヒヤはハーリドを養子に迎えました。


ディヒヤの勝利は単にハッサーンを足止めしただけではありませんでした。ハッサーンが命令を待っている間に、ビザンツ帝国はカルタゴを奪還します。そして、ますます多くのイマジゲン部族がディヒヤのもとへ集まったことで、ディヒヤの権威はかつてなく高まったと伝えられています。

約5年後、カルタゴにハッサーン将軍が戻ってきました。ビザンツ艦隊はそれを見るや逃走し、都市は再び空になります。ビザンツ帝国が二度と戻れないようにするため、ハッサーンは城壁を取り壊し、港を瓦礫で埋め、新たな都市チュニスをそのすぐ隣に建設し始めたと伝えられています。800年以上前に初めて到来して以来続いていた、アフリカにおけるローマの政治的支配はついに終焉を迎えました。


今やハッサーンとマグリブ全土の間に立ちはだかる人物はただ一人、ディヒヤです。周囲の部族が長く団結し続ける保証はなく、アラブ人たちは昔からずっと北アフリカを襲撃してきたことを知るディヒヤは、「この地域の富が彼らを引き寄せ続けるなら、それを止める唯一の方法は富そのものを破壊することだ」と考え、焦土作戦を命じます。


ディヒヤは果樹園と作物を焼き払い、町や要塞を破壊しました。ただ、ディヒヤは敵のことしか考えておらず、本来守るべき人々のことを考えていませんでした。家や収穫物が炎に包まれるのを見ながら、人々の敬意は怒りへと変わります。何千人もの人々がディヒヤを見限ってアラブ側へ移り、彼女には灰だけが残された、というのが文献に残された記録だそうです。


ただ、Kurzgesagtは「ディヒヤに関する最古の文書記録は、彼女の死から150年以上後に書かれたアラブ人歴史家によるものです。彼らには征服を正当化するため、彼女を残虐な人物として描く動機がありました。現代の歴史家の中には、焼き払いを実行したのは実際にはアラブ側であり、それをディヒヤのせいにした可能性があると指摘する者もいます。一方で、彼女が防衛用の緩衝地帯を作るために戦略上重要な場所だけを破壊した可能性もあります」と解説しています。

いずれにせよ、ハッサーンが戻る頃にはディヒヤの力は衰え始めていたようで、さらに悪いことに裏切りは彼女自身の家族にまで及んでいました。伝説によれば、養子となったアラブ人捕虜ハーリドは、しばらくの間ハッサーンへ密かに情報を送っていたとされています。そのため両軍が再び相まみえた時、ハッサーンはもはや何も知らない状態ではありませんでした。

今度はディヒヤ軍が打ち破られ、ハッサーンはディヒヤを山中の拠点へ追い詰めます。そしてそこで、伝説によれば、ディヒヤは息子たちが恐怖の目で見守る中、自らの死の幻視を見たといわれています。さらに、ディヒヤはハーリドに向かって「私はまさにこの日のためにあなたを養子にしました。私は死にます。そしてあなたには二人の兄弟の面倒をよく見てほしいと思います」と告げ、息子たちにハッサーンのもとへ行き、和平を求め、イスラム教へ改宗するよう命じました。


ついにハッサーン軍が迫ると、容赦ない戦いが始まり、双方に大きな損害が出ました。正確な年代は不明ですが、おそらく690年代後半、ディヒヤは戦死します。

ディヒヤが去ると、抵抗勢力は崩れ始めます。ハッサーンの後継者のもとで、多くのイマジゲンがイスラム教へ改宗しました。ハッサーンらは大量にアラブ軍へ加わり、西方への進軍を続けます。711年には連合軍がイベリア半島へ渡り、730年頃の最盛期にはウマイヤ朝カリフ国はイベリアからインド国境まで広がりました。


しかし、新しい体制の下でイマジゲンは不当な扱いを受けます。そして20年後、大規模な反乱が起こり、マグリブは数多くの独立したイスラム国家へと分裂しました。この構図はその後も続きます。19世紀にヨーロッパの植民地支配が到来すると、アウレス山脈の部族は何度もフランスに対して反乱を起こしました。1954年にアルジェリア独立戦争が始まった際、最初の銃声が響いたのも、かつてディヒヤがいた場所でした。

1300年もの間、ディヒヤは物語を語る者たちの視点を映し出す鏡であり続けました。中世のアラブ歴史家たちは、彼女を当然の報いを受けた冷酷な女王として描きました。フランス植民地時代の著述家たちは、フランスが実はイマジゲンをアラブ人の抑圧から救っているのだと主張するために彼女を利用しました。また一部のユダヤ人作家たちは、彼女の宗教が実際にはよく分からないにもかかわらず、彼女を英雄的なユダヤ人女王として描きました。そして現在、数千万人に及ぶイマジゲンの一部にとって、ディヒヤは先住民としての誇りと抵抗の象徴となっています。2003年には、アルジェリア北東部に彼女の像まで建てられました。

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