中世ヨーロッパで農民が騎士を倒すことは可能だったのか?
By Hans Spliter
テレビドラマや映画、ゲームなどでは、反乱を起こした農民が重厚な鎧(よろい)で武装した騎士を打ち負かしているシーンが描かれることがあります。「実際に中世ヨーロッパで農民が騎士を打ち負かすことが可能だったのか」という疑問に歴史学者のスティーブン・ムールバーガー氏が答えています。
Could a Peasant defeat a Knight in Battle?
https://www.medievalists.net/2020/11/peasant-knight-battle/
イングランド王ヘンリー2世は軍事育成のために1181年に「Assize of Arms」を公布。一般市民に対しても武装を求めました。たとえば、最も裕福な人たちはホーバークと呼ばれる当時の鎖かたびらや兜(かぶと)、盾、槍(やり)を、それほど裕福ではない人たちは鉄帽と槍を所持しました。一方で、農民が手にできた武装はもっと貧弱なものでした。
1352年のフランス王室令では、軍隊は「装甲兵(騎兵)」「歩兵」に大別され、身分と装備に応じた給料が与えられました。たとえば、従者を率いる騎士である「バナレット」が一般騎士の倍の給料をもらう一方、弓兵の給料は低く、クロスボウ弓兵の給料は騎士の7分の1しかなかったそうです。給料はそのまま兵士としての価値を示し、この雇用形態のもとで、騎兵はさらに充実した装備を整えていきました。
この当時、騎士と農民の戦力差がいかに圧倒的だったのかは、1358年のジャックリーの乱の例に顕著です。中世の年代記作家であるジャン・フロワサールはジャックリーの反乱について以下のように記しています。
「9000人を超える農民が貴族を倒すために城へと向かったが、40人ほどの騎士が剣や槍を携えて現れると、一瞬のうちに農民たちの戦意は失われた。騎士たちは次々に農民を殺していった。農民たちは剣や槍の痛みに叫び、それを見た他の農民たちもパニックに陥った。一晩のうちに騎士たちは7000人を超える農民たちを殺した。この戦いで死亡した騎士はたったの1名だった」
騎士たちは報復として、反乱に協力したとみられる村を焼き払い、農民たちは長く忘れられない恐怖を刻み込まれました。
フロワサールの「年代記」につけられた、細密画家のロイゼ・リデによる挿絵。
ちなみに貴族や騎士が常に支配階級だったかというとそういうわけでもなく、現在のベルギーにあるブルッヘ(ブルージュ)では市民が自治を行っていました。ブルッヘの市民たちは貿易で蓄えた財産で武器や鎧(よろい)を備え、彼ら独自の武器や戦術も開発しました。彼らの開発した「goedendag」は以下のムービーで見られるような長い棒と短い槍を組み合わせたものでした。
Godendag - YouTube
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