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史上最悪の「政治を裏で牛耳ろうとした黒幕」を歴史学者が語る


政治の指導者に対して、あたかも国のために助言をしているように見せかけ私腹を肥やす、政治を裏で操ろうとする者が過去に何人も存在していました。富のため、権力のために政治を牛耳ろうとした黒幕の中でも、最も最悪なのは誰なのかを歴史学者たちが語っています。

Who is History’s Worst Political Adviser? | History Today
https://www.historytoday.com/archive/head-head/who-history%E2%80%99s-worst-political-adviser

オックスフォード大学の世界史教授であるピーター・フランコパン氏は、ビザンツ帝国のニケフォリツィスを挙げています。フランコパン氏は「11世紀後半のビザンツ帝国では、あまりにも賢くて狡猾な顧問が社会を二極化させ、経済を破壊へと導きました」と語りました。


11世紀後半のビザンツ帝国において、皇帝のミカエル7世は政治運営を宦官のニケフォリツィスによる助言に頼っていました。皇帝はニケフォリツィスを「寛大で賢い」「合理的な人物」と評価していましたが、皇帝以外のほとんどはニケフォリツィスの無粋で攻撃的な振る舞いや、重要な会議から他人を締め出したり他者と皇帝との接触を過度に制限したりする行動に不満を募らせていたとのこと。また、横柄な性格でもあったニケフォリツィスは、自身を批判する者をあからさまに軽蔑していたとされています。

ニケフォリツィスの助言で導入された政策は、字面ではいいように書かれていたものの、実際には民を苦しめるものばかりでした。ニケフォリツィスの助言により、公共支出を増やすための増税や、穀物の供給と価格を安定化させるための計画に見せかけ、中央集権的な流通システムを導入するといった政策が実施されています。しかし、これらの政策は食料不足とインフレーションを引き起こし、世間に混乱をもたらしました。

ニケフォリツィスに怒りの矛先を向ける人々もいましたが、皇帝にも多くの非難が集まりました。ミカエル7世は非難を受け、「安定した判断力に欠けていた」と述べていたことが文献に記されています。また、ミカエル7世は政治はおろか、決断を下すこともできないほど怠惰であったとされ、ニケフォリツィスに多くの政治運営を委ねていたともされています。悪政により皇帝は退位し、ニケフォリツィスは追放され、帝国の地位は下落しました。


ロンドン大学の古典・古代史教授であるキャサリン・エドワーズ氏は、最悪の助言者であるとしてローマ帝国の第2代皇帝であるティベリウスの親衛隊長であるルキウス・アエリウス・セイヤヌスを挙げています。セイヤヌスは皇帝の被害妄想を利用し、それまで数カ所に分かれていた親衛隊を1ヶ所に駐屯させるなどして軍事を掌握。また、セイヤヌスに異議を唱えた人物は次々と反逆罪で告発されました。

さらに、セイヤヌスは自身をよく思っていなかった皇帝の息子であるドルススの暗殺を計画。ドルススの妻であるリウィッラと不倫し、ドルススの宦官を共謀者に招き入れ、ドルススを毒殺することに成功しました。そして、セイヤヌスは敵対するティベリウスの親族を次々と攻撃し、自身の地位を守りました。

悪質な手段で敵対者を排除するセイヤヌスの陰謀はティベリウスの弟の妻である小アントニアによって暴かれ、ティベリウスの耳にも届きました。皇帝はセイヤヌスを反逆者として捕らえ処刑。セイヤヌスに対する世間の嫌悪も相当なものだったようで、セイヤヌスの遺体は暴徒によって引き裂かれて川に捨てられ、街にあったセイヤヌスの彫像も暴徒によって壊されています。さらに、セイヤヌスの親族や子どもたちも処刑されてしまいました。


エクセター大学の歴史学准教授であるレヴィ・ローチ氏は「悲惨な出来事の多くの責任を負っている」としてウェセックス王国の貴族、エドリック・ストレオナこそ悪質な存在であると語っています。

イングランド王エゼルレッド2世の娘、イーディスと結婚したストレオナは、1005~1006年にウェセックス王国にあるマーシアの宮廷で起きたクーデターをきっかけに指導者としての地位を確立。ストレオナはクーデターに乗じてノーザンブリアの貴族を処刑に追いやったとされています。

ストレオナは国や地位よりも、兄弟と共に富を得ることを重視していたとされています。1008年に発生したストレオナの兄弟とサセックスの有力者間に起きた争いでは、国の艦隊の大部分が損失しました。また、1015年にオックスフォードで開催された集会では、ストレオナは宮廷の有力者を騙して部屋に連れ込み暗殺することで敵対派閥に対抗していたと伝えられています。

ストレオナの悪質な行為が人々の非難の的となったのは、クヌート1世のイギリスへの侵攻がきっかけでした。クヌート1世の侵攻を受け、ストレオナは1015年にデンマークへ亡命。その後、エゼルレッド2世の死を受けて1016年に再びウェセックス王国に戻りますが、同年にアサンドゥンの戦いが起こると再び亡命し、戦いはクヌート1世の勝利に終わりました。ストレオナの亡命は裏切りとみなされ、アサンドゥンの戦いが終わった後にストレオナは処刑されました。

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in メモ, Posted by darkhorse_log

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