コーヒーはいかにしてオスマン帝国を崩壊に導いたのか?
by Couleur
コーヒー豆を水から煮立てて上澄みを飲むトルコ・コーヒーは、トルコ語で「kahve(カフウェ)」と呼ばれ、今日の「コーヒー」の直接的な語源となりました。そんなコーヒーが、強大なオスマン帝国の崩壊の一因になったと指摘されています。
How Turkish coffee destroyed an empire | 1843
https://www.1843magazine.com/food-drink/world-in-a-dish/how-turkish-coffee-destroyed-an-empire
コーヒーがオスマン帝国に入って来たのは16世紀前半ごろ、スレイマン1世の治世です。イエメン総督としてオスマン帝国から派遣されたオズデミル・パシャは、現地で「qahwah」と呼ばれる元気が出る飲み物に出会い、それをスレイマン1世に献上しました。この時のコーヒーの淹れ方は、アラビカコーヒーノキの豆をジェズヴェという銅製の鍋で煮だしてから、素早く磁器のカップに注いで、細かい泡の層を作るというもの。スレイマン1世の皇后であるヒュッレム・ハセキ・スルタンは、コーヒーの苦味とのバランスを取るために、水やターキッシュ・ディライト(トルコの悦び)という茶請けの菓子と一緒にコーヒーを楽しんだとされており、この飲み方が後のトルコ・コーヒーの原型となりました。
by Phil and Pam Gradwell (to be)
当時、新しい飲み物を巡っては、帝国内で賛否が分かれていました。イスラム教の経典には、コーヒーに関する言及はないものの、刺激の強い飲み物はアルコールと同様に抵抗感があったとされており、強硬派の聖職者が「煎ったものはなんであれ飲んではならない」としてコーヒーを禁じるファトゥワ(イスラム法に基づく宣告)を発行したという記録も残っています。それでも、1555年に最初のKahve Khāne(コーヒーハウス)がイスタンブールに開かれると、コーヒーは帝国全土へと広がっていきました。
当時のコーヒーハウスは単にコーヒーを飲む場所でなく、男性らの社交や情報交換、さらには教育の場でもありました。字が読める知識人がコーヒーハウスで読み上げるニュースの中には、政治批判、宮廷で渦巻く陰謀、戦争のうわさなどが含まれており、字が読めない大勢の民衆がそれに耳を傾けていたとされています。こうして、コーヒーハウスは反乱や民族自決の精神を醸成する言論の場となっていきました。コーヒーハウスには時の権力者らも一目を置いており、世論調査のためにコーヒーハウスにスパイを送りこむスルタンや、ムラト4世のようにコーヒーハウスの弾圧を行った為政者もいました。
by B. L. Singley
19世紀に入り、オスマン帝国全土で民主主義運動が沸き起こると、コーヒーハウスは一層重要な場所になっていきます。まず、オスマン帝国のヨーロッパ地域で、キリスト教徒らの間に独立の気運が高まると、各地の指導者たちはギリシャのテッサロニキ、セルビアのベオグラード、ブルガリアのソフィアといった都市のコーヒーハウスに集まって結束を深め、戦略を練りました。その結果、1821年にギリシャが独立したのを皮切りに、1835年にセルビア、1878年にブルガリアが相次いで独立を果たすと、オスマン帝国は崩壊への道を突き進んでいくこととなります。
トルコには「コーヒーは地獄のごとく黒く、死のごとく強く、恋のごとく甘くあるべし」ということわざがあります。イスタンブールで文化芸術を研究しているサラ・ジラニ氏は「コーヒーはオスマン帝国の支配階級らにとって、お気に入りの飲み物でしたが、彼らはそれが帝国の終わりを早めるものだとは知りませんでした」と述べて、コーヒーを煮出す鍋がまさに地獄の門を開く一因になったと指摘しました。
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