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ディズニー映画に登場する2種類の悪役「追放者」と「暴君」の役割とは?


ディズニー映画に出てくる悪役はディズニー・ヴィランズとしてブランドが展開されるほどの人気がありますが、そのヴィランたちは大きく2つのカテゴリーに分類できると、映画やドラマを分析するYouTubeチャンネル「ScreenPrism」が解説しています。

The Two Types of Disney Villains - YouTube


ScreenPrismによると、ディズニーの悪役は「追放された無法者(追放者のヴィラン)」か「強力な暴君(暴君のヴィラン)」に分類できるとのこと。また、より細かく見てみると、「追放者のヴィラン」が悪役の物語ではヒーローの責任感を抱いていく展開が描かれ、一方で悪役が「暴君のヴィラン」の物語では主人公の生来の個性が重んじられる傾向にあるとのこと。

悪役が追放者の場合、主人公は壮大で高貴な運命を背負う「選ばれしもの」であり、それに伴う社会的責任を負担しなくてはなりません。一方、悪役が暴君である場合は主人公こそがその暴君の君臨するコミュニティから追放された存在であり、主人公は状況を変えるために立ちあがるヒーローになるというストーリーが描かれます。


ディズニーの世界では、「追放されたヴィラン」は自らの欲望、野心、虚栄心が原因となり、健全な社会から排斥されています。追放者の住んでいる場所は、他の国との間にはっきりとした違いがあると視覚的に伝えられることが多いです。


「追放者」を悪役として描く物語では……


主人公は高潔な運命を背負う存在として描かれます。


ライオンキング」では、悪役であるスカーは支配的な王として描かれる一方で、真の王は民衆の利益のために皆を導く存在だと示されます。また、若いライオンのシンバは、王様は自分のやりたいようにやれる存在だと思っており、映画のほとんどで自らの運命から逃れようとします。彼は正当な支配者として国を救うために、やりたくないことも行わなければならない自らの運命と向き合っていきます。


シュガー・ラッシュでは、キャンディ大王ことターボはゲーム世界の王になるためにゲームのコードを書き換えます。アーケードゲームの悪役であることに不満を持っていたラルフ、レースゲームのヒロインであるヴァネロペは、自らがそれぞれのゲームで大きな役割を果たしていたことを理解し、自身のゲーム以外も乗っ取ろうとするターボを打倒します。ここでも、自己中心的で追放された悪役に、責任を抱いたヒーローが立ち向かう、という構図がわかりやすく示されています。


塔の上のラプンツェル」と「眠れる森の美女」にはそれぞれ、主人公を邪魔する追放者である、マザー・ゴーテルとマレフィセントがいます。どちらの作品でも、悪役が追放されることで主人公が生まれるという点が特徴的です。少女たちは外界から隔離された場所で目覚め、人生を孤独な追放者として過ごします。


もうひとつの悪役のタイプ「暴君のヴィラン」は、自身の権力を振るい独裁者として君臨します。暴君のヴィランは邪悪で腐敗した世界を象徴し、その不当な価値観をもとに暴虐の限りを尽くします。


このような悪人に立ち向かう唯一のヒーローというのは「反逆者」であり、激情的で信念にあつく、不公平で不道徳な社会を受け入れることができません。そのため暴君のヴィランが登場するディズニー映画では、主人公が「追放された存在」であるところから始まります。誠実な世界が不誠実な存在を追放するのと同じように、不公正な世界は公正な存在を排斥しているというわけです。


美女と野獣」では、追放者である主人公・ベルと野獣に旧態依然とした権力を行使する筋骨隆々のヴィラン・ガストンが描かれます。ガストンを打倒することは、凝り固まった後ろ向きな社会の解体を象徴しています。


ノートルダムの鐘」では、差別的な最高裁判事のフロローが自らの権力と宗教を利用して憎悪を広げ、そして追放者の主人公・カジモドを塔に閉じ込めます。また踊り子のエスメラルダも抑圧に反発した追放者であり、「God help the outcasts」と明示的に歌うシーンが描かれています。


アラジン」では、権力に執着するヴィラン・ジャファーが、みすぼらしいという理由だけでアラジンを罰します。またヒロインのジャスミン王女も結婚したい相手を選ぶことはできないという支配された状況にあります。アラジンがジャファーを打倒したとき、腐敗した古い慣習は破壊され、アラジンとジャスミンを隔てるルールは覆されることにつながります。


インディアンの土地を植民地化しようとイギリスが攻め込んでくる対立を描く「ポカホンタス」では、帝国主義が内包する邪悪な性質を示すラトクリフというキャラクターが登場し、それに反抗してイギリス人側のジョン・スミスをかばうインディアン側のポカホンタスの行為が、侵略側と原住民側の両勢が犯した暴力と残酷を象徴します。


また、ディズニーにはこれら2つの要素を兼ね備える「追放された暴君のヴィラン物語」もあります。


リトル・マーメイド」は、自分が自分らしくあることが許されない社会において、自分らしくあるために戦う典型的な物語だとScreenPrismは述べています。


ScreenPrismの理論によると、アースラは「暴君のヴィラン」として主人公・アリエルを徹底的に抑圧しますが、同時に「追放者のヴィラン」でもあります。


一方、アリエルの心中では、アリエルが人間に近づくのを望まない父・トリトンもヴィランという扱いです。


アースラに唆されたアリエルが真のヴィランを誤解しているという構造で、アースラは追放者でありながら支配的な暴君であるという、例外的なヴィランとして描かれているのです。

しかし実際には、アースラはライオンキングのヴィラン・スカーのように利己的な支配力を欲する追放者であり、同じようにアリエルの冒険はシンバの物語といくつかの要素で共通しており、物語の中で自らの社会での役割をはっきりと認識していきます。


また「ムーラン」でも追放者のヴィランと暴君のヴィランの物語に含まれる要素を組み合わせています。


悪役であるシャン・ユーはフン族のリーダーであり、成立した政府への反抗勢力であるため追放者となっています。しかし一方で彼は巨大な軍隊のリーダーであり、その意味では暴君として君臨しています。


主人公であるムーランも同じような中間地点にいます。彼女は女性であることを隠しフン族の軍隊に加わり戦いに身をやつしてくという運命を背負いながら、自身の社会におけるジェンダーのあり方を受け入れず反抗する戦士でもあります。しかし、「追放されたヒーロー」とは異なり、彼女の目的は悪い社会の打倒ではありません。彼女の目標は、名誉を獲得することで「選ばれし者」と同じように、自分よりも大きなものの一部として居場所を得ることです。


このように、彼女の複雑な欲望は、彼女を「追放者」であると同時に「選ばれし者」にして、彼女を脅かす悪役も同時に「追放者」であり「暴君」でもあるという構造を生みました。


ディズニー・ヴィランズの分類と物語の構造を見ることで、「私たちは自身の欲望の前にコミュニティの利益を重んじるべきだ」という教訓を得られるとScreenPrismは述べています。私たちは、社会が何を考えていても、自身の信念に忠実である必要があります。そして同時に、それがどれほど困難であっても、社会に貢献する責任を受け入れる必要があります。


私たちの生活のほとんどではおそらく、アリエルやムーランのように暴君であり無法者である敵対者に直面します。そのため私たちは、自分自身を表現し、間違ったことに立ち向かう方法を把握してコミュニティと関わり、できる限り貢献しなくてはなりません。これは非常に複雑で難しく、ディズニーのように偉大な悪役がいるほうが話はずっと簡単になるとScreenPrismは付け加えています。

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in 動画,   アニメ, Posted by log1e_dh

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