本物の「モネの庭」を40年以上も保ち続けている1人の庭師が存在する

印象派を代表するフランスの画家クロード・モネは美しい色彩と光の表現で知られています。モネは「絵の題材として庭を作りたい」ということで、色彩にあふれた庭を自分で作っており、晩年はその庭と家で過ごしました。モネの死後、一度は荒れ果てた庭を1から修復し、40年以上も管理している庭師の物語がYouTubeで公開されています。
The Gardens Behind Monet’s Masterpieces - YouTube
次々に現れる花と共に、「どうして私がここにやってきたのかは、運命としか言いようがありません。このような庭を世話しようだなんて、考えたことがありませんでしたから」と語る男性の声。


これらの花々は、印象派の巨匠であるモネが見たものかもしれません。

モネは絵画の歴史の中で非常に重要な存在。そして、モネの庭もまた、絵画の歴史の一部です。モネの絵画が登場し……

絵画をよけると、絵の中と同じ橋が映し出されました。

フランス・ジヴェルニーには晩年にモネが暮らした家が残されています。

橋がかかった水の庭は日本の浮世絵からヒントを得たものだとされています。モネの庭にある橋は緑色ですが、日本でも木造の朱色の橋がよく見られます。

モネが庭を作ったのは1883年のこと。

モネは自作の庭を自慢に思っており、何度もキャンバスの中で再現してきました。画像に写っている光景も……

モネがキャンバスに収めたもの。

有名な睡蓮も。

以下の画像に写っている男性が、現存するモネの庭を管理する庭師でありアーティストのGilbert Vahéさん。

Vahéさんは40年以上もモネの庭を管理してきました。

1883年に作られた庭ですが、第二次世界大戦の後、管理する人がおらず見捨てられることになりました。

その後、1970年代に入って、修復のため庭師が呼ばれることになったとのこと。

Vahéさんは1976年に初めて庭へとやってきました。当時、庭は荒れ果てており、庭師らはモネの庭を作り直す必要があったそうです。

ジヴェルニーのモネの庭の開館時期は4月~10月で冬は閉館しているとのことですが、修復により、今では暖かい時期に色とりどりの美しい花々が咲き乱れます。

もともと、Vahéさんはモネの庭に3~4週間しかとどまらない予定だったのですが、引退した今でもモネの庭にとどまり続けています。

モネの庭にとどまり続ける理由について、Vahéさんは「モネの庭が非常に有名で、年間60万人が訪れる場所であるということが理由ではない」と語ります。

モネの庭ではフルタイムの庭師10人が働いており……

引退したVahéさんは好きに庭を訪れることが可能。

Vahéさんはモネの庭の隣に住んでいるので、物理的にも訪れるのは簡単です。

庭師は太陽のリズムに従っているため、夏は7時から1日がスタート。家を出て……

ご近所にある緑の扉を通り、モネの庭を訪れるVahéさん。

庭師にとって重要な仕事として、訪れた客が荒らした場所を元に戻したり、美しさが衰えた花をカットすること、そして土を豊かにし、水をやることをVahéさんは挙げました。

小舟で睡蓮の池に入っていき……

水の中の余計なものを取り除き、絵画のような美しさを保つわけです。

もともとVahéさんはモネに詳しかったわけではないのですが、庭を通してモネのことを知っていったといいます。Vahéさんにとって最初に魅力的に写ったのは花でしたが、徐々にモネについて知り、モネを好きになっていったとのこと。

何かを見つけて草むらに手を伸ばしたかと思うと、しおれた部分を取り除いています。

モネが歴史に与えたインパクトを考えると、庭を保つ仕事は非常に重要なもの。庭こそが自分の運命だった、とVahéさんは語りました。

なお、2000年から、Vahéさんの指導を受けて高知県にモネの庭を再現した「北川村モネの庭マルモッタン」がオープンしています。
北川村「モネの庭」マルモッタン
https://www.kjmonet.jp/

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