ゴッホはいかに日本の芸術から影響を受けたのか?
天才画家として知られるフィンセント・ファン・ゴッホは日本の浮世絵に大きな影響を受けたことが知られています。ゴッホは一度も日本を訪れたことがなく、うわべだけの知識しか持たなかったからこそ、日本を現実の国というよりも「ユートピア」として思い描くことができたとのこと。その影響は作品だけでなくゴッホの人生そのものにも見られるとして、オランダのゴッホ美術家でゴッホと日本のつながりに焦点を置いた「日本のインスピレーション」展が開催され、ゴッホがいかに日本びいきだったのかが解説されています。
Van Gogh’s Japanese Idyll
https://hyperallergic.com/448018/inspiration-from-japan-van-gogh-museum-2018/
オランダのゴッホ美術家で開催されている「日本のインスピレーション」展ではゴッホの作品60点が、作品と関連する19世紀に書かれた日本のアートとともに展示されています。「日本のインスピレーション」解説は、以下のページから日本語版を読むことができます。
日本のインスピレーション - Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/ja/visitor-information-japanese/inspiration-from-japan
牧師の家に生まれ、神学部の受験勉強を始めるも挫折したゴッホは1882年に画家を目指すことに決めました。ゴッホは弟のテオに頻繁に手紙を書いており、芸術活動に必要なお金の無心などもしていますが、その内容は理性的であり積極性が感じられるもので、ゴッホに対するステレオタイプである「精神を病んでいた」「狂気の画家」というイメージとは異なるものになっているとのこと。1885年に送られた手紙には「面白い日本の絵画を壁に貼ったから部屋がまあまあになった」とも記されることもあり、この頃から日本絵画への傾倒が読み取れます。その後、1886~1887年頃からゴッホはテオとパリで暮らし始め、手紙のやりとりは少なくなりました。
イギリスやフランスでは日本の芸術や文化が一大ブームとなったのは、ゴッホたち印象派が生きた19世紀後半。当時のパリにはジャポニズムが氾濫し、ゴッホや画家仲間であるエドガー・ドガ、クロード・モネたたちも大きな影響を受けました。ゴッホの集めた日本絵画のコレクションは膨大な量になり、ゴッホは当時の恋人とともにカフェでコレクションを販売してお金にしようとしたほどでした。
ゴッホは自分の作品の中にも日本絵画のテーマや技術を取り入れていきます。たとえば、「雨の橋」は歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」と……
「おいらん」は渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」と驚くほどに一致しています。
この2つの特徴は、元となった日本絵画を、ゴッホが「描いた」額の中に入れたということ。当時の日本の絵画では、画面の端に描かれているものが故意に断ち切られたり、細部がズームされていたり、重要なものが枠を超えて誇張されることがありました。このような日本絵画を学ぶうちにゴッホたち画家は「伝統的な手法で、与えられたキャンバスの中に描く必要はない」という考えに至ったとのこと。
また、高い位置にある広大で歪んだ水平線も、日本絵画から取り入れたもの。「花咲く桃の木」というゴッホの作品は、まるで空中に静止して風景を見ているような感覚になります。
「サント=マリーの海の風景」は葛飾北斎の「富嶽三十六景」にインスピレーションを受けて、平行線・対角線の実験を試みています。この絵画に描かれている水平線は、青空から重さを受けているようなねじれが伺えるのも特徴です。
1888年、テオに向けた手紙の中でゴッホは「私たちは日本絵画を愛していて、日本絵画に影響を受けて実験を繰り返している。それが印象派の共通点だ。私たちは日本に行かないが、それに等しいことといえば、南に行くことだろうか?私は新しいアートの未来が南にあると考えているんだ」と記しており、ゴッホのいたパリからみて日本が南にあることから、南フランスへの移住を示唆しています。その後、ゴッホは実際に南フランスにあるアルルへと移住し、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出しました。
ゴッホがアルルに求めていたのは東洋の版画の中の明るい光や陽気な色彩効果でした。南フランスでアート活動を行う中で、ゴッホの作風はますます日本絵画の持つフラットさや様式を身につけていきました。例えば、歌川広重は「五十三次名所図会・宮 熱田の駅 七里の渡口」の中で、真っ青の空の下、港に立つ人物と無造作に留められた船を描きましたが、人物の前には真っ赤な鳥居が置かれています。このように人物と人工物を同等に扱う空間認識も、ゴッホが日本絵画から取り入れた要素の1つです。
アルルでの生活についてゴッホは「私はここ、日本にいる」とテオへの手紙で記しています。かつて、ゴッホは日本人について「花のように、自然の中で暮らしている」と描写しており、手紙の中でゴッホが記した「日本」という言葉は比喩的に使われたものとみられています。そしてゴッホの絵画では、植物、雨、風、海といった自然がますます描かれるようになりました。
しかし一方で、アルルの近隣住民は未婚でふらふらしているオランダ人画家があちこちに出没することに戸惑い、当局にゴッホを通報することがあったとのこと。また、当初思い描いた「ゴーギャンやベルナールら画家仲間とアーティスト専用の居住地を作る」という計画も頓挫したことから、ゴッホは孤独を深め、精神を病んでいきます。
ゴッホはたびたび発作を起こすようになり、1888年には耳を切り落として娼婦に手渡すという事件が発生しました。しかし、包帯を巻いたゴッホの自画像でさえ、日本の版画をほうふつとさせる鮮やかな背景に描かれていました。
ゴッホが亡くなる数カ月には「花咲くアーモンドの木の枝」という絵画が描かれました。これは、精神病院で療養していたゴッホが、テオに子どもが生まれたことを祝して描いたもの。主題、はっきりした輪郭線、フレームの外側から伸びている枝など、「私の作品は全てどこかしら日本風だ」というゴッホの言葉どおり、いたるところから日本絵画の影響が見られる作品となっています。
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