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「ベルリンの壁」崩壊から20年、建設開始から崩壊までの歴史を写真で振り返る

(by allhails)

1961年に建設されて以来20年以上にわたって東西冷戦の象徴となっていた「ベルリンの壁」が崩壊したのは1989年11月9日のことでした。東欧諸国に民主化の嵐が吹き荒れ、1991年には共産主義圏の盟主たるソビエト連邦も解体されてしまいました。


今回は、このベルリンの壁がいかにして作られ、そしていかにして崩されていったのか、28年間の歴史を振り返ってみたいと思います。

詳細は以下から。
第二次世界大戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4ヶ国による占領を受けることになり、アメリカ、イギリス、フランスの占領地域が「西ドイツ」、ソ連の占領地域が「東ドイツ」として分断されることになりました。首都ベルリンはソ連の占領地域に入っていましたが、市内を4ヶ国で分割占領しました。

1959年9月8日のブランデンブルク門前、東ベルリンから西側を望む。まだ壁が作られる前で、40m先が国境線である旨の看板が立てられています。

(by allhails)

1959年9月11日の写真。写っている男性はちょうど東西ベルリンの国境線に立っています。

(by allhails)

1960年7月30日の東ベルリン。映画撮影が行われています。

(by allhails)

ベルリンはソ連占領地域に囲まれた場所にあり、アメリカ・イギリス・フランスの占領地(西ベルリン)は「共産主義圏の中にある自由地区」のようになったため、東ドイツ国民がどんどん西ベルリンへと逃げ込む事態になりました。


ソ連と東ドイツは住民の流出を防ぐために壁の建設を決定、1961年8月13日に最初の「ベルリンの壁」の建設が始まりました。壁は何度か作り替えられ、1975年にコンクリート製のものが最終形として完成しました。

(by Ivan < Georeferred Pictures! >)

(by GArRA Berlin)

1962年8月27日撮影、ベルナウアー通りの突き当たり。「KZ」という落書きがありますが、これは「強制収容所」の意。

(by allhails)

上記写真の近所、ちょうど壁のそばに立つ家では窓が完全に塞がれています。

(by allhails)

1962年8月28日撮影、ポツダム広場。「ベルリンの壁」は最初からすべて壁として作られたわけではなく、有刺鉄線を張っただけの箇所もありました。

(by allhails)

1964年12月27日、ベルナウアー通りの西ベルリン側から東ベルリン側を望む。

(by allhails)

1970年代初頭、ポイント・チャーリーから東ドイツへ入国した人が撮影した東ドイツ国境警備隊。

(by Nikonsnapper - Now in Australia till December)

1971年7月、西側から見るベルリンの壁。撮影者の母が孫娘に会うためにやってきた時の記念写真。

(by dieburg40)

上の写真を撮影した翌日に、今度は東ベルリン側から撮影したもの。

(by dieburg40)

政局が動いたのは1985年。ソ連共産党の書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任しました。ソ連は長年の共産党支配による政権が腐敗しており、ゴルバチョフ書記長はこれを建て直すべくペレストロイカ(再構築)、グラスノスチ(情報公開)によって民主化を進めました。これにより、共産圏に民主化の機運が高まります。

1986年7月1日に撮影。まさか3年後に壁が崩壊するとは誰も思っていなかったのではないでしょうか。

(by dieburg40)

西側からでしょうか、このような展望台が作られていたようです。

(by Primo1)

ペレストロイカによって起こった民主化を求める声は東欧諸国を直撃、1989年6月にポーランドで自由選挙が実施されたのを皮切りに民主化推進の声は強さを増し、1989年8月19日には汎ヨーロッパ・ピクニックが成功します。

ピクニックが行われたハンガリーの町ショプロン。

(by Franz St.)

東ドイツの人々はこの成功を聞きつけて西側との国境へ殺到、ハンガリーは西ドイツと協議してこれらの人々に西ドイツのパスポートを与えて堂々と出国させるようになりました。もはや東ドイツに人々を止める力は残っておらず、1989年11月9日に東ドイツ政府は事実上の旅行自由化を発表(本来は10日朝に発表予定だったが9日夜の記者会見で誤って発表されてしまった)、東西ベルリンの国境ゲートが開放されました(一般にこれを「ベルリンの壁崩壊」と呼ぶ)。

11月9日深夜、東ベルリンから西ベルリンへと移動すべく壁に上った人たち。

(by jill.odo)

そして10日未明になると建設機械などが運ばれてきて物理的に「ベルリンの壁」は壊されていき、1990年10月3日に東西ドイツは統一を果たします。

(by antaldaniel)

1990年2月19日、壁を削り取る人々。

(by dieburg40)

(by dieburg40)

現在、「ベルリンの壁」はシュプレー川沿いの約1.3km分が文化財として保存されているほか、ライン河畔や宮古島(うえのドイツ文化村)に2枚ずつが移設されています。

ホーネッカーブレジネフの熱い口づけを描いた風刺画部分も保存対象となりました。

(by kenaprenguis)

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in メモ, Posted by logc_nt

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