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ベルリンの壁崩壊から30年が経過した今も「東西ドイツは分断されている」と専門家が指摘

by CH Claudio Schwarz | @purzlbaum

フロリダ州立大学でナチス・ドイツがユダヤ人に対して行った大量虐殺・ホロコーストについて研究を続けるネイサン・ストルツファス教授が、海外メディアのThe Conversation上で、「東西ドイツはいまだに分断されたままだ」と主張しています。

30 years after the Berlin Wall came down, East and West Germany are still divided
https://theconversation.com/30-years-after-the-berlin-wall-came-down-east-and-west-germany-are-still-divided-126589

1989年11月9日、ドイツを東西に分断していたベルリンの壁が崩壊しました。ベルリンの壁は冷戦時代にヨーロッパを資本主義・自由主義を旨とする西側陣営と、共産主義・社会主義を志す東側陣営に分けた、鉄のカーテンを象徴する構造部です。

ベルリンの壁が完成したのは1961年のことで、それから1989年までの28年間にわたり東西ドイツを物理的に分断し続けました。ベルリンの壁の西側は資本主義国家の西ドイツ、東側は共産主義国家の東ドイツとなり、冷戦時には推定で数百万人もの人々が東側から西側に亡命するためにベルリンの壁を越えようとしたと伝えられています。


しかし、ベルリンの壁崩壊間近の1989年9月には東ドイツ国内でも民主化を求めるデモ活動が活発化。これが最終的なベルリンの壁崩壊へとつながります。なお、ベルリンの壁がなぜ建設され、どうして壊されることとなったのかについては、以下の記事により詳細にまとめられています。

東西冷戦の象徴「ベルリンの壁」がなぜ建設され、どうして破壊されたのかがわかるムービー - GIGAZINE


ベルリンの壁が崩壊した翌日、西ドイツが過去に首相を務めた経験もあるヴィリー・ブラントが、「我々ドイツ国民は、共に国家をまとめるためにより多くのことに挑戦する」とコメントしました。しかし、ストルツファス教授によると、「ベルリンの壁崩壊から30年が経過したものの、東西の格差は拡大しているように見える」と述べています。

ストルツファス教授のようにドイツには依然として東西の隔たりが存在していると主張する識者は少なくなく、小説家のピーター・シュナイダーは、ベルリンの壁のような物理的な壁とは異なる「頭の中の壁」の存在を指摘。分断されたドイツで育った人々の子ども世代が経験した「分断」についてThe New York Timesでコラムを記しています

Tearing Down Berlin’s Mental Wall - The New York Times
https://www.nytimes.com/2011/08/13/opinion/tearing-down-berlins-mental-wall.html


西ドイツ出身の政治家であり、東西ドイツの再統一を成し遂げたヘルムート・コールは、ドイツの再統一後に資本主義の力で東西に分断されていたドイツを共に成長させていくという計画を主導します。この計画で、東ドイツ時代にはなかった「雇用」「高い生活水準」「消費者製品」を東側にも供給することが約束されました。計画を通し、基本的には東西ドイツの統一後に、西ドイツのシステムが東側にも拡張されていくこととなったそうです。

しかし、コールが懸念していたように、ドイツの起業家たちは東ドイツの元領土である東部に生産拠点を設立することに消極的で、西部にばかり生産拠点を増やすという事態が起こったそうです。また、東部で運営されていた工場なども、一度廃業し拠点を西部に移すケースが多く見られたとのこと。つまり、ドイツの経済は再統一後も東部と西部の間で大きな隔たりがあるままだったとストルツファス教授は主張しています。

なお、それでも資本主義・民主主義を掲げる西側の人々は「資本主義や民主主義が間もなく東ドイツ人を西ドイツ人にするでしょう」と主張していたそうです。

by Hoite Prins

1990年代には、若い東ドイツ出身者で社会主義とはほとんど無縁だった世代であっても、自分のことを統一後の「ドイツ連邦共和国」国民ではなく、既になくなっているはずの「東ドイツ」国民であると感じている人が多いことが調査により明らかになります。なぜ若い世代にも東ドイツに対する強烈なノスタルジアが残っていたのかというと、親が共産主義者であり、食卓などで東ドイツ時代のエピソードを多く聞いていたためだそうです。

共産主義者の親が子どもに話して聞かせた内容が誇張されたものになっていたかどうかは不明ですが、口頭での伝承は「今や東側は西側に支配されている」という認識に支えられたものだったたとストルツファス教授は語っています。つまり、東側を支持する共産主義者たちは、西側や資本主義を本当に望んでいるわけではなかったとストルツファス教授は指摘しています。

また、ドイツの再統合を快く思っていないのは東側の人々だけではないことも明らかになっています。ヨーロッパで最も発行部数が多いニュース週刊誌であるDer Spiegelによる世論調査によると、ベルリンの壁崩壊前には西ドイツ人の63%が東ドイツ人を西側に受け入れることに賛同していましたが、壁崩壊から2か月後に同様の調査を行ったところ、賛同者の割合は33%にまで低下していたそうです。

西側の人々が東側に対して冷たい反応を見せた理由のひとつは「増税」だそうです。東西統一によりドイツは国家として東部の経済発展に注力することを掲げましたが、そのための資金を「増税」により国民から収集するのではないか、と西ドイツ出身者たちは不安を抱いていたわけです。

by Christian Dubovan

さらに、東西でドイツが分断されていた時代に東ドイツから西ドイツへ亡命してきた人々は、子どもが学校で「東ドイツの豚」などの暴言を吐かれ、いじめの対象となるなどの迫害を受けており、学校の校長を訴えるという事態にまで発展したケースもあるように、東西ドイツ間の心理的な隔たりは再統一後も残されたままだった模様。

他にも、1990年代にドイツ東部のブランデンブルク州で外国人難民への迫害が起きました。このブランデンブルク州ではドイツ西部の3倍も暴力的な事件が起きていたため、「社会主義は東ドイツ出身者が西ドイツの多元主義的な考えを受け入れるための素養を育てられなかったのでは」という議論がドイツ国内で巻き起こり、ここでも東西ドイツ間の心理的な隔たりが強調されることとなりました。

一方、1992年には元西ドイツの領土であるミュンヘンで「デモ活動に不寛容」というドイツのイメージを払しょくするための動きが加速し、ドイツ人政治家やユダヤ人共同体連合など数百万人が集まり、ナチズムを否定し民主主義を守るためのデモ活動が行われました。ここでもリベラルな西側出身者と、排他的な東側出身者の分断具合が浮き彫りになっています。

by Devin Edwards

そして現代、ドイツではナチズムを復興しようというネオナチズムという思想が拡大しつつあります。2013年に結成されたドイツの極右政党である「ドイツのための選択肢(AfD)」も年々支持を広げており、2017年9月の2017年ドイツ連邦議会選挙ではついに国政進出に成功しています。

特に、中東やアジアで100万人を超える難民が死の危機に直面している、とドイツのアンゲラ・ヘルケル首相がコメントしたことから、難民問題で揺れるドイツの東部地域でAfDの支持が高まりました。

2017年にAfDが国政に進出した初の極右政党になった後には、東部のテューリンゲン州の州議会でも2番目に多い議席数を獲得し、主要政党よりも多くの支持を集めています。

ドイツの保守系与党はドイツキリスト教民主同盟およびキリスト教社会同盟となっていますが、2019年初頭に行われた世論調査によると、ドイツキリスト教民主同盟の支持率はドイツ西部では77%と高いものの、東部では42%となっています。そのため、ドイツキリスト教民主同盟はAfDと連立政権を組むことも検討している、とストルツファス教授は記しています。

by Christian Wiediger

AfDの台頭は民主主義に対する世界的な怒りを体現するものだとストルツファス教授は指摘しており、ドイツ東部の出身者は疎外感や無力感を感じており、約半数が自分を二流の市民と卑下していることが調査から明らかになっています。なお、西部出身者の場合は自分を二流の市民だと卑下する人の割合が37%にまで減少するそうで、やはり東部出身者が精神的に圧迫感を感じていることは明らかです。

ドイツの再統一以降、ドイツはさまざまな施策により国家内の経済的格差を縮小させていきました。しかし、依然として格差は存在しているというデータも存在しています。例えば2018年の平均失業率は東部では6.9%だったものの、西部ではわずか4.8%に留まっています。また、2017年のドイツ人の給料データを調査したところ、東部出身のドイツ人は西部出身者のわずか86%しか給料を得られていないことが明らかになっているそうです。

また、ドイツが再統一されたばかりの頃に起きた「生産拠点を西部に置く」という傾向は今日まで反映されているとのこと。ドイツ東部に本社を置く主要企業はなく、ドイツの大手証券取引所であるフランクフルト証券取引所に上場する企業の中で、ドイツ東部に拠点を置く企業は1社も存在しません。

ストルツファス教授は1991年に旧東ドイツ最後の指導者であったエゴン・クレンツにインタビューしたそう。その際、クレンツは「ベルリン壁はそのまま残しておくべきだった」と述べ、旧東ドイツ政府は東ドイツ人により注意を払うべきだったと語ったそうです。

ストルツファス教授は最後に、「ベルリンの壁崩壊30周年は人間が自分の属するグループ以外の人々のために日々の犠牲を支払うことがいかに難しいか、そしてドイツ政府がドイツ東部を西部のように変化させるために実際に何をしたのか熟考する良い機会です」とまとめています。

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in メモ, Posted by logu_ii

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