自分の誕生日と同じ月日に亡くなった有名人たち
毎日世界のどこかで命が生まれたり消えたりしていますが、そんな中には誕生日と同じ月日に亡くなる人も出てきます。何か得をするわけではありませんが、誰にでも誕生日と命日を覚えてもらいやすいという意味ではちょっと得かも知れません。
世界にはそんな生没同日の有名人がいるので、ご紹介します。
詳細は以下から。
mental_floss Blog >> The Quick 10: 10 People Who Died on Their Birthdays
■イングリッド・バーグマン (1915/8/29~1982/8/29)
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イングリッド・バーグマンはスウェーデン・ストックホルム生まれの女優。美容整形を拒否したという美貌と演技で世界を魅了しました。ハリウッド恋愛映画不朽の名作「カサブランカ」やヒッチコックのスリラー映画「白い恐怖」に出演、1944年の映画「ガス燈」と1956年の映画「追想」で2度のアカデミー主演女優賞に輝いています。1982年、乳がん(公式には乳がん手術後のリンパ腫合併症)のため67歳で亡くなりました。同じ年には「クールビューティー」と称され気品ある美貌で人気だった女優グレース・ケリーも交通事故で亡くなっています(52歳)。
■ベティ・フリーダン (1921/2/21~2006/2/21)
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ベティ・フリーダンはアメリカのフェミニスト活動家・作家。1963年出版の「The Feminine Mystique」により女性運動の第2の波を起こしたことで有名です。1966年には全米女性機構の設立者の一人にもなり、1971年には他のフェミニスト活動家らとともに全米婦人政治連盟を設立しました。男女の平等な権利のために憲法改正を強く支持し続け、2006年に鬱血性心不全のため85歳で亡くなりました。
■ジョージ・ケリー・バーンズ (1895/7/18~1954/7/18)
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ジョージ・ケリー・バーンズはアメリカ禁酒法時代の犯罪者。テネシー州メンフィスの裕福な家庭に生まれて高校までは何事もなく育ちましたが、ミシシッピ州立大学に入学したもののクラスについていけず落第することになります。このころにケリーは結婚して2人の子どもをもうけ、タクシー運転手として家計を支えました。ケリーの父親がケリーが大学をやめたことや結婚相手のことが気に入らず仕送りをしなかったため、夫婦は金銭的な問題を抱えるようになり別れました。その後、酒の密売業に手を染め、小さな犯罪や密売を繰り返しました。1933年、オクラホマシティで子ども2人を誘拐する事件を起こしたケリーは特別捜査官の手によって逮捕されて終身刑が言い渡されました。彼は刑務所では模範囚だったようで、1954年の59歳の誕生日にカンザス州のレヴェンワース連邦刑務所にて心臓発作で亡くなりました。
■リーヴァイ・パーソンズ・モートン (1824/5/16~1920/5/16)
リーヴァイ・モートンはアメリカの政治家。下院議員、駐仏大使を経て第23代大統領ベンジャミン・ハリソンの副大統領を務めました。その後はニューヨーク州知事となり、政治から身を退いてからは不動産投資家になりました。1920年に96歳で死去。なお、副大統領だった期間も1889年3月4日から1893年3月4日で、同月同日が連なっています。
■ジョニー・ロングデン (1907/2/14~2003/2/14)
ジョニー・ロングデンは殿堂入りしているアメリカの騎手。1907年にイギリスのヨークシャーで生まれ、1912年にカナダのアルバータ州タベールへ移住。若いときは炭坑で働いていましたが、馬と競馬が好きだったので1927年に騎手になるため当時競馬産業が成長してきていたカリフォルニア州へ移りました。サンタアニタパーク競馬場を主戦場として戦い、1943年にカウントフリートで三冠を達成、1956年にイギリスのゴードン・リチャーズが持っていた4870勝の記録を抜き、サラブレッドレースの世界最多勝利騎手となりました。1943年と1945年に最多獲得賞金、1938年、1947年、1948年に最多勝を記録しており、1958年に殿堂入り、1966年に引退しました。最後のレースはサンタアニタパークでのサンファンカピストラーノハンデ(GⅠ)で、George Royalに騎乗して勝利し有終の美を飾りました。通算成績は3万2413戦6032勝(勝率.186)。その後は調教師となり、1969年にマジェスティックプリンスでケンタッキーダービーを制覇。騎手・調教師の両方でダービーを制覇したのはこれが唯一の例となっています。2003年、96歳で老衰のため亡くなりました。
■カメハメハ大王5世 (1830/12/11~1872/12/11)
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ハワイ王国の国王カメハメハ5世は本名をロット・カプイワといい、1863年から王となりました。彼は国民のために勤勉に働いたので、祖父・カメハメハ1世のような最後の偉大な長だったと評されています。自身に王子・王女がいなかったことから、王と同じカメハメハ1世の孫で元婚約者だったパウアヒ王女に王位を継ぐよう言ったものの、すでにイギリス人と結婚していた王女はこれを拒否。カメハメハ王家の血を引く異母姉などもいましたが後継者として指名することはなく、カメハメハ王朝最後の王として亡くなりました。
■アレン・ドルーリー (1918/9/2~1998/9/2)
アレン・ドルーリーは「Advise and Consent」でピュリッツァー賞を受賞した作家。「Advise and Consent」は1954年に起きたレスター・ハント上院議員自殺事件を描いたもので、1962年にヘンリー・フォンダ主演で映画化されました。
■チャールズ・オーガスト・"スウィード"・リスバーグ (1894/10/13~1975/10/13)
スウイード・リスバーグは1894年生まれの野球選手で、1919年のブラックソックス事件に関わった一人として有名です。1917年にシカゴ・ホワイトソックスの遊撃手として1軍デビューした彼は打者としては平均以下でしたが、守備では素晴らしい能力を見せ、バック・ウィーバーをサードに追いやってショートのレギュラーになりました。1919年に起こったメジャーリーグを揺るがす八百長事件「ブラックソックス事件」では八百長の報酬として1万5000ドル得ました。しかし、事件が発覚して他の7人のプレイヤーとともにメジャーリーグを永久追放となり、サウスダコタのスーフォールズ・カナリースというセミプロチームで野球を続けました。息子の奥さんへのインタビューによると、結局はアメリカ北西部の酒場の主人になったそうです。現役時代、勝つためには手段を選ばなかったことで知られるタイ・カッブによってスパイクで蹴られたことがあり、その傷は治ることがなく、最後は脚を切断するしかなくなったそうです。晩年は息子とその奥さんと一緒に暮らしていて、最後まで熱心な野球ファンだったそうです。1975年、最後の"ブラックソックス"メンバーとしてこの世を去りました。
■ジャン・フェリクス・ピカール (1620/7/21~1682/7/12)
*写真が間違っていたので修正しました。
ジャン・ピカールはフランスの天文学者。彼と双子の兄弟アウグステ・ピカールはスタートレックに登場するジャン=リュック・ピカードの名前の由来となっています。
四大悲劇や「ロミオとジュリエット」などで知られる劇作家のウィリアム・シェイクスピアは1564年4月26日に洗礼を受け、1616年4月26日(グレゴリオ歴では5月3日)に亡くなりましたが、当時は出生証明書が発行されていなかったため、洗礼日が誕生日なのかどうかは明らかになっていません。
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また、テレビドラマ「刑事コジャック」シリーズで知られる俳優テリー・サヴァラスは1922年1月21日に生まれ、誕生日翌日の1994年1月22日に亡くなっています。歌手のマーヴィン・ゲイは誕生日前日に自宅で父親と口論になって射殺されました。
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in Posted by logc_nt
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