メモ

【訃報】「打撃の神様」と呼ばれた巨人V9達成時の監督・川上哲治さん死去


19歳の若さで首位打者を獲得、その打撃術から「打撃の神様」と呼ばれた元読売ジャイアンツ監督の川上哲治さんが老衰のため亡くなりました。93歳でした。

巨人V9「打撃の神様」川上哲治氏死去 - プロ野球ニュース : nikkansports.com
http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20131030-1211387.html



【速報】川上哲治氏が死去  : 47トピックス - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/47topics/e/247106.php



川上さんは熊本県出身。熊本県立工業学校野球部に投手として所属して、夏の甲子園(全国中等学校野球選手権大会)で2度準優勝を経験。卒業後、1938年に東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)に入団しました。

当初はチーム事情もあって投手と野手を兼任しましたが、1939年には19歳で首位打者を獲得。1942年以降は野手に専念して、現役生活20年間で7500打席2351安打、通算打率.313という高い数字を残しており、その打撃術から「打撃の神様」と呼ばれていました。

by Will

1958年に現役を引退したのち、1961年からは巨人の監督を務め、14年間の監督生活で11回の優勝を成し遂げました。特に、1965年から1973年にかけては王貞治・長嶋茂雄という2人のスーパースターの他、金田正一・堀内恒夫・高橋一三・森昌彦(森祇晶)といった名選手・名投手揃いでV9を達成。1965年には、南海ホークスの監督を23年にわたって務めた鶴岡一人氏とともに野球殿堂入りしています。

1974年も順位は2位と悪くないものの、川上体制の盤石さに対するマンネリや、長嶋氏に監督を継がせようとする流れもあって、この年で監督を退任。以後は主に野球解説者・評論家として活動しました。

ちなみに、川上さんの母校である熊本県立工業学校はその後、熊本工業高校と名を変え、野球の強豪校として知られています。現在、甲子園で負けた球児たちが砂を持ち帰るのは、1937年に決勝で敗れた時の川上さんの行為が起源である、という説があります。

この記事のタイトルとURLをコピーする

・関連記事
【訃報】アンパンマンの作者である漫画家やなせたかしさんが逝去 - GIGAZINE

【訃報】「白い巨塔」「華麗なる一族」で知られる作家・山崎豊子さん死去 - GIGAZINE

【訃報】ファミコン生みの親で任天堂前社長の山内溥氏が死去 - GIGAZINE

【訃報】「青空文庫」の創設者である富田倫生さんが死去 - GIGAZINE

in メモ, Posted by logc_nt

You can read the machine translated English article here.