メモ

【訃報】戦後初の三冠王・捕手の通算本塁打1位など名選手にして日本一3回の名監督・野村克也さん死去

by shi.k

強打の捕手として3000試合以上に出場し史上2人目で戦後初の三冠王を獲得、通算657本塁打を放ち、監督としては率いたチームを3回日本一に導いた名将・野村克也さんが、自宅の風呂で亡くなっていたことがわかりました。84歳でした。

プロ野球 野村克也さん死去 84歳 戦後初の三冠王 | NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200211/k10012280931000.html


野村克也さん(84)死去 家政婦が自宅の浴槽で発見
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000175933.html

野村克也さん死去、84歳 プロ野球・阪神などで監督、京丹後市網野町出身|スポーツ|地域のニュース|京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/158113

野村さんは京都府丹後郡網野町(現・京丹後市)出身。1935年(昭和10年)生まれで、貧しい暮らしから脱却するために当時のスター・川上哲治や大下弘に憧れ、プロ野球選手を目指すようになります。その経緯から、巨人の大ファンでしたが、甲子園とは縁のない京都府立峰山高校に進んだことから、選手としては無名で、唯一、顧問の送った推薦状に反応してくれたのが南海ホークスの鶴岡一人監督でした。


1954年に、鶴岡監督率いる南海ホークスにテスト生として入団。この当時の南海は常勝軍団だったことから、当初は野村さんの出場機会はほとんどありませんでしたが、3年目に正捕手の座を獲得。打撃力で大いに活躍し、1957年に初の本塁打王を獲得したのちは毎年のように打撃タイトルを獲得。1965年には三冠王になりました。打撃力向上には、南海ホークスが他球団に先駆けて進めていたデータ収集・活用の影響がありましたが、野村さんはこれを打撃だけではなく配球にも活用し、捕手としての能力も伸ばしました。

1970年のシーズンから1977年までは選手兼任監督としてプレーし、結局、南海時代には1956年・1961年・1964年・1965年・1966年・1973年に優勝し、1959年・1964年の2度、日本一となりました。南海退団後はロッテで1年、西武で2年プレーして、1980年に引退。

その後、解説者を経て、1990年にヤクルトの監督に就任すると、1998年までの9シーズンで1992年・1993年・1995年・1997年の4回優勝し、うち3回は日本一になりました。その経験を受けて、1993年からBクラスに沈んでいた阪神タイガースの監督を3年務めるも、3年とも最下位。社会人・シダックスの監督を経て、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務め、最終年にチームを2位に押し上げました。

晩年は野球評論家・解説者として活動していました。

この記事のタイトルとURLをコピーする

・関連記事
【訃報】中日・阪神・楽天を優勝に導いた闘将・星野仙一さん死去 - GIGAZINE

【訃報】プロ野球で2215試合の連続試合出場記録を樹立した「鉄人」衣笠祥雄氏が死去 - GIGAZINE

【訃報】「打撃の神様」と呼ばれた巨人V9達成時の監督・川上哲治さん死去 - GIGAZINE

【訃報】元プロ野球選手でメジャーリーグでも活躍した伊良部秀輝氏が自殺 - GIGAZINE

in メモ, Posted by logc_nt

You can read the machine translated English article here.