現代まで強い影響を残す19世紀中国とイギリスの「アヘン戦争」について解説したムービー

19世紀の清(中国)とイギリスの間で2年間にわたり行われたアヘン戦争の経緯と裏側について、教育系YouTubeチャンネルのNightshiftが「アヘン戦争の狂気の物語」と題したアニメーションで解説しています。
The Crazy Story of the Opium Wars - YouTube

1839年頃の中国では大量のアヘンが流通しており、広州港を経由して年間4万箱ものアヘンが持ち込まれていたとされています。お茶と点心、そしてアヘンを吸うためのパイプがセットとして出てくるお店があるほど、巨大な市場が形成されていたそうです。

中国でアヘンが広まった発端は、18世紀後半にイギリス国内で紅茶需要が急増したことにあります。紅茶の消費量は1世紀のうちに「1万%」も増加し、お茶関連の税収は国家財政の約10%を占めるまでになったとされています。当時の紅茶の供給源はほぼ中国に限られていましたが、中国は自らを「文明の中心」と見なして外国製品の輸入に積極的ではなかったため、物品の輸出入によるトレードが成立しませんでした。インド洋沿岸に設置されていたアジア貿易の拠点であるイギリス東インド会社は中国側に銀を支払って紅茶を購入しつつ、中国側はイギリスから何も購入しないという、イギリスにとって銀の流出が深刻な問題となる一方的な貿易構造が生じていました。

そこで1793年、イギリスは清に対して貿易拡大を求める使節団を派遣しましたが、当時の清皇帝である乾隆帝は「我が天朝はあらゆるものを豊富に有しているため、異国の蛮族の製品を輸入する必要はない」と提案を拒否しました。イギリスは中国に売ることができる商品を必死に探した結果、アヘンが注目されることになります。

アヘンはケシから採れる物質で、ケシのさやを切るとモルヒネとコデインが詰まった乳白色の粘液「生のアヘン」がにじみ出ます。モルヒネとコデインは共に鎮痛作用があることから、アヘンは古くから鎮痛剤として使用されていたほか、麻酔が開発される以前にはアヘンとマンドレイクジュースを浸したスポンジを患者に塗布することで痛みを鈍らせていたという記録も残っています。
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中国では17世紀頃からアヘンの嗜好品としての需要が拡大しており、中国南部の港街では裕福な商人たちの社交イベント用に高額で取引されていました。また、18世紀にイギリス東インド会社はインドのベンガル地方を支配した際、周辺地域でアヘン栽培が行われていたことで、農民に食料作物の代わりに換金性の高いケシの栽培を強制しました。大規模なアヘン生産政策は食料不足を招き、飢饉(ききん)の一因になったとも指摘されています。中国への貿易商品を探していたイギリスにとってベンガル地方でのアヘン生産は偶然のビジネスチャンスであり、アヘンはベンガルにある港湾都市のコルカタ(当時カルカッタ)の民間商人を経由して中国へ密輸されるようになりました。

こうしてそれまでイギリスから中国へ一方的に流出していた銀は、アヘンの密輸により中国からイギリスへ流れ込むようになり、数十年のうちにアヘン貿易はイギリス財政の基盤となっていきます。そして1833年に東インド会社の中国貿易独占が廃止されると、アヘン密輸にも民間商人が参入してアヘンの流通はさらに拡大しました。これにより、アヘンは一部の富裕層から広範な市場へと広がっていきます。

清朝はアヘン購入による銀の流出が経済を圧迫していたことを重く受け止め、1839年に清の官僚である林則徐が広州に派遣され、アヘンを常態的に取り扱っていた店を摘発してアヘン用のパイプを押収したり関係者を逮捕したりと、厳格な取り締まりを実行しました。林はアヘンの全面禁止を宣言し、違反者には厳罰を科す方針を打ち出しました。さらに外国商人に対しても圧力をかけ保有しているアヘンの引き渡しを要求し、2万箱以上のアヘンが没収されて石灰と塩水で処理され後に海へと廃棄されました。

失われたアヘンの価値は当時の国家予算の約4%に相当する規模だったとされており、現在の価値で約550億ポンド(約11兆円)とイギリスの国防予算に近い額となります。中国政府のアヘン没収措置に対し、1839年の10月にイギリス内閣は中国に支払いを強制するため、港を占拠して軍艦を派遣することを決定しました。1840年の6月には香港沖でイギリスの艦隊が確認され、8月までには軍艦16隻や輸送船27隻を含む兵士4000人が中国に到着しました。この時、産業革命を経たイギリスは蒸気船や近代兵器を備えていたのに対し、清朝側は80万人の兵士を抱えていたものの旧式の武器が中心で、両者の軍事力には大きな差がありました。この時投入されたイギリス側の船には、世界初の蒸気動力鉄製軍艦である「ネメシス」もあり、清朝では「悪魔の船」として恐れられました。

イギリスの進攻は2年間続き、1842年8月29日に中国の役人たちは南京条約を締結するためにイギリスの軍艦に乗り込みました。結果として中国は破棄されたアヘンの代金として清朝の年間国家収入の3分の1以上にあたる「600万銀ドル」を支払ったほか、身代金やイギリス軍艦の修理および燃料補給のために1500万ドル(約23億円)を支払うこととなりました。支払いを合計すると約4500万ドル(約70億円)に達し、当時の清朝の年間所得の約半分に相当するとも言われています。また、香港を割譲して複数の港を開港することになり、中国は貿易の主導権を大きく失いました。

南京条約において、戦争の直接的な原因となったアヘンについては明確に扱われませんでした。また、「第二次アヘン戦争」とも呼ばれるアロー戦争が1856年に開戦し、1860年の北京条約でも南京条約に続いて中国に不利な賠償金や開港などが定められました。その後も中国国内でアヘンの流通は続き、最終的には合法化されるに至ります。
アヘン戦争以降、中国は西洋列強との関係で不利な立場に置かれ続け、この時代は後に「百年国恥」と呼ばれるようになります。最終的に200年近く繁栄を重ねてきた清王朝は1912年に崩壊しました。
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Nightshiftによると、アヘンは中国では「国を滅ぼす外来の毒物」と認識され、西洋においては「東洋の危険な薬物」と再定義されているそうです。アヘン戦争を含めた一連の対立は現在の政治や教育にも影響を与え続けているとNightshiftは指摘しています。
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