メモ

ほとんど何もない場所にポツンと立てられた歩道橋の謎に迫った記録


アメリカのミネソタ州ミネアポリスに位置する歩道橋は、いつ、誰が、何のために建てたものなのかという公式記録がほとんど残っていません。付近をよく通り、ふと歩道橋の存在について気になったというブロガーのタイラー・ヴィーゲン氏が、歩道橋がなぜ建てられたのかという謎を解明し、その報告書を公開しました。

The Mystery of the Bloomfield Bridge
https://tylervigen.com/the-mystery-of-the-bloomfield-bridge

ミネアポリス空港のすぐ西に、州間高速道494号線(I-494)をまたいでブルーミントン市とリッチフィールド市を結んでいる歩道橋があります。歩道橋の北側にはファストフード店のタコベル、南側にはGraingerという工業用品店の倉庫がありますが、この歩道橋が使われることはほとんどないそうです。


ヴィーゲン氏は歩道橋の下の道路をよく車で通るそうですが、特に歩きやすい場所にあるわけでもなく、明らかにつながる必要のある施設をつないでいるわけでもない歩道橋の存在に疑問を感じました。ある日タコベルを出て歩道橋のたもとに着いたヴィーゲン氏は、歩道橋にあるもうひとつの奇妙な点、歩道橋の北端が歩道ではなく道路脇の緑地につながっているという点に気がつきます。「なぜ歩道がないのか?意味がわからない!」と思ったヴィーゲン氏は、歩道橋について徹底的な調査を開始することに決めました。


ヴィーゲン氏がGraingerの人に歩道橋について聞いてみたところ、「従業員も顧客も利用しないし、端にはゴミが溜まっているので好きじゃありません」と答えたとのこと。従業員はまた「向こうのタコベルでは食事しません。近くにもっとおいしいメキシコ料理レストランがありますよ」とも話し、このことから、地元住民はおろか、歩道橋を最も利用するであろうお店の人まで歩道橋の存在を無視していたことが分かりました。


次にヴィーゲン氏は橋桁に記載されていた番号をインターネットで検索しました。歩道橋には「連邦援助プロジェクト FAI 494-4-32 ミネソタ 1959」と書かれたプレートがあったため、ヴィーゲン氏はまず「連邦援助プロジェクト 494-4-32」から検索しましたが、まったく何もヒットしなかったとのこと。連邦補助プロジェクトの記録サイトはありましたが、確認できた最も古い記録は1992年でした。


「このような大胆なプレートから、これほど何も学べないとは思ってもみませんでした」とヴィーゲン氏。その他の単語でも詳しい情報は見当たらなかったため、ヴィーゲン氏は次に建設当時の写真を見て調査を進めます。

建設当時(1959年)に撮影されたと思われる航空写真。赤い矢印で示されたのが問題の歩道橋で、この当時は南端に畑以外何もなかったことがわかります。


ここで当然「なぜ何もない土地に歩道橋を架けるのか?」という疑問が湧きます。確かに畑の南側には住宅地がありますが、もしその住宅地にいるのであれば、もう少し東か西にある2つの歩道を使えばいいはずです。住宅地のために歩道橋を架けたのではないとすれば、何のために架けられたのでしょうか。

ヴィーゲン氏がインターネットで調べたところ、「I-494 架橋委員会」という団体が見つかりました。この委員会はI-494沿線都市の住民からなる団体で、I-494のひどい渋滞を解消するべく、なるべく車で走らないよう人々に奨励することを活動目的としていました。


ヴィーゲン氏は委員会のエグゼクティブ・ディレクターであるメリッサ・マディソン氏にメッセージを送り、歩道橋について調査していることを説明し、歩道橋が建設された理由について何か情報を提供してもらえないかと尋ねます。

マディソン氏はすぐに返信をくれて、快く時間を割いてくれたとのこと。メリッサ氏はなぜ歩道橋がそこにあるのか知りませんでしたが、市や州の職員に何度か連絡を取ってどんな情報が得られるか調べてくれたそうです。


マディソン氏はブルーミントンのプランニング・マネージャーであったグレン・マーケガード氏に話をつけてくれましたが、マーケガード氏もなぜ歩道橋がそこにあるのかを知りませんでした。しかしマーケガード氏は「おそらく将来の開発を見越して建設されたのでしょう」と指摘し、当時のインフラの多くは将来の成長を見越して建設されたもので、空き地の存在もこの説を裏付けているようだとの考えを示しました。

そこで、ヴィーゲン氏はこの説を深掘りすることにしました。ヴィーゲン氏によると、1959年は州間高速道路建設の全盛期だったとのこと。1956年にアイゼンハワー大統領が「カリフォルニアへの道に段差が多すぎる」と判断して連邦高速道路法に署名したことにより、州間高速道路の建設費用の90%を連邦政府が援助するようになり、道路の整備が積極的に行われ始めました。


州間高速道路建設のスピードは当時政治的にホットな話題で、資金に余裕があった政治家は人々の雇用を創出するために労働計画を立ち上げなければいけませんでした。当時のブルーミントンやリッチフィールドの高成長ぶり、将来的な開発の見込みを組み合わせると、政治家が歩道橋の建設に白羽の矢を立てたとしてもおかしくありません。このことから、「歩道橋が建設されたのは公共事業の捻出のためで、具体的な理由は存在しなかったのでは?」という仮説が見えてきました。

しかし、「仮に理由がなかったとしても、なぜその場所に建てられたのか?」という疑問が残ります。「歩道橋があの場所に建てられたのには必ず理由があるはずだ」と考えたヴィーゲン氏はさらなる調査を行いました。

ヴィーゲン氏がこの問題について多くの人と議論したところ、「一定間隔につき歩道橋を必ず建設しなければならないという法律があったのでは?」という意見が出たそうです。1960年代は自動車の時代でしたが、自転車乗りが道路の改善を主張する大きな声を上げていたこともあり、自転車も走れる歩道橋を建てなければいけないという法律があってもおかしくありませんでした。

しかし、この手の法律は存在しなかったことが判明します。加えて歩道橋がない州間高速道路は山ほどあり、494号線に絞っても、問題の歩道橋と同時期に建設されたものは他にひとつしかありません。これにより、法律で定められていたという説は否定されました。

ただ、「橋を架けなければならない」という法律がなかったとしても、橋を架ける場所に関する裁量権くらいは定められていたはずです。これに関して調査を進めたヴィーゲン氏は、高速道路を管理するミネソタ州運輸局の橋梁課に手紙を書きました。


橋梁課のピーター・ウィルソン氏はすぐに返事を出し、歩道橋の設計図原本と、建設直後に撮影された歩道橋の写真を提供してくれたとのこと。設計図には歩道橋がどのように建設されたかが徹底的に記されており、建設に携わった多くの人々や会社の名前も記されていました。しかし、なぜここに歩道橋が建設されたのかは説明されていませんでした。

建設当時の写真。


2023年時点での写真。歩道橋の姿はほとんど変わっていません。


歩道橋を真正面から撮ったモノクロ写真。歩道橋の向こう側に、「アトランティック・ミルズ・スリフト・センター」と書かれた看板と建物が見えます。このスリフト・センター、つまりリサイクルショップが歩道橋を作るよう働きかけた可能性もあります。


しかし残念ながら、1959年当時歩道橋の建設に携わっていた人は全員すでに亡くなっていました。ヴィーゲン氏の祖母はアトランティック・ミルズを覚えていたものの、「とてもいいセールをやっていた」ということしか記憶になかったそうです。

次にヴィーゲン氏がたどったのは古い新聞でした。ヴィーゲン氏は以前、新聞のアーカイブサービスで「494」「78th street(歩道橋付近の通りの名前)」「歩道橋」などで検索していましたが、あまり役に立つ結果は得られていませんでした。しかし、「アトランティック・ミルズ」で検索するとヒットがあり、歩道橋が架けられた1959年のまさにその年に、アトランティック・ミルズが建設予定だという記事が発行されていました。

「サウス・ミネアポリスにアトランティック・ミルズが入る」という見出しの新聞の切り抜きで、黄色くハイライトした部分に「78丁目とニコレットのブルーミントンかリッチフィールドが候補地だ」という記述があります。


記事によると、1959年2月の時点では場所がまだ確定していなかったようです。一方でミネソタ州運輸局から得た資料には「建設のための現地調査を1955年の10月に済ませていた」との記録がありました。このことは、アトランティック・ミルズの場所が決まる少なくとも3年前に歩道橋の計画が始まっていたことを示しており、したがってアトランティック・ミルズが歩道橋の位置に影響を与えたとは考えにくく、むしろ歩道橋が建つからアトランティック・ミルズを建てたと考える方が自然です。

この時点で有効な手がかりをすべて使い果たしていたヴィーゲン氏は、次に1800年代から1900年代にかけての航空写真や地図を見直してみることにします。いくつかめくってみると、興味深い点がふたつ見いだされました。

まず、歩道橋が建設された地域は、かつて「ブルームフィールド」と呼ばれていたことがわかりました。


地図で「ブルームフィールド」と表示されている地域は、現在の「ブルーミントン」と「リッチフィールド」の間の地域を指していました。しかし、「ブルームフィールド」という地名は1800年代後半から1950年代までの地図に記録されていたものの、やがて消えてしまいます。

もうひとつ、アメリカ内務省が1954年に作成した地図には、歩道橋が建設される場所のすぐ北に「アサンプション・スクール(Assumption Sch.)」と目立つように書かれていました。これは大きなヒントで、ここに学校があったのだとすれば、歩道橋を架ける理由としてはベストなものだったはずです。


アサンプション・スクールは、記事作成時点ではアサンプション教会として形を残しています。


教会は州間高速道路から見ると木立の陰に隠れていて、ヴィーゲン氏は気づきませんでした。


アサンプション教会のウェブサイトには「歴史」についてのページがあります。これによると、教会は1800年代に建てられ、1900年代には学校としての役割も兼ねて地域社会とともに発展し、1959年から1961年にかけてのピーク時には1170人もの生徒が通っていたとのこと。

「なんという発見だろう!」とヴィーゲン氏。氏は教会に連絡を取り、「1950年代か1960年代にこの地域に住んでいた人で、私と話をしてくれる人がいたら、私の連絡先を伝えてもらえないでしょうか」と尋ねました。

翌日、アン・アントンと名乗る女性から電話がありました。アントン氏は1948年生まれの75歳で、1950年代に家族とともにリッチフィールドに移り住み、現在もそこに住んでいると話しました。アントン氏は6年生から8年生(日本では小学6年生から中学2年生に相当)までアサンプションの学校に通っていて、自身は歩道橋を使う必要はなかったものの、道路の反対側に住む子どもたちが歩道橋を使う姿をよく見ていたそうです。

アサンプション教会が1950年代から1960年代にかけてコミュニティの成長の柱であったとの文献を裏付けるように、アントン氏は「教会はこの地域の社交活動の中心でした」と語り、何百人もの地域住民が集まって活動拠点の建物を建てたほどだったと、過去を振り返りました。


アントン氏の99歳になる母親はかつてアサンプション・スクールの校長を務めていましたが、歩道橋について覚えていることは何もなかったそうです。アントン氏も建設された理由については知りませんでしたが、通学路として使うためだったことは間違いないと考えていました。

アントン氏の話は歩道橋通学路説を裏付ける有力な証言ですが、まだ確かな証拠とはいえません。ヴィーゲン氏は引き続き調査しました。

次にヴィーゲン氏が調べたのは、当時の歴史について記した「ミネアポリスのフリーウェイ」と題するジョージ・バートン氏の報告書でした。バートン氏は州間高速道路をどこに建設すべきかを調査するようミネアポリスから委託された人物で、報告書の中でバートン氏は「特に教会や学校の近くに歩道橋を作るべき。さすれば、高速道路が通学の障害とはなるまい」と記述していました。


これは、学校近くにかかる歩道橋が生徒のために建設された可能性があることを示す、これまで確認された中で最も有力な証拠でした。

次にヴィーゲン氏は、州間高速道路計画や連邦援助プロジェクト、ミネソタ州道路局に関する記録で、I-494や歩道橋の建設に関連しそうなものをすべて引き出してくれるよう、歴史センターの職員に頼み込みます。それらの資料を見直した結果、最も役に立ちそうだった記録は、当時9年生(中学3年生相当)のハワード・カイロさんが書いた歴史のレポートでした。


カイロさんが記したこのレポートは学校の課題として書かれたものでしたが、どういうわけか歴史学会の書庫に入っていたとのこと。レポートの中で、カイロさんはヴィーゲン氏の疑問にいくつかの答えをもたらしました。


レポートによると、1875年にアサンプション教会が建てられたとき、ブルーミントンとリッチフィールドに住んでいた教区のメンバー双方を満足させるために、その場所は「ブルームフィールド」と呼ばれるようになったとのこと。


この地域がブルームフィールドと呼ばれるようになったのは教会があったからであり、ブルームフィールドという名前は、ブルーミントンとリッチフィールドが密接に結びついていたことを物語るものでした。

ヴィーゲン氏は「くだらない話に聞こえるかもしれませんが、教会が建った当時、州間高速道路の両側には密接なコミュニティーのつながりがあり、そのつながりを示すためにわざわざ都市名を連結させたのです。ブルームフィールドの跡地にコミュニティを再び結ぶ歩道橋を建てることほど、両者のつながりを示すのにふさわしいものがあるでしょうか?」と指摘しています。

カイロさんは自分のレポートの出典をうまく引用していなかったので、ヴィーゲン氏はカイロさんの主張を裏付ける別の一次資料を探しました。

ヴィーゲン氏が見つけたアサンプション教会の歴史を記録した文書には、設立に際し誰よりも多くの寄付を行ったヴァレンタイン・ヘグという人物に配慮し、ヘグが住んでいたブルーミントンと、教会を建てたリッチフィールドを混ぜ合わせたブルームフィールドという地名が付けられたと記されていました。


さらに、「ミネソタの最も偉大な世代-ミネソタ歴史協会」と題された歴史資料から、I-494が地元住民に「ベルトライン」と呼ばれていたことも明らかになります。「ベルトライン」で検索するとこれまで見つからなかった情報がヒットし、地元紙のミネアポリス・スターから「スーパー・ベルトラインの計画に関するコミュニティ・ヒアリング」に言及した記事を発見することに成功したそうです。


その記事は1955年に掲載されたものでしたが、記事から得られた新しい情報はありませんでした。そこでヴィーゲン氏はダメ元で市議会に議事録がないかどうか聞いてみたのですが、運が良いことに1955年当時の議事録が現存していたことが判明します。しかし、そこには「議論は続いた」としか書かれておらず、役に立つ情報はなかったそうです。


次にヴィーゲン氏がとったアプローチが「他の歩道橋を調べる」というものです。他の歩道橋を調べれば、なぜこの地域に歩道橋が作られたのかわかるだろうと考えたのです。

ヴィーゲン氏がおよそ500kmにわたる高速道路すべての歩道橋を手作業で調べ上げたところ、合計31個の歩道橋が見つかり、そのうち23個(74%)が協会または学校につながっていることが判明します。教会や学校につながっていない歩道橋のほとんどは公園や病院につながっていて、ただ近所をつないでいるだけに見えたものはたったふたつでした。


散々駆けずり回ったヴィーゲン氏が「もうこれ以上の成果は出ない」と考えて調査結果を公開しようとした矢先、偶然にも公共事業管理に携わる同僚と話す機会を得ました。

デンバー市の最高執行責任者としてインフラを管理しているジャネル・フォアード氏は、ヴィーゲン氏の写真を見て「古い書類を見るのはやめたほうがいい。インフラプロジェクトの本当の理由なんて誰も書かないよ。まずは権力者を探すといい」と話したそうです。ヴィーゲン氏の仮説を立証したいのであれば、教会と歩道橋の両方に関係している人物を探すべきだとアドバイスしたのです。

そこでヴィーゲン氏が権力者をリストアップしたところ、歩道橋が計画されていた当時リッチフィールド市長だったフレッド・キッテルが目にとまります。この人物は、以前、「議論は続いた」とだけ書かれた議事録にも登場していました。

ファーストネームで検索をかけたヴィーゲン氏は、1955年発行のミネアポリス・スターから「リッチフィールド、高速道路の条件を提示」と書かれた記事を発見します。その中でキッテル市長は州間高速道路計画について話しており、その中に「セカンド・アベニューに、アサンプション学校・教会に通じる歩道橋を計画すべきだ」との一文があったそうです。


ヴィーゲン氏がこれを読んで最初に思ったのは、「なんてこった!これじゃないか!」だったそうです。「セカンド・アベニューに学校へ通じる歩道橋を建設する」という一文は、まさにヴィーゲン氏が探していた、歩道橋建設の根拠でした。

ちなみに、2番目に思ったのは「待てよ、この謎はずっとソファに座りながら解くことができたんじゃないか?あちこち飛び回る必要なんてなかったのに」だったとのこと。

ヴィーゲン氏は「『専門家を早期に雇うべきか?』という議論がもしあれば、このエピソードを紹介します。最初に同僚に相談していれば2カ月は節約できたかもしれません。しかし、少なくともこれでブルームフィールド歩道橋の謎に対する完全な答えが得られました」と記し、「公式記録はもう残っていないが、少なくともこの報告は、ブルームフィールドに建設された歩道橋の全貌を伝えるものである」との一文で締めくくりました。

なお、この報告が公開された後、多くの地元住民が昔の思い出話を共有してくれたそうです。その中には、歩道橋を使用している子どもたちを写した写真もありました。

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in Posted by log1p_kr

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