アメリカで約3000kmの道のりを駆け抜けた実験的自転車部隊の歴史
by Felix63
徒歩よりも速く、車やバイクよりも手軽な移動手段として発展途上国から先進国に至るまで広く使われている「自転車」ですが、かつては軍隊の移動手段として活用する試みがありました。軍事系メディア・アーミータイムズのサラ・シカード氏は、自転車を配備した「自転車部隊」をアメリカが結成しようとして失敗したエピソードについて紹介しています。
U.S. Army's 25th Infantry Bicycle Corps: Wheels of War
https://www.historynet.com/us-armys-25th-infantry-bicycle-corps-wheels-of-war/
How the Army tried and failed to build a bicycle corps
https://www.armytimes.com/news/your-army/2020/02/25/how-the-army-tried-and-failed-to-build-a-bicycle-corps/
1880年頃に現代の形に近い後輪チェーン駆動型の自転車が登場して以来、馬よりも軽く、静かで、管理も楽だという点から自転車を軍隊の移動手段として用いる試みがイギリスやフランスなど各国で行われてきました。アメリカ陸軍も19世紀後半に自転車部隊の開発を試みましたが、これは失敗に終わっています。
1869年、陸軍はアフリカ系アメリカ人で構成する「第25歩兵部隊」を編成。この部隊はミシシッピ以西に配属され、1880年にダコタ準州に移されるまでテキサス州の開拓地に駐屯していました。8年後、部隊は狩猟と釣りの楽園であるモンタナ州のミズーラ基地に移り、そこから鉄道や鉱山でのストライキ時の平和維持部隊として派遣され、モンタナ州とアイダホ州の森林火災に対処するなどの実績を残していますが、この部隊がこなした最も過酷な任務のひとつといわれているのが「自転車による現実的な現場状況下での長距離サイクリング」でした。
当時の少将、ネルソン・マイルズ氏は「次の大戦時には自転車が最も重要な機械になることに疑いの余地はない」という考えを抱き、ジェームズ・モス中尉の下に8人の下士官を据えた自転車部隊を編成。A.G.SPALDING&BROSから寄贈された軍用仕様の最新式自転車を与え、所定のルートを自転車で走破する訓練を行うよう計らいました。
1896年7月、モス中尉率いる自転車部隊による最初の長距離走破訓練が実施されます。部隊は往復126マイル(約200km)にもなる道のりを3日かけて走破し、豪雨や強い風、急勾配などの環境下で自転車部隊がいかなる影響を受けるかが確認された後、翌月には10日間かけて500マイル(約800km)を走破する訓練を行い、平均時速約6マイル(約10km)という当時としては画期的な速度で移動することに成功します。
こうした経験を経て、1897年に本格的な超長距離移動訓練が行われることになります。選ばれたルートはミズーラ砦の隊本部からモンタナ州、ワイオミング州、サウスダコタ州、ネブラスカ州、ミズーリ州にかけて鉄道沿線を通るもので、その距離、困難な地形、極端な天候と道路事情から「軍事実験として最適なルート」だとされていました。
by Gigillo83
モス中尉は、この遠征に志願した40人の歩兵の中から20人を選出。年齢は24歳から39歳までで、体調は万全。うち5人は前年の訓練にも参加したベテランでした。モス中尉はこの部隊を「熱意にあふれている」と称賛。部隊には歩兵のほか、外科医助手のジェームズ・M・ケネディ医師と、デイリー・ミズーリ新聞の記者エドワード・ブースも加わっています。
各部隊員は、シェルターテントとポール、下着一式、靴下2足、ハンカチ、歯ブラシと歯磨き粉を含む重さ10ポンド(約4.5kg)の荷物を携行。さらにベーコンやパン、牛肉の缶詰などの食糧を自転車のフレームに取り付けた固い革のケースに入れて運ぶことになったため、荷物の総重量は1台当たり59ポンド(約27kg)に到達していたとのこと。これらに加え、全員が10ポンドのクラッグ・ヨルゲンセン・ライフルと50発のカートリッジ・ベルトを携行しました。
部隊は1897年6月14日午前5時30分にミズーラ基地を出発。声援と共に華々しく見送られたはいいものの、すぐに大雨に見舞われ、道は泥だらけに変わってしまったとのこと。モス中尉は当時の状況を「泥を避けるために雑草や下草の中を進むことになった。1時間の休憩のために停車し、その後泥だらけの丘陵地帯の道を走り……というより行軍を再開した」と記しています。こうした雨天にもかかわらず、初日は54マイル(約87km)を走破することに成功しています。
しかし、雨は夜通し激しく降り続き、朝には道路はまったく通れなくなっていました。霧雨が降る中、部隊は当初のルートを断念し、鉄道の線路の上を走ることになります。一行は泥の代わりに枕木を踏み続けることによる激しい揺れに耐えなければなりませんでした。
4日目の正午近く、隊員たちは凍てつくような気温とみぞれや雪に耐えながらコンチネンタル・ディバイドを横断。部隊はたびたび停車し、手と耳を温める必要がありました。山を下り始めると雪解けが進み、兵士たちは足首までの深さの水の中を漕ぐことになったそうです。
過酷な環境を走るという課題に加え、食糧と水の供給の問題も浮上しました。兵士たちは重量の関係から2日分の食糧しか持っていくことができず、100マイル(約160km)ごとに設置された補給所で確保するということになっていたため、おのずと1日でおよそ80kmを行軍する必要が生じていたのです。しかし、そううまく走れる日ばかりではなく、寒さと空腹で苦しむこともありました。
部隊がワイオミング州、サウスダコタ州、ネブラスカ州を移動するにつれ、水が重大な問題となりました。唯一の飲料水は鉄道車両のタンクから供給されていたものの、兵士たちが鉄道から離れすぎると自然の水を飲むしかなくなり、部隊全体が病気になってしまったとのこと。
モス中尉の報告書には「6月29日、灼熱の太陽の下、ほとんど勾配が続く道を20マイル(約32km)以上走った後、昼食のために町に立ち寄った。しかし、次に水が手に入るのは30マイル(約48km)ほど離れたムーアクロフトの町だと知らされ、隊は再び出発した。午後7時までに隊員たちは約16マイル(約26km)を駆け抜けた」との記載があります。このとき一人の自転車が壊れてしまったそうですが、修理よりも水の補給を優先したため、その歩兵は自転車を押して運ぶしかなかったことも記されています。
出発から3週間が経過する頃には水問題が深刻化。日中の気温が非常に高かったこともあり、部隊は夜明けに出発し、日中の最も暑い時間帯に休息をとり、午後の終わりまで走り続けるというサイクルを繰り返していたそうです。道路事情が良ければ、月明かりの下を走ることもあったとのこと。
ゴールが近づいてきた頃、新聞記者のヘンリー・ルーカスが自転車部隊のキャンプを訪れて選手たちをセントルイスの町までエスコートする準備を計画します。このとき、ルーカスはセントルイス・スター紙に「選手たちの体調は万全かつ意気揚々」と伝えていたそうです。
7月24日、何百人ものセントルイス住民が近づいてくる部隊を迎え、その後数日間、何千人もの観客がキャンプ地を訪ねてきたとのこと。セントルイスのサイクリストたちは部隊に敬意を表してパレードを主催し、セントルイス・スター紙は「車輪の歴史上最も素晴らしいサイクリング旅行であり、記録上最も急速な軍隊行進であった」と盛大に書き記しています。
40日間かけた自転車部隊の旅は終わり、隊員たちは総走行距離1900マイル(約3000km)走破の記録を打ち立てました。ただ、このうち400マイル(約640km)近くは「悪天候のため押して歩いた」と記録されています。1日の移動距離は平均52マイル(約84km)~60マイル(約97km)で、同じ条件下で騎兵や歩兵の2倍の速さで移動でき、コストも3分の1に抑えられることを実証しました。
by Karen Roe
ただ、旅の間に陸軍は自転車部隊への興味を失い、部隊を列車でミズーラへ送り返しています。モス中尉は「橋や峠を占領し、増援が到着するまでそれを維持するような、数よりも速度が要求される状況で特に有用である」「馬よりも多くの利点があるが、騎兵隊と歩兵隊は互いに補完しあうものであり、自転車隊は騎兵隊と歩兵隊の補助的な役割を果たすのが最善である」との考えを示して訓練の継続を訴えましたが、残念ながら1898年の米西戦争の影響で結局承認されず、その後は自動車の活用が試みられることになります。
自転車隊はすぐに解散となり、第25歩兵自転車隊の苦難の経験が繰り返されることは二度とありませんでした。
なお、自転車部隊の実用例としては、太平洋戦争時の日本軍がマレー半島やフィリピンで用いた「銀輪部隊」などが知られています。
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in Posted by log1p_kr
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