文章を書く際には「私」という単語をもっと使って一人称視点で書くべきだという主張
何かを主張したり、良い物をオススメしたかったり、何かを教育・解説したりしたい時には、できるだけ客観的な立場で文章を書こうと努める人も多いはず。しかし、オーストラリアのクイーンズランド大学で批判的思考(クリティカルシンキング)の講師を行うピーター・エラートン氏は、一人称視点で主観的に描くことにより、より合理的で学術的になるケースもあると指摘し、「文章を書く際にはもっとI(私)という単語を使うべきです」と主張しています。
We should use 'I' more in academic writing – there is benefit to first-person perspective
https://theconversation.com/we-should-use-i-more-in-academic-writing-there-is-benefit-to-first-person-perspective-131898
文章を「私は~」から始める、すなわち一人称で書くことについて、文章が主観的になりすぎるという意見もあれば、正確さのために不可欠だとする人もいます。とりわけ学術論文などアカデミックな性質が強い文章では、著者の役割は議論を冷静かつ客観的に説明することのため、著者の個人的な意見が求められない場合もあります。しかし、エラートン氏によると、学会では一人称視点を取り入れる動きが受け入れられつつあり、一人称を使う方がただ客観的な文章よりも意味があり、厳密さが出る場合もあるとのこと。
エラートン氏は、「一人称のライティングが、三人称を使用する場合よりも、特に効果的な場面」として3つのカテゴリーを挙げています。
・学者が個人的な見解や主張を述べている場合
例えば、「3つのカテゴリーで一人称のライティングが優れています」と主張する場合でも、「3つのカテゴリーがあります(there are three categories)」と書くよりも、「私は3つのカテゴリーを挙げます(I will give three categories)」といったように、私(I)を主語とした文章が望ましいとエラートン氏は指摘しています。「あります(there are)」とした場合、何らかの客観的事実を発見したことが主張されますが、「私が挙げます(I will give)」とした場合、「より知的に正直で説明責任のあるアプローチ」になるとエラートン氏は解釈しています。
客観的な事実を発見する書き方の場合、それが疑いがなく自明であれば問題ありませんが、あくまで自身の見解が含まれる場合、その立場に必要以上の客観性を与えることになります。また同様に、「議論の余地がある」と主張を締めくくる場合や、「決定された」など受動態を使った表現も、「責任を回避する表現」として好ましくないとエラートン氏は語っています。
実際に、有名な科学雑誌「Nature」は論文の著者が受動態を避けることを好んでおり、Natureの執筆ガイドラインは「Natureジャーナルは、著者が能動態(一人称視点)で書くことを好みます。これは、受動態で間接的に伝えるのではなく、能動態で直接書いたほうが、読者に概念や結果がより明確に伝わることが経験からわかっているためです」と示しています。
・著者の視点が分析に含まれる場合
一部の研究分野では「誰が研究を行っているのか、なぜそれを行うのかが、研究のプレゼンテーションに明確に示されるべきである」と認識されています。なぜなら、著者の存在を排除すると、著者が保持する重要な文化的またはその他の観点が検討されないままになる可能性があるからです。そうなると、テキストやその他の解釈が作者のいかなる解釈的立場からも排除されてしまいます。このような状態は、学問の場では「表象の危機」と呼ばれているとのこと。
分析して得た内容が一人称で描かれない場合、それが「分析によって得た知見」ということが正確に伝わらない他、客観性について誤った印象を与えます。エラートン氏はアメリカの哲学者であるトマス・ネーゲル氏が、客観・主観の対立から哲学実践のあり方を説いた著書「どこでもないところからの眺め」で示した言葉を引用し、「どこからともなく見える景色は存在しません」と、みだりに客観性を用いる危うさを指摘しています。
どこでもないところからの眺め | トマス ネーゲル, | Amazon
・著者が推論を示したい箇所
エラートン氏は学生に科学や批判的思考、哲学の講義をする際には、「最もハッキリと主張を印象付けるフレーズは、I strongly believe …(私は~強く信じています)である」と教えているそうです。「信じている」という主張から始めることで、読み手もしくは聞き手は「なぜそれを信じるのか?」と疑問を持つため、続けて何をどのように考えているか合理的な説得力を主張する必要があります。
つまり、一人称視点で文章を書くことで、適切な推論の基準を使用して自分の考えを評価したり、主張の強さを評価するために議論の構造を調べたりといった、クリティカルシンキングの発展に役立ちます。オーストラリアではクリティカルシンキングの教育が重要視されており、その中で生徒のクリティカルシンキングを養うための大事な戦略の1つとして、生徒に推論をさせた上で、その推論経路を明確にする「議論マッピング」が重要なツールであるとエラートン氏は解説しています。
学術論文やコラム、エッセイや文学作品についても、作品は常に一人称または三人称で書かれているわけではなく、時には一人称を使い、時には三人称の視点を発動させる、といったケースもあります。また、一度一人称で書かれたからといって、文章全体が一人称の視点で考えられるべきということを意味しません。著者は、文章の書き方についてどのようにアプローチするかといった微妙なニュアンスを常に持ち、そして読者も、著者が「自分自身を背景に置いている」のか、「自分の声を重要視している」のかを認識する必要があると、エラートン氏は述べています。
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