任天堂のスターフォックス・スーパーマリオ64・ゼルダの伝説 時のオカリナなどの3Dゲーム開発につながった伝説のデモ「Eclipse」、イギリスの17歳が任天堂の将来の方向性をどのように定めたのか
かつてティーンエイジャーが作成し、任天堂の3Dゲームに大きな影響を与えたとされる「Eclipse」というゲームが存在します。このゲームがいかにして作られ、任天堂へと伝えられたのかについて、任天堂系情報サイト・Nintendo World Reportのジョン・レイルディン氏が解説しました。
Eclipse: The Demo that Sold 3D to Nintendo | Video Game History Foundation
https://gamehistory.org/eclipse-the-demo-that-sold-3d-to-nintendo/
1992年、任天堂は「X」というタイトルのゲームをゲームボーイ向けに発表しました。ジャンルはシューティング、楽曲製作に「とたけけ」こと戸高一生氏が参加していて、当時としては画期的な3Dを実現したゲームとして知られている「X」は、実はディラン・カスバートという青年がプログラミングした「Eclipse」というデモが元になっているそうです。
Eclipseの物語は、ロンドン北部の郊外の町エッジウェアにあるアルゴノート・ソフトウェアから始まります。アルゴノート・ソフトウェアは、ジェズ・サンという男が率いる、ティーンエイジャーによって運営されていたスタジオです。アルゴノート・ソフトウェアが得意としていたのは家庭用コンピューター向けの3Dゲームで、滑らかなワイヤーフレーム、フルポリゴンの飛行戦闘シーンなどの制作で名の知れた企業でした。
ここにカスバート氏が入社したのは17歳のとき。カスバート氏がゲームボーイに出会ったのは入社4~5カ月後のことです。カスバート氏は8ビット・マイクロプロセッサーのZ80のプログラミングを得意としていて、Z80の亜種とも言えるゲームボーイはまさにカスバート氏の専門分野とも言える対象物でした。ゲームボーイと出会ったカスバート氏は、2Dマシンであるゲームボーイで3Dゲームを動かすという野心を抱き、ゲームボーイ用の3Dエンジン開発を成し遂げます。
3Dエンジンの開発後、当時好きだったゲームを3Dで再現することを試みたカスバート氏。いろいろと試行錯誤を行う中で、問題の「Eclipse」が生まれたといいます。
Eclipseは、3D空間で戦車を操りながら一定数の敵を撃破し、クリスタルを集め、基地に戻るという行動を繰り返すゲームです。燃料、ミサイル、シールドの概念があり、これらは持ち帰ったクリスタルを売却することで補充可能。目標を達成すると、プレイヤーは装備を引き継いだ状態で次のステージに進みます。
Eclipseの特徴は、ステージとステージの間に「3Dのトンネル区間」が用意され、障害物を交わしながら制限時間内にトンネルを通り抜けなければならないというイベントが存在する点です。
こうした要素の一部はXにも引き継がれているほか、さらに製品版として販売されたXにはオブジェクトビューアも含まれており、プレイヤーはゲームで使用されている3Dオブジェクトを自由に回転させたり拡大縮小させたりすることが可能でした。2020年代のディスプレイで拡大すると低解像度に見えますが、こうした3Dオブジェクトは、ゲームボーイの画面ではもちろん、当時どの携帯ゲーム機でも表示されたことのないようなものだったそうです。
Eclipseはサン氏によってさまざまなパブリッシャーに送られ、デモを完全なゲームとして開発することに興味があるかどうかが確認されました。このデモを最初に取り上げたのは「ペーパーボーイ」「マーブルマッドネス」などのタイトルを開発していたマインドスケープという企業で、さらに任天堂も興味を示したといいます。
その後任天堂はマインドスケープと契約し、マインドスケープから権利を譲り受けることを承諾。そして、カスバート氏いわく「任天堂の坂本氏」と一緒に仕事をするようになったそうです。
坂本氏とは、「メトロイド」などのゲームシリーズ開発に携わった坂本賀勇氏のこと。カスバート氏は「任天堂のタッチによって、Eclipseはより遊びやすくなりました。任天堂のユーモアをゲームに加え、ちょっとした隠し要素なども追加しました。でも本当に変わったのはミッション群です。より日本的なストーリーを追加しました。任天堂、あるいは日本人の感覚から生まれたものもいくつかあります。それ以外のものは、もともとのイギリスのゲームの雰囲気から持ってきたもので、Eclipseはその両方がブレンドされた面白いものになっていると思います」とコメントし、当時の制作風景を振り返っています。
こうして制作が進められたEclipseはいつしか「ルナ・チェイス」と呼ばれるようになり、最終的に公開されることになったゲームの英語版にもこの名前が残りました。しかし、日本向けの名前の決定には一騒動あった模様。カスバート氏によると、発売の1~2カ月前に当時任天堂の社長を務めていた山内溥氏から電話があり、突然「X」に改名することが決まったそうです。
こうしてXが誕生し、Xは史上最も重要なゲームのひとつとして評価されるようになりました。Nintendo World Reportのレイルディン氏いわく、X「スターフォックス」を生み出して任天堂が3Dゲームに注力するきっかけとなった作品で、3Dゲームの先駆けともいえるものだとのこと。
カスバート氏はこのゲームによってキャリアをスタートさせ、任天堂とソニーの両方で働いた後、2001年に自身の会社・Q-Gamesを立ち上げています。2010年にはQ-Gamesと任天堂が提携し、初代「X」の続編「X-Scape」をニンテンドーDSiウェアでリリースしました。
記事作成時点では、ニンテンドーDSiウェア用のタイトルを扱っていたニンテンドーeショップが閉鎖されてしまったため、X-Scapeを合法的に入手することはできません。カスバート氏は「X-Scapeをもっと多くの人にプレイしてもらいたいです。リマスターでもいいから、なんとかどこかで復活してほしいと思います。ニンテンドーDSiウェアにはとてもいいゲームがたくさんあったので、任天堂には復活させるための方法を考えてほしいです。また、続編を作りたいとも思います」とコメントしました。
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