東ドイツの半導体製造技術はいかにして失敗に終わったのか?
コンピューターやスマートフォンなどさまざまな電化製品に内蔵されている半導体は、アメリカや日本、中国、韓国などさまざまな国で製造されていますが、古くはドイツでも精力的な技術開発が行われていました。そんなドイツでなぜ半導体産業が失敗に終わってしまったのかを、YouTubeチャンネルのAsianometryが解説しています。
How Semiconductors Ruined East Germany - YouTube
1980年代後半、ドイツ民主共和国(東ドイツ)は「半導体の国産化」という途方もない課題に全力で取り組んでいました。この半導体への執念は失敗に終わり、そのために費やされた多額の資金は最終的に国の経済を破綻させることへとつながります。
1950年代を通じて、東ドイツは戦争からの復興を目指していました。東ドイツはナチス・ドイツから強力な産業基盤を受け継いだものの、人口は西ドイツの3分の1しか存在しませんでした。
与党であるドイツ社会主義統一党(SED)は、中央集権的な国家計画を導入し、経済に高いノルマを課しました。この非現実的な労働割当は国民から不評で、1953年には全国の労働者がストライキを起こし、ソビエト連邦(ソ連)が戦車と兵士を送り込んでストライキを暴力で鎮圧するという事態にまで発展しました。これは東ベルリン暴動とも呼ばれ、東ドイツにとって永続的かつ究極的な問題となる移民問題の幕開けにもなりました。
東ドイツでは、その歴史を通じて優秀で賢い国民が一貫して西側への脱出を試みるという問題に直面することとなります。そういった国民を東ドイツに留まらせるため、SEDは高い技術力による安定した未来を提示しました。そのため、当時の東ドイツはソ連以上に経済的活力と輝かしい社会主義の未来への道として、情報技術に傾倒することとなります。
当時、SEDのエリートたちは、民主主義と社会主義のどちらがより良い社会を築けるかの技術競争に巻き込まれていると考えていました。当時のSEDの第一書記であったウォルター・ウルブリヒトは、「技術の面で資本主義に追いつき、追い越すこと」を究極の目的として、「産業変革」を呼びかけています。
この産業変革を実現するには、コンピューター産業の繁栄が不可欠であるとSEDは考えていました。そして、優れたコンピューターを製造するには、東ドイツがマイクロエレクトロニクス技術を学び、習得する必要がありました。
アメリカでゲルマニウムトランジスタが発明されてから4年も経たないうちに、東ドイツは独自の第一世代半導体の製造に着手しました。第一世代半導体は1952年に、ベルリン近郊のテルトウにある通信技術用電気部品工場で開発が始まりました。このタイミングで東ドイツの半導体技術は西ドイツとほぼ肩を並べることになります。なお、西ドイツ初の半導体工場は、1952年にシーメンスによって建設されたものです。
東ドイツの半導体開発は物理学者のマティアス・ファルターに率いられた、約74人の小さなチームが担っていました。しかし、このチームの規模は1960年代には625人にまで急成長することとなります。
ファルターは優れた物理学者でしたが、チームリーダーやマネージャーとしての資質は持っていなかったようで、開発チームは産業界と学術界の協力体制の欠如に苦しむこととなりました。ある時、半導体の試験生産を行っている工場の窓の外に、熱い灰を投げ捨てたメンバーがいたそうです。この灰は半導体そのものをダメにし、チームはその後の大量生産に何を期待すればいいのかわからなくなるという事態にまで発展した模様。
さらに、東ドイツは半導体開発チームに本来与えられるべき資源を与えませんでした。行政、特に会計主任は半導体にほとんど関心を抱いておらず、その影響でクリーンルームで静電気の蓄積を防ぐために用いられる「フェルト製スリッパ」の購入が認められなかったというエピソードが残っています。このようなサポートの欠如が、東ドイツの半導体産業が初期に遭遇することとなった問題だそうです。
東ドイツは半導体開発初期に前述のような問題を抱えていたため、安定した開発基盤を築くには何らかの形での技術移転が必要でした。そして幸運なことに、ソ連は世界のコンピューティングテクノロジーのリーダーでした。しかし、東ドイツの主要な政治的後ろ盾であったにもかかわらず、ソ連は東ドイツに対して奇妙な警戒心を抱いていました。
1958年、開発チームのスタッフが技術交流のためにソ連を訪れますが、1年後に帰国したのち、スタッフたちは「限られた協力しか得られなかった」と訴えています。その理由は、当時のソ連が開発したコンピューティング関連テクノロジーの多くが軍事用に開発されたものであったためです。ソ連はこれらのテクノロジーを東ドイツに技術移転することで、西側に亡命する科学者たちからこれらの技術が漏えいことを懸念していた模様。
そんな中、1959年にウルブリヒト書記長は当時のソ連のニキータ・フルシチョフ首相に直接手紙を書き、ソ連から東ドイツに技術アドバイザーを派遣するよう要請します。これに応じる形でソ連は3人の技術者を東ドイツに送りました。しかし、このアドバイザーらの仕事を西側諸国は妨害したそうです。そこで、東ドイツは西側諸国の技術に目を付け、半導体の製造方法を学ぶために必要なライセンス契約や、機材の購入、その他あらゆるものを「レンタル」するという方針にシフトチェンジします。
当時、アメリカは半導体技術の世界的リーダーでしたが、半導体技術は明らかに軍事的な応用を目的としたものであったため、西側諸国はソ連と関連のある国々への技術輸出を禁止していました。これが対共産圏輸出統制委員会(COCOM)で、アメリカはこのCOCOMの規制に最も忠実でした。
しかし、すべての西側諸国がCOCOMの規制に忠実だったわけではありません。1959年、10人の東ドイツ代表団がイギリスを訪れ、多くの半導体工場を視察し、関連機器を購入しました。具体的には、イギリス労働党のアーサー・ルイスのコネで、代表団はイギリスのフィリップス、シーメンス、トムソン・ヒューストン・エレクトリックの工場を視察したそうです。
このイギリス訪問は大成功を収め、東ドイツは工業レベルの半導体製造について多くを学ぶこととなります。さらに、東ドイツは当時の最先端技術である低周波トランジスタ装置の購入にも成功しています。ところが、イギリスへの技術視察が成功したにもかかわらず、東ドイツの半導体産業の地位は固まらないままで、東ドイツの優秀な技術者は西ドイツに流出し続けるままでした。
そんな中でも1958年に、東ドイツの半導体開発チームは10万個のゲルマニウムダイオードやトランジスタ、整流器などを生産することに成功します。しかし、これらの製品の約98%は寿命が尽きる前に廃棄されました。
一方で、アメリカでは同じ1958年に2780万個ものトランジスタが生産され、1960年にはその生産量は1億3100万個まで拡大。1961年にはテキサスインスツルメンツが集積回路の販売を開始し、半導体業界に大きな衝撃をもたらします。この驚くべき発明により、アメリカは半導体産業における技術的リードを大きく伸ばすこととなります。
また、日本はすでにソニーがトランジスタラジオの「TR-55」を発明しており、1960年には1000万台以上のラジオをアメリカへ輸出していました。
東ドイツの中央委員会政治局経済委員会で責任者を務めたエーリッヒ・アペルは、1959年4月下旬に「アメリカ、日本、西ドイツの産業と比べると、我々の技術面の後進性はほとんど推し量ることができないレベルにあります。この後進性は、少なくとも1961年まで減少することはなく、むしろ拡大していくこととなるでしょう」と語りました。
さらに、1960年に行われた別の検査では、半導体生産における後進性がさらに多くの項目で確認されることとなります。当時の東ドイツの労働者は、測定器よりも経験則に頼る傾向にあり、さまざまな工場ラインが互いに協力し合っていなかったそうです。
また、当局に提出されたメモでは、「東ドイツが技術的に5~6年遅れている」と書かれていたにもかかわらず、より政治色の強い経済委員会に提出する分析では、技術の遅れが「3~4年程度」にまで短縮されていた模様。
これらの分析を総括すると、当時の東ドイツは日本、西ドイツ、フランス、イタリアといった国々と並び、「ファスト・フォロワー」のカテゴリーに入れられることになります。
1960年までに350万人もの若者が西側へ流出したため、東ドイツは急速に高齢化していきます。頭脳流出を制限するための努力が失敗に終わったため、1961年に東ドイツはベルリンの壁を建設します。ベルリンの壁によって東ドイツが西側から輸入していたわずかな技術が輸入できなくなったため、技術の穴埋めが課題となりました。
初め、東ドイツはソ連に接近しますが、この時期は両者の関係が緊迫していました。ソ連は東ドイツの「専門性の欠如」を批判し、東ドイツは「ソ連が生産量不足をカバーするために東ドイツを利用している」と不満を漏らしました。
そのためソ連は東ドイツに石油を供給することに消極的になり、コンピューター技術の共有でも足を引っ張るようになります。また、1965年に東ドイツはソ連と極めて不利な貿易協定を結ぶこととなりました。。
ソ連との関係がこのような状況であったため、東ドイツは1963年に新経済計画制度と呼ばれる新しい構想を打ち出します。これにより、官僚ではなく産業グループが資金の使い道を直接決定できるようになりました。
また、この構想により半導体製造のような技術部門の経済における地位が高まり、研究開発費は1959年から1963年にかけて3倍以上も増加。1965年には東ドイツが生産した電子機器の40%近くが半導体となりました。
さらに4年後の1969年には、半導体の生産額は4倍にまで増加。これらの多くはラジオ、テレビ、冷蔵庫といった消費者向けの電子製品に使われました。1971年には、半導体の生産額は5億3500万マルクに到達。この年になってようやく、東ドイツは集積回路の生産を開始します。
つまり、ウルブリヒトの改革は一定の成功を収めたと言えます。しかし、それも1960年代後半には頓挫することとなります。政策計画における奇妙な不平等により、カラーテレビは広く普及していたものの、歯ブラシやトイレットペーパーなどの消費財は不足していました。
1971年にはSEDの第一書記がウルブリヒトからエーリッヒ・ホーネッカーに交代します。これにより東ドイツの半導体への投資は再び保守的なものとなり、研究開発への投資も縮小されることとなりました。
この他、「スパイとシュタージ」も東ドイツの半導体産業に影響をおよぼしています。1967年、東ドイツの電気工学・電子工学大臣がテキサスインスツルメンツの集積回路を持って東ドイツの電子機器会社を訪れ、集積回路を正確にコピーするよう指示しました。
シュタージとして知られる国家保安省は、1950年代から科学技術スパイ活動に従事していましたが、その内容は「科学的知識の獲得」から「特定技術の獲得」へと移行していきます。なお、シュタージによる技術獲得のほとんどは「西側の情報提供者」を通じて行われました。
シュタージに情報を提供した人物のひとりは、西ドイツのテレフンケンとAEGに勤めていた物理学者のハンス・レーダーでした。レーダーは28年以上にわたって技術機密を東ドイツに流し続けたものの、西側に捕まることはありませんでした。
シュタージは欲しい資料のリストをレーダーに渡し、レーダーはそれを手に入れた際に、東ベルリンで唯一西ベルリンの地下鉄が通るフリードリッヒシュトラーセ駅でシュタージに渡したそうです。新しい情報を入手すると、シュタージはその技術をロンダリングし、ラベルなどをはがし、どこから来たのか特定できないようにしてから、東ドイツの企業に流したそうです。
1960年代後半、社会主義圏はSystem/360をコピーし、独自のコンピューターの製造に取り組みました。このような取り組みには、複数のコンピューターを調達するだけでなく、IBM社内に工作員を配置する必要がありましたが、シュタージがこれを実施しています。
ベルリンの壁崩壊後、シュタージは外国での記録のほとんどを破棄したため、同機関による外国技術取得の効果がどの程度あったのかを知ることはできません。しかし、東ドイツによる技術盗用が東ドイツの研究開発費を数千億円規模で節約するのにつながり、西側諸国との格差を大幅に埋めることに寄与したと考えられます。
しかし、東ドイツの産業界が盗み出した情報を吸収するのに苦労したことも明らかです。シュタージは技術専門家ではなくただのスパイであったため、間違ったモノを盗み出すケースも頻繁にあった模様。
また、西側からの禁輸措置の強化も東ドイツの産業発展を妨げることにつながりました。そして、シュタージにより盗まれる西側諸国の製品も次第に古くなり、手に入れるための費用もかさんでいったそうです。
禁輸措置により西側諸国はシュタージを騙すことが容易になり、製品価格を30%から80%、さらに100%と値上げしていくようになった模様。こういった製品の値上げも東ドイツの研究開発予算の圧迫につながったそうです。
そして、技術の発展により東ドイツの技術者では複製するのが困難な半導体が登場するようになります。1976年には、集積回路の物理的な形状から製造方法の秘密を知ることは難しくなっていた模様。
1970年代は、輸出禁止の強化、オイルショック、西側諸国からの多額の借り入れ、生産性の低下と競争力の悪化など、東ドイツにとって苦難の時代でした。国家計画委員会のゲルハルト・シューラーは、半導体への投資がこの国を経済の停滞から救うとホーネッカーを説得。
1981年、東ドイツはマイクロエレクトロニクスの開発で西側諸国からまだ7~10年ほど遅れていたため、ホーネッカーは1985年までに半導体の大半を国産化するという計画を発表しました。
しかし、この現実的な技術経済的見解は、次第に「半導体が共産主義への移行の前提条件」として捉えられるようになり、西側からの帝国主義に対抗するための魔術的な思考へと変化していき、最終的には毒に満ちた強迫観念へと変化していきました。
当時の東ドイツの財源は乏しく、COCOMによる輸出禁止措置はまだ実施されていたため、同国は西側諸国のテクノロジーを盗むために、スパイ工作やスパイ活動にさらに深くのめり込んでいきました。
1985年にはシュタージ史上最高のスパイのひとりであるゲルハルト・ロンネベルガーが東芝と驚くべき技術移転契約を結ぶことに成功します。これは2500万マルクで東ドイツに256KBメモリチップの設計図とその製造方法を提供するというものでした。
これは画期的な契約でしたが、1987年に東芝が潜水艦のプロペラ装置をソ連に販売していたことが発覚。東ドイツとの契約が露見することを恐れた東芝は、証拠隠滅のためにシュタージに対して95%の払い戻しを要求しました。ロンネベルガーはこれに同意し、1988年7月に東芝社員の前でチップの設計図を酸の桶に入れて溶かしています。しかし、ロンネベルガーが破棄したのはコピーした設計図だったそうです。
このような努力を行ってきたにもかかわらず、東ドイツは依然として技術的に西側諸国に遅れをとっていました。1987年までに、アメリカでは従業員1000人当たり215個のコンピューター支援設計・製造システムが導入されており、西ドイツではこの数が111個でした。これに対して東ドイツの場合、従業員1000人当たりのコンピューター支援設計・製造システムの数はわずか8個だったそうです。
1986年、東ドイツ政府は「最高の統合」と呼ばれるプログラムを開始し、3年以内に超大規模集積回路を開発し、東ドイツを最先端に導くことを目標として掲げました。そして、1986年から1990年にかけて、半導体の研究開発に140億マルクもの資金を投入しています。
これは当時の東ドイツの研究開発予算全体の20%を占めており、すでに多額の負債を抱えていた同国の財政を圧迫することにつながりました。なお、当時の東ドイツでは40万人がマイクロエレクトロニクスの製造、研究開発、サポートに従事しており、これは産業人口の8人に1人が何らかの形で半導体製造に関わっていたということになります。
「最高の統合」はいくつかのプログラムで構成されており、例えば、ある国営企業は「1990年までにインテルが開発したのと同じ32ビットマイクロプロセッサーを開発するように」と命じられました。
他にも、256KBと1メガビットのメモリチップを開発するよう命じられた企業もあります。この企業は予定よりも早い1987年に256KBメモリチップの開発に成功しますが、大量生産することはできませんでした。しかし、1988年9月に別企業が1メガビットメモリチップの最初のサンプルとなる「U61000」を披露することに成功しています。
ホーネッカーはこれについて、「ドイツ民主共和国が先進工業国としての地位を維持していることを確信させる証拠だ」と言及しました。
しかし、結局東ドイツの企業が半導体を量産することはできず、ドレスデンは1988年から1989年にかけてわずか3万5000個しかチップを生産できず、歩留まりはわずか20%でした。なお、東芝はたったの1日でこの数のチップを生産していました。
さらに、1988年11月には東芝が4メガビットのDRAMの大量出荷を開始。1989年3月までに月の生産個数を100万個にまで拡張すると発表します。一方で、当時の東ドイツ経済はボロボロであり、1990年初頭には債務不履行に陥ると目されていました。
そして1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放したことで、東ドイツ人は西ドイツに向かうためにハンガリーを通過することが可能になりました。そして1989年11月、ベルリンの壁が崩壊します。
東ドイツの半導体製品は技術的には行き詰まることとなりましたが、その社会的遺産は今も生き続けています。ドレスデンに投資された数十億マルクの資金により、ドレスデンは今ではヨーロッパ有数のシリコン製造地域へと変貌を遂げています。また、2023年8月8日(火)には世界最大の半導体ファウンドリであるTSMCがドレスデンに工場を建設する計画を発表しています。
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