「一夜にして道路を左側通行から右側通行に変える」という大事業が1967年にスウェーデンで敢行された
普段から慣れ親しんだルールが大きく変更される時には少なからず混乱が生じるもの。そんな大変革が1967年のスウェーデンで実際に起こっています。それまでのスウェーデンでは自動車は道路の左側を走っていたのですが、他のヨーロッパ諸国に合わせて道路の左右を入れ替えるという一大事業が行われ、数年にわたる周到な用意と国民への告知や教育などのおかげで大きな事故は起こらず、当日の死者もゼロという成果が残されています。
BBC - Capital - A ‘thrilling’ mission to get the Swedish to change overnight
http://www.bbc.com/capital/story/20180417-a-thrilling-mission-to-get-the-swedish-to-change-overnight
ヨーロッパ諸国の多くでは、自動車は道路の右側を走る交通ルールが取り入れられていますが、1967年夏までのスウェーデンでは左側通行が取り入れられていました。隣国のノルウェーやフィンランドと陸続きであるスウェーデンにとってこの違いは少なからず問題となっており、特に国境付近では左側通行であることを原因にした交通事故がたびたび発生していたとのこと。
このような安全上の問題や、北欧諸国やヨーロッパ諸国の一員としての存在感を示すために、当時のスウェーデン政府は道路交通ルールを180度入れ替えて左側通行から右側通行へと完全にシフトすることを決定しました。新しい交通ルールが始まるのは1967年9月3日(日)と定められ、この日はスウェーデン語で「右側通行への変更」を意味する「Hogertrafikomlaggningen」またはシンプルに「Dagen H」(日本語では「Hデー」)と呼ばれることになりました。
多くの国民が活動している日中にルールが変化すると混乱をきたすことになるため、新ルールは日曜日の午前5時に一斉に適用されることになりました。また、これに合わせて一部の車両を除く全ての車両は、当日の朝1時から6時まで走行を禁止されました。また、気になるのが「ドライバーが混乱しないのか」という点。特に、自動車のハンドル位置はそのままに道路の走る側だけを入れ替えると大混乱が起こりそうなわけですが、そこではスウェーデン特有の自動車環境が大きく後押しになったとのこと。
当時、国内で登録されている車の多くは外国から輸入された車が多く、そのほとんどが右側通行に適した「左ハンドル」の車だったとのこと。また、スウェーデンには自動車メーカー「ボルボ」があり、国内向けに自動車を生産していたのですが、そのボルボでさえも、ヨーロッパ諸国向け仕様と同じ左ハンドル車をスウェーデン国内で多く販売していたそうです。そのおかげもあり、スウェーデン国民の多くは左ハンドルの自動車を運転することに慣れていました。さらに、左ハンドルの自動車はやはり右側通行に適しているため、一夜にして交通ルールが入れ替わったとしても、それほど大きな混乱の原因にはならなさそうな状況が存在していました。
しかし、新ルール適用の日時は決まりましたが、朝起きると知らぬ間に世界が180度変わっているというわけではありません。すでに国中の道路に設置されている道路標識や道路上に描かれている矢印などの道路標示、一方通行路の再設定などを全て右側通行ルールに合致するように入れ替える必要があります。スウェーデン政府はこの一大事業を成し遂げるために、国を挙げた取り組みを行うこととなりました。
Hデーを無事に迎えるために、国内にある約36万個の道路標識を更新する必要がありましたが、その大部分はHデー前日に一斉に変更しなければなりません。そのために、地方政府の職員や軍隊が動員されて国中で作業が行われました。当時、交通技官を務めていたヤン・ランクビストさんもそんな作業に参加した一人で、「その夜は非常にハードに働きました」と当時を振り返ります。そのおかげもあってか、ランクビストさんのチームは全国でも最も早いタイミングで作業を完了したとのこと。「私たちのチームが最も早くストックホルムに電話して作業が完了したことを告げたチームの一つだったということを、私の上司は非常に喜んでいました。私たちのチームは、真夜中にケーキを食べてコーヒーを飲んでいたんです!」とランクビストさんは語ります。
しかし、スウェーデンの都市ヘルシンボリで交通行政のコンサルタントを担っていたアーサー・オルンさんにとって一連の事業は困難を極めるものだったとのこと。「最も大きな問題は、準備のための時間が不足していたことです」と振り返るオルンさんは、休みもなく朝から晩まで働きづめで、一時は自ら命を絶つことすら考えるほど追い込まれた状況にあったとのこと。1年前から膨大な準備に追われて全く自由のなかったオルンさんは、ついに行き詰まり、医師からの強い勧めを受けて仕事とのつながりを断つために2週間のアフリカ旅行に出たそうです。
この事業に投じられた予算は、6億2800万スウェーデンクローナ(現在の貨幣価値で26億クローナ:約333億円)。36万カ所の道路標識が更新され、公共交通機関である9000台のバスで、出入口を車体の左右両方に取り付ける改造が行われました。また、Hデーを周知するためのキャンペーンソングも作られたとのことで、その楽曲「Hall dig till hoger Svensson」(英訳:Keep to the right, Svensson、和訳:右を走るんだ、スヴェンソン)は、スウェーデンの音楽チャートで5位にランクインしたそうです。
さまざまな準備のかいあってか、結果的にこの事業は成功をおさめます。その中でも注目すべきは交通事故による死者数の減少で、Hデーが行われた1967年は大きく死者数が減少しています。翌年は増加に転じていますが、その後も全体的に見てなだらかな減少傾向を描いてきました。
事業を成功させるためにキャンペーングッズまでもが作られ、人々に対する周知が進められました。当時のスウェーデンはテレビ・ラジオともにチャンネルが1つしかなく、他にメディアと呼べるものは新聞や雑誌ぐらいだったため、現代とは比べものにならないぐらい容易に多くの人にリーチする事ができたそうです。
午前1時から6時までの原則交通禁止を知らせる記事。
このように、大成功を収めたといって良い1967年の大作戦ですが、これと同じことを現代に実施するのは極めて難しいと多くの専門家が考えています。当時は交通システムもシンプルであり、走っている自動車の数そのものも少なかったことなどもありますが、現代の交通社会は当時と比べものにならないほど複雑になっているというのがその理由。近年のスウェーデンの交通行政は、交通事故による犠牲者を減らすことに主眼が置かれているとのことで、1997年からは交通による死者をゼロにする「Vision Zero」という取り組みが進められています。そのかいあって、スウェーデンは世界で最も交通事故死者数の割合が低い国であり、2016年の死者はわずか260人だとのこと。また、これまでは自動車が道路の主役でしたが、これを歩行者や自転車を優先した交通の仕組みづくりも進められているそうです。
ちなみに、この一大事業のために作られ、ヒットしたキャンペーンソング「Hall dig till hoger Svensson」はこんな曲です。
The Telstars - Hall dig till hoger, Svensson. - YouTube
◆日本でもあった交通ルールの左右入れ替え
なお、スウェーデンでの取り組みの11年後、日本でも同様の大変革が行われています。第二次世界大戦後にアメリカの占領下に置かれた沖縄では長らく右側通行が取り入れられてきましたが、1972年の沖縄返還の6年後の1978年7月30日、それまでの右側通行から日本の交通ルールに合わせた左側通行に切り替えられました。
この一大事業は、その実施日から「730(ナナサンマル)」と呼ばれ、7月29日22時から翌30日の6時までの8時間で県内の道路インフラが完全に入れ替えられました。その時の様子は映像でも記録されており、当時の沖縄県土木部の企画の下、シネマ沖縄が記録映画「沖縄730 道の記録」を制作しています。
「沖縄730 道の記録」シネマ沖縄1977年製作 - YouTube
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