認知症やQOLの低下につながる「難聴」を再生治療で回復させるバイオテクノロジー企業の試みとは?
音や言葉が聞き取りにくくなったり完全に聞こえなくなったりする難聴は生活の質の低下や認知症にも関わる危険な病気です。2015年にマサチューセッツ工科大学からスピンアウトしたFrequency Therapeuticsというバイオテクノロジー企業は、そんな難聴を治療するために「再生治療」に焦点を当てています。
Reversing hearing loss with regenerative therapy | MIT News | Massachusetts Institute of Technology
https://news.mit.edu/2022/frequency-therapeutics-hearing-regeneration-0329
難聴の原因の1つに、音の振動を電気信号に変換して脳に伝える有毛細胞の損傷があります。有毛細胞は片方の耳に約1万5000個あり、加齢や騒音、特定の化学物質、抗生物質などの影響で有毛細胞が損傷を受けると、最も一般的な難聴である感音性難聴となります。一度損傷してしまった有毛細胞は自己再生しないため、進行してしまった感音性難聴を治療することは困難です。
ところが、バイオテクノロジー企業のFrequency Therapeuticsは、有毛細胞に分化する一歩前の細胞である内耳前駆細胞を活性化する小分子を用いることで、損傷した有毛細胞を作り出す試みを進めています。Frequency Therapeuticsの共同創設者兼最高価額責任者であるChris Loose氏は、「音声の知覚は聴力を改善するための最初のゴールであり、患者から聞くニーズの第1位です」と述べています。
Frequency Therapeuticsはすでに臨床試験を行っており、2022年3月の時点までに行われた3つの異なる臨床試験では、合計200人以上の被験者に前駆細胞を活性化する小分子を投与し、臨床的に有意な音声知覚の改善を確認しているとのこと。なお、別の研究では偽薬を投与された対照群と比較して聴力の改善を示すことができなかったものの、Frequency Therapeuticsはこれを試験の設計上の問題だとしており、2022年10月~11月にかけて、さらに124人の被験者を対象にした臨床試験を行う予定です。
Frequency Therapeuticsの共同創業者であり、ブリガム・アンド・ウイメンズ病院の麻酔科教授であるJeff Karp氏は、「聴覚は非常に重要な感覚です。聴力は人々を地域社会と結びつけ、アイデンティティの感覚を育みます。聴覚を回復させる可能性は、社会に大きな影響を及ぼすと思います」と述べました。
Loose氏はマサチューセッツ工科大学で化学工学の博士課程に在籍していた2005年に、マサチューセッツ工科大学の化学工学科のRobert Langer教授の引き合わせで、マサチューセッツ工科大学のスローン経営大学院に在籍していたDavid Lucchino氏と出会いました。2人は後に医療機器会社のSemprus BioSciencesを立ちあげ、Semprus BioSciencesは2012年に8000万ドル(当時のレートで約64億円)で売却されました。
一方、Loose氏とLucchino氏を引き合わせたLanger氏は2012年頃、Karp氏と共に腸の幹細胞を制御する小分子が前駆細胞を活性化することを発見しました。内耳に存在する前駆細胞は、胎児が子宮内にいる時に有毛細胞へと分化しますが、出生前に休眠状態となるため出生後は有毛細胞が作られることはありません。しかし、Langer氏らの研究チームは2012年、実験室内の環境ではあるものの、小分子を利用して数千もの前駆細胞を有毛細胞に変化させることに成功したとのこと。そこでLanger氏は再びLoose氏とLucchino氏に連絡を取り、2015年にLucchino氏がCEOとなる形でFrequency Therapeuticsを創業しました。
「患者の細胞を抽出して実験室内で遺伝子を組み換え、再び患者の体に戻す」という遺伝子治療と比較して、「内耳に小分子を注入して前駆細胞を特定の細胞に変化させる」というFrequency Therapeuticsのアプローチには多くの利点があるそうです。Loose氏は、「全身の組織に前駆細胞が含まれているため、Frequency Therapeuticsのアプローチには幅広い用途があります。これが再生医療の未来だと私たちは信じています」と述べています。
Langer氏によると、過去の臨床試験では30年にわたり難聴を患ってきた被験者が、「治療後に訪れた混雑したレストランで、子どもたちが何を言っているのか初めて聞き取ることができた」と報告した事例があるとのこと。「これは彼らにとって非常に意味のあることです。もちろん、もっと多くの人々を助けなければなりませんが、小さなグループを助けることができたという事実だけでも、私にとっては本当に印象的です」とLanger氏はコメントしています。
また、Karp氏は将来的にFrequency Therapeuticsの研究が前駆細胞を活性化させる技術を向上させ、新たな難聴の治療法開発につながると考えています。Karp氏は、難聴治療の分野に投入されたリソースと素晴らしい科学技術により、10~15年後の難聴治療はたった1~2時間の治療で視力が回復できるレーシック手術のようになっていても不思議ではないと主張し、「難聴についても、レーシック手術と同じことが見られるようになると思います」と述べました。
さらにFrequency Therapeuticsの研究分野は難聴治療にとどまらず、免疫細胞が神経組織を攻撃して感覚障害や運動障害が生じる多発性硬化症の治療薬も開発しています。多発性硬化症では神経細胞の軸索を取り囲んでいる髄鞘(ミエリン)が攻撃されますが、前駆細胞は脳内のミエリン産生細胞に分化するため、前駆細胞を活性化してミエリンの生成スピードを上げることで、多発性硬化症を治療できる可能性があるとのこと。すでにFrequency Therapeuticsは、マウスを対象にした動物実験で効果を確認しており、2023年にアメリカ食品・医薬品局に臨床試験の申請を行う予定だそうです。
Karp氏は以前から、前駆細胞を活性化するという治療法の応用が多岐にわたると想定していたとのこと。「小分子による治療を構想していた時から、私たちはこの治療法を複数の組織に適用できるプラットフォームにすることを意図していました。現在の私たちはミエリン形成の研究に取り組んでいますが、小分子を用いて局所的な生物学を制御することで何ができるのかを考えると、これは氷山の一角と言えるでしょう」とKarp氏は述べました。
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