1万2000年前に人口爆発を生み出した「新石器革命」とは何なのか?
世界人口は急激に増え続けており、2050年には97億人に、2100年には109億人に達すると推計されています。この急激な人口爆発は現代からおよそ1万2000年前に生じた「新石器革命」から続く現象だと、科学系YouTubeチャンネルのKurzgesagtがアニメーションムービーで解説しています。
When Time Became History - The Human Era - YouTube
「誰かがあなたの台所からいくつかの道具・鍋・ゴミを持って行って、森の中に埋めると想像してみてください」という言葉からムービーはスタート。
現代の考古学者が行っているのは、1万2000年後に埋められた道具などから「あなたがどのような人物だったか」を捉えるという試みとのこと。
もし人類が複数の惑星に植民地を持つような時代に達したならば、人口は爆発的に増加し、技術と生活水準は想像も付かないレベルに到達するかもしれません。
そうした時代には、「人間とはどういう生き物なのか」という自己認識が変容している可能性があります。自己認識が変容してしまった時代において、考古学者はあなたが森の中に埋めたガラクタから、かつての人類の自己認識を学ぶしかありません。
これは未来の考古学者が抱えるかもしれない問題です。しかし、現代の考古学者も、似たような問題を抱えています。
現代の考古学者は、1万2000年前に生じた「革命」を再構築して解き明かそうとしています。
謎を解き明かす手がかりは、はるか過去の人類が残した遺物のみ。
現代では、色と音が付いた4K画質の映像で、人々の営みを知ることができます。
しかし、三世代前の映像は白黒で、当時の色を知ることはできません。これ以前の時代では映像が存在せず、在りし日の姿を映し出すものは写真か絵画のみといえる状態です。
そして、500年前には、活版印刷が存在しなかったため、文字情報は手書きで複写されており、情報の信頼性は低いものでした。
「世界初の歴史家」として知られるトゥキディデスが誕生したのは紀元前400年頃。トゥキディデス以前には、歴史は叙事詩や伝説などの言い伝えや、壁画などにしか残されていません。
そして、壁画が残された時代よりもさらに古代の人類について教えてくれるものは、土の中に残された遺物の断片だけ。こうした遺物は、時代の経過によって本来の用途がわからなくなっています。
しかしそれでも、古代の人類について判明していることがいくつかあります。
判明していることの1つが、人類はおおよそ200万年もの間、ほとんど生活に変化が生じませんでしたが、およそ2万年にある変化が生じ始めたということ。
約2万年前には、全世界に人類はおよそ100万人ほどしかいませんでした。
2万年より以前に、現生人類種であるホモ・サピエンス以外のヒト属であるネアンデルタール人やデニソワ人は絶滅したと考えられています。
ホモ・サピエンスは、道具の使い方を理解する知能の他にも、相互に理解し合う社会的知性、抽象的な概念を説明する言語、新しい概念を生み出す創造性を有していました。
ホモ・サピエンスは、ほとんど現在の人類と差がありません。彼らは苦しみや喜びを経験したり、退屈したり、泣いたり、笑ったりしていました。
その生活スタイルは、数十人単位の共同生活。火や、木・石・骨でできた道具を使ったり、物語を語ったり、死者を悼んだり、芸術的活動を繰り広げたりしていました。
さらには、他の部族と黒曜石や貝殻を使って交易したり……
動き回って大型の獲物を狩ったり、植物を採集したり、漁をしたりする部族もいたことがわかっています。
こうした生き方は2万年以前ではほぼ不変でした。しかし、ゆっくりとした変化が2万年前に生じ、次第に急速なものとなり、1万2000年前に「革命」といえるレベルにまで達しました。
変化が急速化したことを示す1つの証拠は、ガリラヤ湖と死海をつなぐヨルダン川にあります。
およそ2万年以上昔、ヨルダン川近郊に住んでいた人類は、「小麦の種を地面に撒くと、次年度の収穫量が増加する」ということに気がつきました。
この発見は、狩猟や採集の優れた代替手段となる初期の農耕を生み出します。
この発見によって発生した小麦の余剰を使って、パンやビールも誕生。
世代を重ねるごとに、こうした動植物に対する知見が受け継がれていき、人類は動植物を自分たちに都合のいいように操作するようになります。人類は非常にゆっくりと、こうした知識を継承し続けました。
知識の継承の影響は大きく、初期の農耕ですら生存に必要な土地面積を大きく削減することが可能でした。この生存に必要な土地面積の削減により、人類は1つの地域に「定住」することができるようになりました。
こうした小さな進歩の積み重ねによって大きな「革命」が生じたのが、今からおよそ1万2000年前の人類紀元と呼ばれる時期です。この時点をターニングポイントとして、人類は、米・ライ麦・トウモロコシ・ジャガイモなどの、現代の人類が必要とするカロリーのほとんどを支えている15種類の穀物や野菜を本格的に栽培し始めました。
この「新石器革命」と呼ばれる出来事は、たった1日のうちで生じたものではありません。何世代にもわたって知識がゆっくりと蓄積された結果、革命と呼べるほど大規模な変化に至ったわけです。
新石器革命以降、数千年間にかけて人類は生活の軸を狩猟・採集から農耕に移行し、集落の規模も拡大。
農耕への移行は、すでに農耕を行っている集団が入植するたびに伝播しました。
一方、農耕への移行は問題も生み出しました。狩猟・採集を行っていた時代に人類が食べていた動植物は250種ほどと、その食物には多様性がありました。
しかし、農耕に移行することで食物の多様性は激減。特定の栄養素が不足する事態も発生しました。
また、家畜との共同生活は、伝染病の温床にもなりました。コレラ・天然痘・麻疹(はしか)・インフルエンザ・水痘・マラリアなどの感染症は、いずれも新石器革命以降に発生した病気です。
こうした結果として、死亡率、特に幼児の死亡率が急激に増加しました。
しかし、農耕によって定住が可能になったため、一度に育てられる子どもの数自体は増加。死亡率に反して、人口は増え続けました。
世界人口は、人類紀元以前はほぼ一定でしたが、人類紀元以降は2000年ほどで4倍になっています。
この人口爆発を受けて、食料の需要が増加。その結果、人類は面積当たりのカロリー産出量の低い狩猟・採集には戻れなくなってしまいました。
残されたのは、「なぜ人類は狩猟・採集から農耕に移行したのか?」という疑問です。自然の中での暮らしでは、食物には多数の選択肢がありましたが、農業への以降した結果、食物の選択肢は失われました。
この疑問に対する答えは定まっていません。気候変動が原因という研究者もいれば、栄養不足や人口過多などの外的要因が原因という研究者もいます。しかし、最も広く受け入れられている考えは、「大多数の人類が意図的にそうした」というものです。
ひょっとしたら、共に暮らし、仲間意識を育み、互いに会話して知識を交換するために農耕に移行したのかもしれません。狩猟採集民族は祝宴や儀式を行うために遠路はるばる旅をしていたと考える民俗学者もいます。祝宴や儀式の際に行われた知識の共有が、農耕への移行を促した可能性は低くはありません。
人類は農耕に移行した結果、共に暮らし、互いに祝いあい、モノや知識を分かち合うようになりました。
方法自体には変化が生じましたが、現代の人類も共に暮らし、互いに祝いあい、モノや知識を分かち合う点は共通です。
うまくいけば、1万2000年後の人類もまた、人類史を振り返って我々のことを知ったときに、感謝の気持ちを抱いてくれるかもしれません。
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