情報も物資も制限された東ドイツからDIYで熱気球を作って亡命した当事者のギュンター・ヴェッツェル氏にインタビュー
第二次世界大戦後、ドイツは西側諸国の占領した地域とソビエト連邦の占領した地域に分断された形で、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が樹立されました。東ドイツでは秘密警察「シュタージ」が常に国民の徹底的な監視を行い、国民の自由を奪い生活を抑圧してきましたが、そんな東ドイツで「熱気球に乗って西ドイツに亡命する」というアイデアを実現させた人物がいます。2020年7月10日(金)から、この「熱気球による亡命」を描いた映画「バルーン 奇蹟の脱出飛行」が公開されるということで、亡命に成功した当事者であるギュンター・ヴェッツェルさんに、当時の話を聞いてみました。
『バルーン 奇蹟の脱出飛行』公式サイト
https://balloon-movie.jp/
物資が限られる東ドイツでシュタージの捜査が迫るなか、2つの平凡な家族がひそかに制作した手作りの熱気球で亡命を試みる様子を描いた「バルーン 奇蹟の脱出飛行」予告編は以下から確認できます。
7.10(金)公開『バルーン 奇蹟の脱出飛行』予告篇<ロングVer.> - YouTube
写真の男性が、熱気球を実際に作って西ドイツに亡命したギュンター・ヴェッツェルさん。今回はドイツからリモートでインタビューに応じてくれました。
なお、当事者に話をうかがったこともあって、映画の内容に全体的に触れているので、情報を遮断して映画を見たいという人は鑑賞後に読むことをオススメします。
GIGAZINE(以下、G):
「熱気球で亡命する」というアイデアはかなり奇抜ですが、一体どこからやってきたのでしょうか?
ギュンター・ヴェッツェルさん(以下、ヴェッツェル):
私は「西ドイツに行きたい」という思いを長年持ってきましたが、その危険さから実行を思いとどまっていました。しかし、1978年3月に偶然、親戚がニューメキシコで毎年開催される熱気球のイベントについて書かれた西側の記事を持ってきてくれたんです。カラフルな熱気球が飛んでいる様子を見て、「この方法であれば、そんなに大変ではなく西に行けるのではないか?」と思ったのがきっかけです。
以下は当時のヴェッツェルさん家族を撮影した写真。
G:
「そんなに大変ではなく」というのは、「技術的に大変ではなく」という意味でしょうか?
ヴェッツェル:
技術的というよりは、あらゆる「危険を想定して」です。具体的にいうと、当時、東西ドイツの国境付近は、陸上についてはあらゆる対策が取られていましたが、空を飛んでいく方法ならいけると考えました。東ドイツの警察は空に向かって発砲できませんでしたから。ソ連に占領されている状態だから、そう簡単には発砲できなかったんですね。
G:
なるほど、そういう事情だったのですね。熱気球で亡命することについて、ヴェッツェルさんは成功率をどのくらいだと見積もっていましたか?
ヴェッツェル:
「成功する」という思いは確信に近いものがありました。ただやはり、「シュタージに見つかってしまったら」という危険は常に考えていたので、プランBもありました。当時、西ドイツに住んでいる親戚が時々私たちのもとに訪ねてきていたので、その親戚に自分たちの熱気球の写真を渡し、「私たちが忽然と東ドイツから姿を消したら、この熱気球で私たちが逃げようとしていたことを西ドイツで広めてくれ」と頼んでいました。私たちが政治的に迫害されていることが広まれば、西側の政府が引き取ってくれるはずなので、その方法で西に行こうと。
G:
1つ目の熱気球を作るのに「2年かかった」と映画内でありました。設計・材料調達・実作業など、この2年のタイムラインを教えてください。
ヴェッツェル:
映画では「2つの熱気球を作り、1つ目は完成まで2年かかった。2つ目は6週間で仕上げた」という設定ですが、実際には3つの熱気球を作っているんです。最初の熱気球は大失敗で、全然機能しなかったので、ミヒャエル・ブリー・ヘルビヒ監督は映画では描かないことにしたそうです。ですが実際には、最初の熱気球を作るのに6週間、映画に出てくる2つめの熱気球を作るのに5週間、実際に成功した3回目の熱気球を作るのに5週間。制作から制作の間はテストを行っていました。脱出を計画した日が1978年3月8日で、脱出が成功し西に到着たのが1979年9月16日なので、全部あわせて1年半です。
G:
当時の東ドイツは物資が限られていたと思うのですが、材料の調達は困難でしたか?
ヴェッツェル:
私も友人のペーターも最初、革製品を作る工場で働いていたんです。革製品は裏地に布を使うので、その生地を最初の失敗した熱気球には使いました。東ドイツでは個人の所有は許されず、全て国の所有物でしたが、逆にいえば「みんなもの」なので、工場長にビールを1箱渡して裏地用の布を手に入れたんです(笑)
ヴェッツェル:
2つ目の熱気球は、たまたまライプツィヒという町で大量の布地を見つけることができて、それを買いました。3回目の熱気球は、映画に出てくるように東ドイツ中を回って少しずつ買い集めて作りました。
G:
布以外にも、プロペラ・バーナー・ゴンドラ・圧力計など熱気球を作るための材料が作中に登場しました。これらも手に入りやすかったのでしょうか?
ヴェッツェル:
プロペラやゴンドラなどに使う材料は、建材や日用品として、当時の東ドイツにも普通にありました。ゴンドラのロープは洗濯ひもです。
G:
バーナーやボンベも……。
ヴェッツェル:
ボンベは一般家庭で使っていたものを使いました。バーナーは水道の金具などを利用した自作ですね。
G:
全部で熱気球を3つ作ったとのことでしたが、どのように改良を重ねていきましたか?
ヴェッツェル:
1つ目の熱気球は小さすぎ、布も水に弱すぎました。この熱気球が取り込める空気の量は1800立方メートルでしたが、サイズの問題を解決するために計算をしなおして、2つ目は2200立方メートルの空気を取り込めるようにし、送風機を使って膨らませました。また、布地もいいものにしました。2つ目の熱気球もサイズに問題があったので、3番目の成功した熱気球は、取り込める空気量を4200立方メートルにまで改良しました。これは1979年当時のヨーロッパで最大の大きさです。
G:
それだけのことをしようとすると、かなりの知識が求められると思うのですが、ヴェッツェルさんは救急車の運転手だったのですよね?
ヴェッツェル:
私はいくつかの職種の職業訓練を受けていて、一番始めにレンガ積み工として5年働いて、その後に救急車の運転手として働きました。そして1978年にペーターと2人で電気技師として独立しました。先ほど話に出した皮製品の工場へは、電気関係の仕事を請け負って行ってたんです。
G:
映画の「救急車の運転手が気球を設計・制作する」という点が「専門外なのでは……?」と気になったのですが、そのあたりは映画と実際とで少し事情が違うのですね。熱気球を作るための知識も、さまざまな職業訓練や仕事の中で身に付けていったのでしょうか?
ヴェッツェル:
当時の東ドイツはかなりのことを自分でやらなければなりませんでした。私は手先が器用な方なので、そういう才能はあったと思いますし、数学を趣味でやっていたので。
G:
飛行機の設計まで行っていましたもんね。
ヴェッツェル:
そうなんです。飛行機の設計は、映画だけの話ではなくて、実際に私が考えていたことなんです。2つめの熱気球、つまり映画での1つ目の熱気球ですが、あれは8人は乗れないことが途中でわかったのと、ペーターと私の意見に食い違いがあったのとで、私たちは乗りませんでした。その時に考えたのが、私たち家族4人は飛行機で逃げるという方法です。4人乗りの超軽量動力機を設計してみたのですが、途中でその難しさに気づき、熱気球という案に戻りました。
G:
飛行機の設計は本などを参考にしたのでしょうか。
ヴェッツェル:
グライダーを持っている友人がいて、その人からいろいろ話を聞いて、聞きかじった知識と借りた本の知識でやってました。西ドイツへの亡命後にパイロット免許を取得して32年になりますが、「飛行機ってそんな簡単に飛ぶものではないな」ということが今ならわかります。当時の私が引いていた図面では絶対に飛ばなかったと思います(笑)
G:
映画では、ペーターさんはヴェッツェルさんが人の視線を凄く気にしていて、まるでサスペンス映画のような描写に息が詰まりました。日常に「シュタージ(秘密警察)がいる」という状況が、現代日本では想像が難しいのですが、実際に「常に監視されている」という緊張感がつきまとっていたのでしょうか。
ヴェッツェル:
誰かに監視されている、誰かに密告される、という危険性は常にありました。もちろん、全員が全員、密告や監視をするわけではありません。ただ特定の人に対して「この人は注意しなければならない」という感覚はみんな持っていました。なので熱気球を作っている最中は、やはり注意深く生活しましたね。
G:
映画の中では隣人のバウマンさんが自分はシュタージ(秘密警察)だと明言していました。バウマンさんを見て「秘密警察の『秘密』とは一体……?」となったのですが、実際にシュタージは自分で明言する人が多かったのでしょうか?
ヴェッツェル:
バウマンさんのようにシュタージであると明言する人はいませんでした。シュタージの職員はもっと控えめでしたが、みんな「この人はシュタージの職員だ」というのはわかっていました。その一方で、シュタージではないものの、シュタージに使われて密告を行っている一般市民もいました。こういう人たちの存在は基本的に外からわからないのですが、行動を見ていてなんとなく「この人は危ないかも」と気づくので、その人には気をつけるという感じですね。
G:
やはり、「見張られている」という感覚はあったのですね。水面下で熱気球作りを進めるのはリスクの高いことだと思うのですが、その危険を冒してまで「西側に行く」という決断をされた理由を教えてください。
ヴェッツェル:
東ドイツにはさまざまな制約があり、自分の意見は言えず、国を出ることができず、職業の上でも制約がありました。色んな小さな不満が積み重なった結果、西に逃げたいという思いが強くなりました。ただ私とペーターの場合、幸運なことに、自分たちの家を持っていました。ペーターはドイツ社会主義統一党の党員でもありましたし、自分たちの家でこっそりとプロジェクトの準備を進めることができました。もちろん公では、一切そのようなそぶりを見せませんでした。
G:
ペーターさんは1回目の熱気球の飛行に失敗して家に戻ってきていました。ヴェッツェルさんの周囲で、亡命に失敗して帰ってきた方は他にいましたか?
ヴェッツェル:
私の知る限りはいません。まず、西側に着いた人のその後はわかりませんし、失敗したら投獄されます。シュタージに捕まって投獄された人は、投獄中かなりひどい目にあったらしく、出て来たあとも一切、そのことについて語りませんでした。今でも、当時のことを語らない人、語れない人はいます。
G:
「平和な日常」と「その一歩外側の暴力」が紙一重で存在している様子は映画からも感じられました。映画の中で、布を大量に購入した際に密告されそうになるシーンがありましたが、実際にもこのような「危機一髪」という状況が起こったのでしょうか。
ヴェッツェル:
あそこまで危険な場面はありませんでした。ただ、ヘルビヒ監督が当時のシュタージが残した資料を読んだり、シュタージの博物館に行ったりして、当時の情報を拾い上げた部分です。
G:
ヴェッツェルさん自身が熱気球を作って亡命する中で身の危険を感じることはなかったのですね。
ヴェッツェル:
なかったです。
とにかく東ドイツから逃れたいという気持ちが強かったですし、「この熱気球なら必ず西側に行ける」と信じていました。そう思えば思うほど東ドイツで生活するのが嫌になってきて、自分たちを追い込むような状況でした。なので、ストレスを感じたりといったこともありませんでした。
G:
むしろ気球を作る作業自体が「希望」だったのですね。
ヴェッツェル:
希望でしたし、「絶対これだったらうまくいく」という確信がありました。
G:
最後の質問になります。ヘルビヒ監督が「調べれば調べるほどこの題材をドイツで制作することが正しいことだと自信を持った」とおっしゃっていましたが、ヴェッツェルさんとしてはこの題材がドイツ映画として公開されることにどういった思いがありますか?
ヴェッツェル:
今回の映画化に伴って、学校で東ドイツについて扱われる機会が多くなりました。教師たちも、自分たちのイニシアチブで東ドイツの何がいけなかったかを子どもたちを教えるようになっています。私たちは、亡命を試みたたくさんの人たちの代弁者だと考えています。多くの人々にとって、東ドイツの体制はそれほど耐えがたいものでした。この映画は当時、東ドイツに住んでいた人が、なぜ強く「東ドイツを去りたい」と思ったのか、そしてどういう形で逃げようと考えていたのかを、代弁する物語です。
G:
本日は貴重なお話をありがとうございました。
インタビューを行ったヴェッツェルさんらの物語をモデルにした「バルーン 奇蹟の脱出飛行」は2020年7月10日(金)から公開されています。
『バルーン 奇蹟の脱出飛行』公式サイト
https://balloon-movie.jp/
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