謎に満ちた冷戦下の「東ドイツのゲーム事情」とは?
いわゆる東側諸国に属していた社会主義国家の東ドイツでは多くの人々が西側諸国への脱出を試みるなど、およそ自由にゲームなどできる状況ではなかったと思われがちですが、実はそんな東ドイツにもゲーム文化が存在していました。そんな謎に満ちた「共産圏下にあった東ドイツのゲーム事情」について解説したムービーが、YouTubeで公開されています。
Gaming Beyond the Iron Curtain: East Germany
第二次世界大戦後、世界は東側陣営と西側陣営に分断され、冷戦が始まりました。
冷戦時代、ドイツのベルリンには「ベルリンの壁」が建設され、ベルリンの壁の内部が西ベルリン、壁の外が東ベルリンとして分離独立。東ドイツは正式名称をGerman Democratic Republic(GDR)といい、およそ1600万人の人々が暮らしていました。
東ドイツは地理的にも西側に近く、アタリや任天堂の隆盛を目の当たりにした東ドイツの人々は、アメリカ人が冷戦の中でさえキューバの葉巻を求めたようにビデオゲームを求めたそうです。
1980年代、東ドイツなどの東側陣営諸国ではビデオゲームの需要が非常に高まる中で、西側諸国のゲームをコピーしたものが流行。
しかし、かつて東ドイツが独自にビデオゲームを開発していたという事実を知る人は、ドイツ人の中でも少ないようです。
1949年、アメリカの提唱でCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)が発足し、西側諸国が先端技術を使った製品を東側諸国へ輸出することが禁止されました。COCOMが制定した輸出禁止品目の中には、コンピューターなどの電子機器も含まれており、東ドイツではコンピューターに関する技術で西側諸国に遅れを取ることになります。
東側諸国では市場に自由競争の原理を働かせないように政府が政策を定めたため、東ドイツでは企業が生産するコンピューターの台数に制限が設けられていたとのこと。また、生活必需品の物価は安かったものの、ビデオゲームなどのぜいたく品は生産が後回しにされました。
東ドイツの国境寄りに住む人々は、西側諸国のテレビを見たりラジオを聞いたりすることが法律によって禁止されていたものの、それらの情報によってビデオゲームやコンピューターゲームの存在を知っていたとのこと。
結果として東ドイツの人々は娯楽にあふれた西側諸国へのあこがれを高まらせ、東ドイツの政策は多くの亡命者を出す結果になってしまいました。
1980年代に入り、東ドイツでもついに西側諸国の技術に追いつかなければならないという危機感が高まります。
1986年、任天堂がNES(Nintendo Entertainment System)を西ドイツで発売開始しましたが、東ドイツへの輸出は西側諸国によって禁止。
カセットディスクやカートリッジの技術に魅力があったため東側諸国はNESを欲しましたが、プレイすることは西側諸国のプロパガンダにつながるとして許可できませんでした。
しかし、東ドイツの住民が許可を取って西側諸国へ旅行に行き、そこで購入したビデオゲームを持ち帰ることは法律的に問題なかったとのこと。年齢が高い人ほど国外旅行の許可が取りやすかったことから、裕福な住民は親や祖父母に頼んでビデオゲームを買ってきてもらっていたそうです。
もう一つの抜け穴として、西ドイツの人が東ドイツの親戚にものを送ることができる制度を活用したものがありました。しかし、東ドイツの検閲では非常に厳しい判定基準で没収されてしまうため、西側の送り主は東ドイツへ余分に心付けを払わなければならなかったとのこと。
これらの手段により、最終的にはおよそ20万台以上のビデオゲームが私的な手段で東ドイツに輸入されました。
しかし、西側諸国のビデオゲームは東ドイツの一般的な住民にとってはあまりにも高価であり、多くの住民は西側製品を模倣した東ドイツ製のコンピューターゲームで満足するしかありませんでしたが、それでさえ数カ月分の給料に匹敵したとのこと。
かつて東ベルリンだった地域にコンピューター・ゲーム・ミュージアムという建物があります。コンピューター・ゲーム・ミュージアムでは、当時東ドイツで生産されたコンピューターゲームが多く展示されていますが、これらのコンピューターゲームは西側を模倣しようとして苦心した跡や、物資不足をどうにか打破しようとした痕跡が見られます。
ビニールにゲームデータを記録した「ビニールカセット」はその一例。物資不足とCOCOMによる技術輸出禁止という2つの要素が、東ドイツのゲーム事情を決定づけたのです。
東ドイツ出身のゲーム開発者であるアンドレ・ヴァイスフロクさんは東ドイツで生まれ育ち、東ドイツにおいて数少ないゲームプログラマーとして金銭を得ていました。
アンドレさんは1987年に初めてゲームを作りましたが、そのときゲームを作ったのはKC 85/3という東ドイツ製の8ビットコンピューターで、KC 85/3のマイクロチップにはアメリカで1976年に生産されたもののコピーが使われていたとのこと。同時代に西側で使われていた同型コンピューターの、半分の処理速度も持っていなかったそうです。
そもそもアンドレさんが10代だった1980年代前半には自宅にコンピューターがなく、アンドレさんは近所のコンピュータークラブに所属し、コンピューターゲームをプレイしていました。
10代のころにアンドレさんがプレイできたゲームは、32×32ピクセルのアートワークに白黒の画面という代物で、KC 85/3の登場も東ドイツのゲームにとって大きな出来事だったとのこと。
しかし、KC 85/3は低価格帯の自動車と同じ値段という高価なものであり、さらに一般市民には購入の許可が下りることはなく、仕事で必要な人にのみ購入が許可されていました。
幸運なことにアンドレさんの両親は自営業であり、KC 85/3を購入することができました。そしてオフィスに置かれたKC 85/3にテレビを接続することで、コンピューターゲームをプレイしていたようです。
KC 85/3の購入と同じころ、アンドレさんの住む街には西側のアーケードゲームを輸入して改造し、東ドイツの通貨でプレイできるようにしたアーケードゲームセンターができました。
プレイできたのは「パックマン」など西側では時代遅れの古いアーケードゲームでしたが、アンドレさんは半日もゲームをプレイし続け、ゲームの動作を頭に焼き付けてKC 85/3で再現しようと試みたとのこと。
アンドレさんが作ったコピーゲームは現在でもブラウザ上やKCシリーズのエミュレーターでプレイできます。
東ドイツのゲームプログラマーは高価なフロッピーディスクにデータを記録することはできず、カセットテープや紙、メールなどに直接ソースコードを記録してやり取りしていました。メール上でソースコードをやり取りし、相互にデバッグを行うこともあったそうです。
ゲーム愛好家にとっては非常に厳しい環境であった東ドイツですが、そこで唯一作られたオリジナルのアーケードゲーム機が「Poly Play」です。木製の筐体に納められたこのゲーム機では、8種類のゲームの中から好きなゲームを選んでプレイできたとのこと。
Poly Playは初期のPCゲームを思い起こさせるようなグラフィックで、同時代の西側諸国で遊ばれていたアーケードゲームと比べると時代遅れの感が否めない代物でしたが、ジョイスティックも付いているなど東ドイツでプレイできるゲームとしては最新鋭のものでした。
しかし、残念ながらジョイスティックは中にある4つのボタンを押すだけだった模様。
ゲームの内容も東ドイツの共産主義的意向が色濃く反映され、暴力的な要素は極力避けられています。
エーリッヒ・ホーネッカー政権の元では、家庭でこっそりとゲームを作っていたプログラマーたちが検挙される事件もありました。
ライモ・バンセンさんが作った「レボリューション」というゲームはソ連がアメリカを爆撃するというゲームでしたが、バンセンさんがこのゲームをリリースした直後、バンセンさんの父親が秘密警察に呼び出されて息子のゲーム制作を止めるように言われたとのこと。バンセンさんはこのゲームを作ったとき、わずか12歳だったそうです。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、急激に西側諸国のゲームが東ドイツに流入してきました。
Poly Playは回収されてスクラップにされ、KCシリーズは市場から消えました。かつては東ドイツのプールやゲームセンターなどで遊ばれていたPoly Playも、現存するものは世界で3台しか確認されていません。
時期にすればわずか数年間という時間ですが、東ドイツに多くのゲーマーたちを生み出し、そしてベルリンの壁崩壊によって一気に消滅した東ドイツのゲーム文化でした。
・関連記事
東西冷戦の象徴「ベルリンの壁」がなぜ建設され、どうして破壊されたのかがわかるムービー - GIGAZINE
旧ソ連で唯一「発禁処分」を受けていた幻のアニメーション作品「Glass Harmonica」 - GIGAZINE
鉄のカーテンの向こう側でコンピュータはどのような進化を遂げていたのか? - GIGAZINE
ロシアにゲーム市場を誕生させた伝説の海賊版ファミコン「Dendy」とは? - GIGAZINE
ヒリヒリする緊張感が漂う元CIA捜査官原作のスパイ映画「Red Sparrow」の予告編が公開 - GIGAZINE
・関連コンテンツ