Googleには無料で利用できる食堂がある……というのは有名な話。もともとGoogleの無料食堂は従業員の健康を意図したものではなく、創業者であるラリー・ペイジのいう「Casual Collisions(偶然の衝突)」、つまり従業員同士が軽い会話を交わすことで新しいアイデアが生まれる場として位置づけられていました。
この社員食堂を通じて、Googleは過去数年にわたり、従業員が健康的な食生活を送れるように数々の実験を行ってきました。
この結果、たとえばGoogleのニューヨーク・オフィスでは、2年前はまったく提供されなかった朝食用のサラダが毎日2300食も提供されるようになり、2017~2018年に比べて海鮮の消費量が85%アップ。清涼飲料水の消費量は横ばいでしたが、水の消費量は大きく増えました。
Googleの成功の理由は、データと人の認知を中心にした戦略にあります。たとえば、標準的な食堂のお皿は直径12インチ(約30cm)ですが、Googleで利用されているお皿は10インチ(約25cm)と小さめです。食べ物が並ぶレーンではまず最初に野菜が目に入るようになっており、肉やデザートにたどり着くためには多くの時間を要し、その頃にはお皿にスペースがなくなるようになっています。いちごやレモン、きゅうりなどが浮かべられた「スパウォーター」は、意図的に清涼飲料水よりも取りやすいように配置されており、ブリトーのサイズも一般的なサイズの60%程度になっています。

このGoogleの「食堂改革」に着手したのが、食の専門家として国際的に活躍してきたミカエル・バッカー氏。2012年にGoogleから依頼を受けたバッカー氏はまず「偶然の衝突」を快適にするために、照明の変更やオープンキッチンの設置といった設計に携わりました。その後、「より健康的な食事を取るためにはどうすればいいのか」と、アメリカで議論を巻き起こしていたテーマに着手することになりました。
バッカー氏は、アメリカの若い世代は「家族での食事」という習慣を持たずに育ったために、健康的な食生活を送りたくとも「健康によい食事とは何か」を知らないという問題点を挙げています。バッカー氏はこのことから、「人々のよりよい選択を手助けすること」が重要だと考えました。
バッカー氏は健康によい食べ物の味を良くする研究者に会いに行きましたが、最終的に、この方向の努力は絶望的だと結論付けました。どんなに全粒穀物が健康によくとも、その隣にハンバーガーを置くと人の脳はハンバーガーを選択してしまうためです。
ここから、「食べ物の置かれる環境」を変えていくという試みがスタート。例えばGoogleオフィスでコーヒーを入れようとすると40秒がかかりますが、Googleの「マイクロキッチン」と呼ばれる休憩室には果物やクッキーなどが置かれており、この40秒の間に従業員は菓子類を手に取ることが可能です。なお、(PDFファイル)ある調査によると、認知的負荷が高い人は、空腹時になると健康的な果物よりも不健康なスナックを選択する可能性が高くなるとのこと。

上記の調査結果を念頭に置き、バッカー氏は「スナックをコーヒーメーカーから遠ざける」という実験を行いました。それまでコーヒーメーカーからスナックまでの距離は2メートルほどでしたが、それを約5メートルに離したところ、スナックを手に取る確率が男性で23%、女性で17%減少したそうです。
調査結果を受けて、Googleは1450個のマイクロキッチンを作り直しました。不健康なスナックはM&M'sとグミにほぼ限定され、コーヒーメーカーから離れた場所にある、不透明な引き出しの中に入れられました。そしてコーヒーメーカーの近くには、新鮮な果物が入ったボウルだけが置かれるようになりました。
バッカー氏らのチームは同様の理論を清涼飲料水にも適用し、冷蔵庫の扉の下半分だけを不透明にして、従業員の目に触れるものが水やフレーバー水、にんじんスティック、ヨーグルトだけになるように工夫。もちろん、不透明なガラスの向こうに清涼飲料水があることを従業員は知っていますが、見えなくすることで誘惑を減らしたわけです。これらの取り組みで重要なのは、従業員が選択の自由を持っているということ。「私たちは何かを取り上げているわけではありません。『にんじんを食べなさい』という規定もありません」「私たちは選択の自由を深く信じています」とバッカー氏は述べました。
Googleにおける食の研究には、イエール大学の教授でありCenter for Customer Insightsのディレクターであるラビ・ダール氏も関わっています。ダール氏によると、人間の意志決定プロセスを鑑み「より多くの野菜を食べる」という目標を実現するためには、人々がまず食堂で目にするものをサラダにする必要があるとのこと。空腹の人は最初に目にしたものを手に取る傾向があるためです。しかし、これだけでは十分ではなく、人々が野菜を手に取るような「説得力」を野菜に持たせる必要があるそうです。

2019年の夏にGoogleの社員食堂でインド料理フェアを行った時、多く従業員がサラダバーに立ち寄ったとのこと。このインド料理フェアはベジタリアン食を意識したもので、食堂はカリフラワー、トマト、チーズといった食材で埋め尽くされ、肉はラム肉が少しあるだけでした。しかし、オクラココナッツカレーを始めとする料理はスパイスで風味づけられ食欲をそそる仕上がりだったためか、多くの従業員がラム肉にたどり着くまでにお皿をベジタリアン食でいっぱいにしたそうです。この試みは「非科学的」な実験といえますが、「野菜は味がよくなければいけない」という身もふたもない教訓を示しました。結局のところ、人に行動を起こさせ、よい行動を身に付けさせるために、論理的な理由付けは余り関係なく、「その人が楽しめるかどうか」が重要になってくるというわけです。
上記の教訓を受けてGoogleでは「野菜料理の味をよくする」という取り組みが始まりました。しかし、肉と違って野菜をおいしくするためには皮をむき、刻み、煮込み、ピューレするなど、多くの労働を要します。この挑戦は困難を極め、2018年にバッカー氏は料理学校「ザ・カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカ」(CIA)に助けを求めました。GoogleはCIAの料理人であるMark Erickson氏と共に野菜中心の料理カリキュラムを作成したとのこと。
一方、「健康によい食事」と一言でいっても、科学的に「健康によい食事」を裏付けるのは非常に難しいという問題もあります。これまでに行われた科学研究の多くは小規模で、特定の健康問題に結び付けて実施されてきました。また栄養研究は被験者の報告に依存している部分が大きく、信頼性にも欠けます。何十年にもわたって赤身肉は健康に悪いと主張されてきましたが、結局2019年には国際研究チームが「赤身肉の摂取量を減らしたことによるがん死亡率の減少割合は非常に小さい」と発表しました。しかし、これに対しても、世界がん研究基金の研究責任者であるGiota Mitrou博士は「『好きなだけ赤身肉・加工肉を食べてもがんのリスクは増加しない』と広言することは、人々を危険にさらす可能性があります」と、否定的なコメントをしています。
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そんななかで行われたGoogleのアプローチの長所は、「簡単で全てに通用する1つの食事問題の解決策など存在しない」という前提に立っていることにあります。Googleは週5日、1日数回、19万5000人以上に提供される食事を通して、実験の場を作り出しました。実験を繰り返し、教訓を得て、社内にアメリカ版のブルーゾーンを作り出したのです。
Googleは食事改革の取り組みを単身で行ってきたわけでなく、企業と共に行ってきたため、他の企業や学術機関、病院などががGoogleに続くことは可能です。実際に既にGoogleの戦略を取り入れている組織も存在するとのこと。Googleが始めた「無料の社員食堂」がシリコンバレーに広く浸透したことからも、Googleの食堂改革が企業の新しいモデルとなる可能性も大いにあるとみられています。