任天堂のアメリカ進出を支えた1人の「ファミコン名人」を紹介するムービー
高橋名人や毛利名人のような、1980年代に活躍した「ファミコン名人」は現代でいうプロゲーマーのはしりといえますが、実はアメリカにも、ファミコン名人ならぬ「Gaming Master」と呼ばれた1人の男性がいました。Great Big Storyによる以下のムービーでは「Gaming Masterがどうやって誕生し、どのようにして任天堂のアメリカ進出を支えたのか」が紹介されています。
The Rise of Nintendo’s Original Gaming Master - YouTube
ハワード・フィリップスさんは、1980年代後半にアメリカで巻き起こったNintendo Entertainment System(NES)ブーム時に活躍したGaming Masterです。
壁に飾ってあるジャケットは、30年近く前にフィリップスさんがイベントで実際に着用していたジャケットです。
フィリップスさんが「ちょっと恥ずかしいけど……」といいながら取り出したのはGaming Masterとして活躍していた当時の写真です。
フィリップスさんは1981年に任天堂へ就職しました。しかし、最初からGaming Masterとして就職していたわけではなく、運送用の倉庫を管理する業務を担当していました。運送されたアーケードゲームのシリアルナンバーを記録し、出荷のために箱に詰めるという単調な仕事でしたが、この仕事にはフィリップスさんにとって大きな「特典」があったとのこと。
その特典とは、「ドンキーコング」や「マリオブラザーズ」など、倉庫にあるアーケードゲームを好きに遊べたということ。フィリップスさんは新しいゲーム筐体が倉庫に搬入される度に箱から取り出し、電源につないで遊んでいたそうです。
当時、任天堂はアメリカに進出したばかりで、アメリカ法人であるNintendo of America(NOA)本社をシアトルに構えていました。NOAの代表取締役を務めていた荒川實氏は「任天堂がアメリカ市場に切り込むためには、日本とは異なるアメリカの時代精神を重視するべきだ」と考え、プレイヤーからの意見を求めていたとのこと。
そこで、「彼なら任天堂のゲームを遊びまくっているからプレイヤー側の意見をよく知っている」と、同期の社員数人がフィリップスさんを推薦。
こうして、フィリップスさんはNOAの公式テストプレイヤーとなり、リリース予定のアーケードゲームを試験的にプレイする仕事に就きました。
1985年になると、任天堂はアーケードゲームから家庭用ゲームの市場に視野を広げます。アメリカでは、日本のファミリーコンピュータに約2年遅れて、NESが発売されることになりました。そこで、荒川さんがフィリップスさんに「今まで遊んだゲームの中で一番面白いタイトルは?」と質問したところ、フィリップスさんは今まで遊んだ中でもお気に入りの15本を提示しました。この15本の多くがNESのローンチソフトとして発売されます。
NESはアメリカで大ヒットし、フィリップスさんはNESのソフト販売戦略を支える1人として、テレビのニュースで紹介されるほどの知名度を得ます。
そして、フィリップスさんのゲームの腕前と知名度に目を付けたのが、NOAの広報部長を務めていたゲイル・ティルデンさんです。「ゲームを遊ぶ子どもたちへ敬意を持ちながら、直接話しかけられるような存在」を探していたティルデンさんは、大人でありながらどこか子どものような無邪気さも持つフィリップスさんの人柄を認め、NOAのスポークスマンとして起用します。
フィリップスさんはたちまち大人気となり、テレビやイベントに出演しまくる売れっ子Gaming Masterとなります。そして、子どもたちにゲームをプレイする楽しさを教えるためにアメリカ各地を飛び回るようになります。
アメリカのNES大ヒットの裏で、「ゲームは子どもにとって害悪だ」というネガティブキャンペーンやバッシングがテレビで行われるようになります。しかし、フィリップスさんはゲームのポジティブな部分を強調しようと努力していたそうで、「新しいことを発見したり、挫折しても我慢強く挑戦し続ける。それが学習でしょう」と語ります。
ゲームを遊ぶことが当たり前になってきた子どもたちは、やがてゲームをプレイするだけではなく、ゲームの攻略・デザイン・設定などの情報も求めるようになりました。
そこで、NOAは「Nintendo Power」と呼ばれる雑誌を発行します。
Nintendo Powerには、さまざまなゲームの攻略方法や最新ソフトの情報が掲載されていました。NOAの公式ファンクラブの「大統領」を務めていたフィリップスさんは、Nintendo Powerに掲載する情報に間違いがないかを毎月チェックする編集業も行います。
フィリップスさんはやがて初期のNintendo Powerの顔ともいうべき存在になりました。
フィリップスさんを登場させた「Howard & Nester」という漫画もNintendo Powerで連載され、人気を博しました。フィリップスさんはまさにアメリカにおけるNESブームの火付け役であり、任天堂がアメリカで大成功を収めるきっかけを作った1人であるといえます。
フィリップスさんが読んでいるのは、当時12歳だった女の子からのファンレターです。スーパーマリオの便せんには「私はあなたの一番のファンです。友だちといつも一緒にNintendo Powerを読んでいます」と書かれていて、フィリップスさんは手紙を読みながら優しい笑顔を浮かべています。
有名になりすぎて街を歩くと子どもたちやその親から声をかけられまくったというフィリップスさんですが、「Gaming Masterを務めて一番よかったところは何でしたか?」という質問に対して、「みんなの夢を満たすのは本当に楽しかったです。子どもたちと握手しながら『好きなゲームは何だい?』と尋ねるのは本当に最高でした」と答えてムービーは終わります。
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