ウェブの根幹を成す「ハイパーテキスト」が誕生してから50年が経過、単語を生み出したテッド・ネルソンがその秘密を語る
By kevin
インターネット上で広く使われている文書の公開・閲覧システムを「World Wide Web(ウェブ)」と呼びますが、これは文書の任意の場所に他の文書の位置情報を埋め込む「ハイパーテキスト」のひとつとして知られています。簡単に説明すると、ウェブページ上のテキストから画像やその他データなどを呼び出す仕組みそのものがハイパーテキストというわけです。そんなハイパーテキストは、50年前の1965年8月24日にテッド・ネルソン氏によって生み出されました。
50 years ago today the word “hypertext” was introduced | Gigaom
https://gigaom.com/2015/08/24/hypertext-50/
1965年の8月24日、「Xanadu」の生みの親としても有名なテッド・ネルソン氏が、「ハイパーテキスト」という言葉を作りだし、アメリカコンピューター学会で論文として発表しました。そんなネルソン氏に海外ニュースメディアのGigaomがインタビューしています。
テッド・ネルソン氏
By Gisle Hannemyr
Q:
あなたが「(PDF)A File Structure for the Complex, the Changing and the Indeterminate」という題名の論文を発表して50年、つまり「ハイパーテキスト」という単語が誕生して50年が経過したということになります。発表当時のことに関して何か思い起こすことはありますか?
テッド・ネルソン:(以下、ネ)
第一に覚えておいてほしいのは、発表の数年前から私はハイパーテキストの構築に取り組んでおり、どのように発表すべきか考えていた、という点です。つまり、50年前の8月24日は私にとっては「自分のアイデアを世間に初お披露目する重要な日」であったわけです。
Q:
その当時のお話を聞かせて下さい。
ネ:
私は文学的・哲学的な観点とは区別し、インタラクティブな文章システムを開発していました。発表前には、専門的なグループに「世界は再定義されるだろう」と伝えていたものです。
Q:
それはある種の確信を抱いていたからなのでしょうか。
ネ:
私は元々技術者ではなく、一般的なコンピューターサイエンティストとは異なるバックグラウンドを持っています。しかし、当時の私はハイパーテキストが未来の媒体になると考えており、この考えを自分が納得いくように広めたいと考えていました。
私はもともとメディアの人間で、ショービジネスや出版業界などと深い関わりを持っていました。詩や劇作で賞を受賞したこともありますし、初のロックミュージカルを手がけたのは何と私なんです。これは、父親(過去にエミー賞を受賞したこともあるラルフ・ネルソン監督)の好意でテレビや夏季劇場などで働いた経験から来るものなのかもしれません。そういうわけで、ハイパーテキストに関する発表を行った際も、人前に出ることには何の不安も抱いていませんでした。
また、大学では哲学を学びながら映画を撮影していました。初めて撮影したのは「The Epiphany of Slocum Furlow」という映画で、これはYouTube上で見ることができます。とにかく私は大学で哲学と映画製作について学んでいましたね。
THE EPIPHANY OF SLOCUM FURLOW - YouTube
Q:
そこからどうやってコンピューターサイエンスの世界に入ったのですか?
ネ:
私が自分をコンピューターサイエンティストであるとみなしたのは、この分野で単位を取得してからです。私は大学院に進学したのですが、この時にコンピューター関連の課程に進みました。当時の私の思考を暴露すると、コンピューターは万能な機械で、その中に映画を映すこともできると考えたからでした。そう、私は映画を作ることが好きだったので、この分野に進んだわけです。
Q:
そこからハイパーテキストという考えが浮かんできたのは1960年辺りでしょうか?
ネ:
その通り。そして5年間で私はコンピューター画面がインタラクティブに動作するための概念を考えたわけです。
Q:
発表当時はどのような反応でしたか?
ネ:
私が会った誰もが「コンピューター画面がインタラクティブに動作する」というものをイメージできないでいましたが、私自身は目をつむればそれがどのように動作するのかを手に取るようにイメージすることができました。1960年代から1970年代にかけては、論文で明かしたハイパーテキストのようなインタラクティブに動作するシステムについて説明を続けましたが、誰も私の説明を理解したりイメージしたりすることはできていないようでした。しかし、私にとってはこれは既知の文学の拡張という位置づけでした。
Q:
でも本はインタラクティブなものではありませんよね?
ネ:
もちろんそうです。ページをめくり、異なることが書かれたページを読むのが本です。しかし、本の中にもインタラクティブなものはあります。児童書は非常にインタラクティブなものになっており、本のページを切り離したり新しく付け足したり、本の中にある時計の針を読者自身がくるくる回したりと、本と読者が相互に作用し合う仕掛けになっています。このように、「インタラクティブ」という概念自体は新しい考え方ではありませんでした。
私は1940年代にゲームセンターに行ったことがあるのですが、1セント銅貨を2枚入れると銃が撃てるゲームなどがありました。これらは機械的ではあるものの、インタラクティブなものの例でもあります。
By Quinn Dombrowski
Q:
そういった経緯から、コンピューターの画面上でテキストがインタラクティブに作用し合うというものは、論理的な次のステップになったわけですね?
ネ:
そういうことです!
Q:
ハイパーテキストが世間一般に広まった場合どのようなことが起きると想像しましたか?
ネ:
直ちにPC産業が出来上がると信じていましたし、コンピューター画面が大衆のためのものに変わると感じていました。ただし、それがいつ起き、どれくらいの年月をかけて発達していくのかは想像できませんでした。しかし、そういった時代がまもなく到来するであろうことは感じていました。なぜならムーアの法則の登場でコンピューターの価格が徐々に低下していくであろうことは明らかだったからです。当時は、人間の想像力以外でコンピューターのパーソナル化を邪魔するような要素は1つもありませんでした。そして、足りていなかった想像力を、私がハイパーテキストとして供給しようとしていたわけです。
Q:
映画を作ることはハイパーテキストにどのように関係しましたか?
ネ:
私にとって、コンピューターは他のシステムを備えた単なる撮影用のカメラのようなものでした。映画を作成するにはスプロケットと映画フィルムや露光と焦点についてよく理解しておく必要があります。また、俳優をよく理解し、演技その動作を調整してやる必要があるわけですが、これはコンピューターでも同じようなものです。
Q:
つまり、映画とソフトウェアの関係をどのように表したのですか?
ネ:
映画は画面上に表示されるもので、見る者の心に影響を与えるものです。そして、ソフトウェア(インタラクティブなソフトウェア)は、スクリーン上に表示するものによりユーザーの心を刺激し、さらに何かしらの動作につながるものです。したがって、車輪が回るように設計するだけでは足りておらず、どのように相互に作用し合うようになるかを理解することこそ本当の問題なのです。つまり私にとって、プログラミングなどのコンピューターに関する専門性は、映画の専門性と同じようなものでした。
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