伝説のバンド「グレイトフル・デッド」が作り上げた「ウォール・オブ・サウンド」の発祥と伝説
グレイトフル・デッドは1960年代から70年代にかけて巻き起こったヒッピームーブメントの中に登場し、活動停止後も伝説的な存在として語り継がれているバンドです。音楽のメインストリームとは無縁であったにも関わらず、熱狂的なファンに支えられて30年以上にわたってスタジアム級のコンサートを開催し、大量の観客を動員し続けていたという伝説のバンドからはさまざまな技術が生まれましたが、中でも無数のスピーカーユニットを擁する巨大な音響システム「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」は、その独創性と革新性を象徴するようなエンジニアリングの結晶と呼べるシステムとして語り継がれています。
The Wall of Sound | Motherboard
http://motherboard.vice.com/read/the-wall-of-sound
世界で最も偉大なバンドの1つであり、ヒッピー文化を象徴するバンドでもあるグレイトフル・デッドは、1960年代にアメリカ・カリフォルニアで結成されました。後に中心人物としてバンドを率いるギター/ヴォーカルのジェリー・ガルシアやボブ・ウェア、フィル・レッシュといったメンバーによって街角のスタジオで産声を上げたバンドのまわりには、メカ好きやオーディオマニア、そして当時多くみられた麻薬による幻覚の世界に身を置く者など、その後のバンドの進化を決定づける人物が集まるようになりました。
By Zoooma
バンドの機材や楽器を担当し、後に機材・楽器メーカーの「アレンビック」を設立してバンドを支えたリック・ターナーは「人々が集まり、エンジニアリング面や、音楽的な内容、そして実験的な模索を行うための議論が巻き起こった。それらは全て強制されたものではなく、自然発生的に始まったものだ」と当時の空気を語っています。
そしてここから、後に長い時間をかけて作り上げられる世界で最大の、そして革新的な音響システムの歴史が始まることになります。これはコンサートにおける音響システムの歴史の中での重要な瞬間になるわけですが、必ずしも綿密な計画のもとに設計されたものではなく、もっと自由でカジュアルな雰囲気の中から生まれ出たものだったとのこと。このようにして作り上げられた音響システムは、無数のアンプやスピーカー、サブウーファー、ツイーターなどが高さ10メートル・幅30メートルにわたって積み上げられ、総重量70トンを超える巨大なシステムへと成長。後にバンドの代名詞とも呼べる存在となる「ウォール・オブ・サウンド」が形づくられることになるのです。
「ウォール・オブ・サウンド」といえば、こちらも音楽の歴史の中で伝説的プロデューサーとして名を残したフィル・スペクターのレコーディング手法としても知られる名前ですが、グレイトフル・デッドの場合はステージ後方に積み上げられたスピーカーシステムのことを指しています。バンドの歴史の中で生まれたこのシステムは、後のPAシステム(音響システム)の原点となる要素が詰め込まれており、小規模なコンサートホールから数万人クラスのオーディエンスを集める野外フェスティバルで用いられる音響システムは全てここから始まっているといっても過言ではありません。
1969年ごろ、サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区ではヒッピー文化が発祥し、ここでグレイトフル・デッドは神格的な崇拝の対象となっていました。音楽の世界には電気の力が多く取り入れられるようになり、大音量に酔いしれるコンサートの雰囲気はドラッグによる陶酔感とも密接に関連しあうものとして広がりを見せます。当時のアーティストでは、グレイトフル・デッドとジミ・ヘンドリクスが最も音量のあるライブを繰り広げていましたが、実際のところそのサウンドクオリティはお粗末なものだったといいます。
PAシステムはまだまだ生まれて間もない黎明期であり、ステージ上でプレイヤーが自分の演奏を聴くためのモニタースピーカーのシステムがやっと使われ出した頃。現代のPAシステムでは観客に音を届けるメインスピーカー(FOH、フロント・オブ・ハウス)はステージ前面に置かれますが、当時のシステムはステージの後方に積まれたスピーカーがその役目を果たしており、プレイヤーが出したステージ上の音がそのままPAの音となっていたため、ハウリングや聴くに堪えない気持ち悪いエコーサウンドなどが発生し、音質はひどいものとなっていました。
そのひどいサウンドはオーディエンスのみならず、プレイヤー側にも悪影響を与えることになります。グレイトフル・デッドのメンバーにとっても同じことが言え、彼らはステージ上で自分が弾いている楽器の音を確認することすらままならなかったとのこと。PAのサウンドがうまくまとまった場合でやっと「聴くに堪える」という状態であり、調整が不調に終わったライブでは実に耐えがたいサウンドをオーディエンスは強いられるという時代が続きました。
この問題をバンドとともに解消していったのがオウズリー・スタンリー、別名「Bear(ベアー)」と呼ばれるサウンドエンジニアでした。スタンリーはリック・ターナーらとともにグレイトフル・デッドのサウンドの立役者として後世に語り継がれる存在となります。
ケンタッキー生まれのベアーはサウンドの魅力に取り憑かれたひとりでした。当時のメンバーだったドラマーのミッキー・ハートは、1974年に行われたグレイトフル・デッドのコンサートでベアーが機材に向かって「俺はお前らを愛している、お前らも俺を愛している。どうして俺を困らせようとするんだ?」と語りかけていたと後に語っています。
ベアーはエンジニアに必要な「耳」とともに「金」を手にしていた男でした。彼はサンフランシスコのベイエリアに蔓延していたLSDの流通をとりまとめていた人物であり、バンドのサウンドを決定づける中心人物でもありました。ベアーはバンドのサウンドをもっと高められると信じており、ある日のミーティングで彼はサウンドクオリティを高めるためのソリューションとして「PAシステムをバンドの背後に置くべきだ」と驚くべき提案を投げかけます。
その狙いについてベアーは、バンドメンバーとオーディエンスが同じ音を聞けるようにするためだと説明しましたが、当時においてもこのアイディアは時代に逆行するクレイジーな提案として受け止められます。ミーティング後、彼の提案はボツとされたのですが、スタッフの間では徐々にこのアイディアを肯定的に受け止める動きが生まれます。そして1974年、ついにバンドはPAシステムをステージ後方に配置して、モニターシステムとFOHシステムを統合したPAシステムとして運用することにしたのです。
このシステムからは、複数のスピーカーを縦の柱状に並べて周波数ごとに音が飛ぶ方向を制御する「ラインアレイ」と呼ばれる手法が誕生しており、これは現代のPAシステムにもその流れを見ることができます。また、ハウリングやノイズを抑える独自のノイズキャンセリング技術などが生みだされることになりました。
1969年ごろ、バンドは年間150回以上のライブを精力的に行っていました。その中で、その後のウォール・オブ・サウンドのテクノロジーは常に磨かれ続けて行きます。スピーカーを収めるキャビネットを製作していたリチャード・ペッチュナーは「休みなく働く製作委員会による実験」が行われていたと当時を振り返ります。
このように常に成長するシステムだったため、具体的にいつシステムが完成したと特定することは非常に難しいのですが、1974年3月23日にサンフランシスコ・カウパレスで開催されたライブで使用されたPAシステムこそが、ウォール・オブ・サウンドが初めて完成した瞬間であるといわれています。
これをさかのぼること約1年前、バンドの熱狂的なファン、いわゆる「デッドヘッズ」と呼ばれる人たちの間でもPAサウンドのひどさが話題となっていました。特にバンドの代表曲の1つである「ダーク・スター」のイントロで繰り広げられる2本のギター、ベースの掛け合いを満足のいくサウンドで聴けないことが大きな不満として渦巻く状況になっていたとのこと。
メンバーの一人であるレッシュは2011年のインタビューで、「当時は電気を使った楽器に十分なテクノロジーが発達していなかった。俺たちは、いかにして音のひずみをなくし、ピュアなサウンドを実現するかについて語り合った。そこでベアーが『アルテック社のスピーカーとハイファイアンプ、真空管を4本搭載したパワーアンプを各楽器ごとに導入し、木製のエンクロージャーに全てを搭載しよう』と提案したんだ。その3か月後、俺たちはベアーが作ったそのシステムを使ってプレイするようになっていた」と当時のサウンドを振り返っています。
改良が続けられた「ウォール」は巨大化を続け、最大でJBL製スピーカーユニット600台とエレクトロボイス製のツイーターユニット50台をマッキントッシュ製アンプ50台で駆動するという規模にまで達します。この規模に至ると、コンサート会場でPAシステムを設営するだけでも丸1日の時間を要することになり、音響機材の運搬だけでも長さ12メートルという巨大なトレーラーが一杯になるほど。「ウォール」を設置する足場は全く同じものが2セット作成され、交互にコンサート会場に運び込まれることになりました。
また、設営をスムーズにこなすため、2つのスタッフチームが結成されました。一方のチームがライブ会場での作業を行っている時にもう一方のチームは別の足場セットとともに次の会場へと先に向かい、設営作業をあらかじめ進めておくという運用方法が導入されました。PA機材とステージ機材など全ての物資量は最大で75トンにも達し、その運用コストも大きな負担としてバンドにのしかかることに。結局、「ウォール」は1972年頃から1974年ごろにかけての2年間だけ、実際に運用されるという運命に終わりました。
このような巨大化したシステムは最大で2万8000ワットという極めて大きな電力を消費したということですが、そのサウンドは必ずしも「うるさい」だけではなかった模様。システムの狙いはできる限り良好なサウンドを遠くまで届けることに絞られていたため、なんと2km離れた場所でも十分に聴けるクオリティのサウンドを保っていたというから驚きです。
現代のPAシステムの主流と大きく異なる特徴の1つが、バンドのメンバーごとに別々のシステムが構成されていた点だとのこと。一般的なPAシステムでは、各メンバーの出した音が全て1台のミキサー卓に入力され、バランスを調整した上でPAスピーカーへと送られますが、グレイトフル・デッドの場合はそれぞれのメンバーが自身のサウンドのみを再生するシステムを持っていました。音量のバランスは各メンバーがそれぞれの音量を上げ下げすることによって調整される仕組みとなっており、実は原始的な方法でバンドのサウンドが作られていたという点はかなり興味深いところです。
かなり肥大化したシステムということもあり、実際の運用面では問題を抱えていたことも一方では事実であったといいます。無数のスピーカーユニットが用いられていたため、ライブ中は常にどこかのユニットが壊れていることが当たり前だったとのこと。そのため、ライブが終了するたびにスタッフは壊れたユニットを交換する作業を強いられていたそうです。
そしてもちろん費用の面でも大きな負担となっていたことを忘れるわけにはいきません。当時の金額でも年間で27万5000ドルというコストが必要だったのですが、これを現在の金額に換算するとなんと130万ドル(約1億6000万円)という費用が毎年必要になっていたとのこと。このような問題が存在していたこともあり、「ウォール」は1974年ごろを境に使われなくなるという運命をたどることになったのです。
このようにして伝説となった「ウォール」ですが、21世紀に入ってそのシステムの一部を再現するという試みが行われました。「Despacio」と呼ばれるスピーカーシステムは1974年当時の「ウォール」をほぼ忠実に再現しており、2013年にマンチェスターで開催されたフェスティバルで実際に使用されたとのこと。6台のアンプと巨大なスピーカーを持ち、7.5トンにも達するシステムから発せられる音量はジェット機が離陸するときに相当する150dBにも達していたそうです。
Despacio soundsystem: James Murphy and 2ManyDJs in conversation - YouTube
PAシステムの黎明期に登場し、独創的で、かつ革新的だった「ウォール・オブ・サウンド」はこのようにして人々の記憶に残り、伝説として語り継がれることになりました。現代のPAシステムは、はるかに小型化が進んで運搬や設置が飛躍的に容易になりましたが、「ウォール」はそれら全ての根幹であったと言っても過言ではありません。巨大化したシステムが実現していたサウンドは一部の人の記憶として残っており、今でもその音に一歩でも近づくためにさまざまな工夫が続けられているそうです。
・関連記事
ローランドのリズムマシン「TR-808」の名機たる魅力と隠された不遇の時代 - GIGAZINE
全裸で人々が暮らしルールも通貨も存在しなかった究極のヒッピーの理想郷「テイラーキャンプ」 - GIGAZINE
サンフランシスコの自由な空気が感じられる「ヘイト・アシュベリー」と「カストロ通り」に行ってきました - GIGAZINE
JBLの名機スピーカー「パラゴン」をダンボールで再現した「iHorn Paragon」を組み立て&試聴レビュー - GIGAZINE
多くのファンを魅了しながら突然姿を消した謎の天才オーディオエンジニア「NwAvGuy」 - GIGAZINE
全高3メートル・重量2トンの世界最大のピアノ「Klavins-Piano Model 370」が奏でる音色とは - GIGAZINE
LED電球なのに音が出るソニーの「LED電球スピーカー」で実際に音楽を聴くとこんな感じでした - GIGAZINE
・関連コンテンツ