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「シチリアのロビンフッド」と呼ばれた伝説の山賊、実は死んでいなかった可能性


第二次世界大戦中に山賊となり、金持ちから奪い貧しい人たちに金品や食料を分け与えたことからロビン・フッドにもなぞらえられ、民衆に高く支持された義賊サルヴァトーレ・ジュリアーノ。最盛時には500人の山賊団をしたがえ、シチリア独立運動でも活躍した「シチリアのロビンフッド」は、いまでも地元では英雄視され高い人気があります。

ジュリアーノは1950年に27歳のとき暗殺されたのですが、実は自分の死を偽装してアメリカへと渡ったのではないかと、その死には長年疑惑が持たれてきました。そこで、ジュリアーノの墓に入っているのは本当に彼の遺体なのかを検証するため、墓を開いてDNA検査を実施することになったそうです。


詳細は以下から。Mystery over death of 'Sicilian Robin Hood' - Telegraph

ジュリアーノの生前最後の写真とされている、1949年に山賊団の仲間とともに撮影された写真。中央が「シチリアのロビンフッド」とも「モンテレプレの王」とも呼ばれたサルヴァトーレ・ジュリアーノ、左が右腕的存在のガスパレ・ピッシェッタです。


ジュリアーノの1歳下のガスパレ・ピッシェッタは、ジュリアーノのいとこであるとも幼なじみであるとも言われているのですが、家族のように育った親友同士で、戦争から帰ってきた1945年にシチリア独立運動で活動していたジュリアーノに加わり、山賊団ではジュリアーノの右腕となりました。

シチリア独立運動たけなわの1947年、左翼の台頭をこころよく思っていなかったジュリアーノの一派は、5月1日のメイデーの集会を襲撃し15歳以下の子ども4人を含む11人を殺害、33人を負傷させるというPortella della Ginestra massacre(ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺事件)を起こし、それまでのヒーロー的なイメージがくつがえされ、民衆の心は急速に離れていったそうです。

1950年7月5日に、ピッシェッタがジュリアーノを裏切り、寝ているところを射殺したとされているのですが、これはポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺事件の裁判中にピッシェッタが自白したもので、ジュリアーノはカステルヴェトラーノで起きた銃撃戦でカラビニエリにより射殺されたとする警察の説明とは食い違うものでした。

終身刑を言い渡されたピッシェッタは、山賊やマフィアと警察や貴族・有力者との関係を暴露したため、刑務所でマフィアによる報復を恐れ、父親(山賊活動のため終身刑を受けていた)以外と同房になることを拒み独房へ入ったのですが、1954年2月9日の朝、コーヒーにビタミン剤を混ぜて飲んだところ、激しく苦しみだし、40分後に死亡しました。検視により死因はストリキニーネと判明したそうです。ピッシェッタ殺害の犯人は捕まっていません。

ジュリアーノの母は「ピッシェッタはいつか裏切る」と警告していたそうですが、生前ジュリアーノは「ぼくたちは兄弟のようにお互いを尊敬しあっていて、彼とぼくは同じ人間のようなものなんだ」と母に手紙を書き、ピッシェッタを弁護しています。もしピッシェッタがジュリアーノを殺害したというのが事実であれば、ジュリアーノは最後まで信頼しきっていた親友に裏切られたということになります。

ピッシェッタ(左)とジュリアーノ(右)。


「親友に裏切られ暗殺された悲劇のヒーロー」というイメージや、1962年のフランチェスコ・ロージによる伝記映画「Salvatore Giuliano」(邦題「シシリーの黒い霧)」、ジュリアーノやピッシェッテをモデルとした実名のキャラクターを主要登場人物とするマリオ・プーゾの「The Sicilian」(マイケル・コルレオーネも登場する、「ゴッドファーザー」の外伝的な位置づけの小説)などの作品の影響もあり、死後ジュリアーノの人気は回復し、いまでも多くの人がその墓を訪れます。

しかし、その死に関しては長年の間疑念が持たれていて、警察や憲兵に追われ、マフィアからも命を狙われていたジュリアーノは自身の死を偽装することで逃れ、チュニスへ渡り、のちにアメリカへ移住したのではないかという説も広く信じられてきました。

父親がジュリアーノの山賊に殺害された犠牲者の一人という歴史学者のGiuseppe Casarrubea氏は十数年間におよびジュリアーノの死を調査し、同じく歴史学者のMario Cereghino氏とともに、ジュリアーノとして埋葬された遺体は似ても似つかない別人であるとして証拠の写真などを提出し、2010年10月15日、パレルモの検察庁はジュリアーノとされる遺体と存命のジュリアーノの血縁者とのDNA鑑定を行うことに合意したそうです。墓は現地時間の2010年10月28日(木)に開かれるとのこと。

DNA鑑定を待つ血縁者の一人、ジュリアーノのおいにあたるというSalvatore Sciortino氏は、「40年以上にわたって叔父の墓に花を供え続けてきましたが、墓に入っているのは一体誰なのか、やっとはっきりします」と語っています。

1922年11月生まれのサルヴァトーレ・ジュリアーノは生きていればもうすぐ88歳になるはずですが、墓に埋葬されているのがジュリアーノではないと判明した場合、まだ存命だとすれば名乗りをあげる可能性もあるかもしれません。

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in メモ, Posted by darkhorse_log

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