「物忘れ」をすることには進化的な利点があると研究者が主張
ほとんどの人は、「何かを調べようと思ってブラウザを開いた途端に調べたかったことを忘れてしまった」「絶対に会ったことがある人なのに名前が思い出せない」といった物忘れの経験があるはず。「すべての記憶をずっと覚えていられたらいいのに」と思っている人も多いかもしれませんが、イギリスのダブリン大学で心理学教授を務めるスヴェン・ヴァネステ氏らは「物忘れには進化的利点がある」と主張しています。
The evolutionary benefits of being forgetful
https://theconversation.com/the-evolutionary-benefits-of-being-forgetful-242629
物忘れに関する最も初期の発見のひとつは、「平均的な人の記憶はだんだん薄れていき、記憶障害などではなくても物事を忘れてしまう」というものです。19世紀ドイツの心理学者であるヘルマン・エビングハウスは、記憶の中でも特に長期記憶が急速に失われていってしまうことを示す忘却曲線を発見したことで知られています。
以下が忘却曲線のグラフで、縦軸が記憶を、横軸が時間を表しています。人々はこの曲線のように、新しく覚えたことを時間の経過と共に忘れていってしまうとのことで、近年の研究でも忘却曲線の存在が確かめられています。
記憶を忘れることにはデメリットしかないと思う人もいるかもしれませんが、ヴァネステ氏らは「忘れることには機能的な目的もあります」と指摘。人々の脳は常に情報を浴びせられているため、もしすべての情報の細部まで覚えていた場合、重要な情報を保持し続けることが難しくなってしまうとのこと。
これを回避する方法のひとつが、「そもそも情報の細部に十分な注意を払わない」というものです。ノーベル生理学・医学賞を受賞した神経科学者のエリック・カンデル氏らの研究チームは、脳内の神経細胞(ニューロン)間のシナプスが強化された時に記憶が形成されることを示しました。
つまり、人々の脳は何かに注意を払うことでシナプスを強化し、その記憶が維持できるようになるというわけです。人々が余計な情報を忘れるのもこれと同じメカニズムであるため、人々が何かを記憶することは物忘れをすることと表裏一体といえます。
また、人々の記憶はいつまでも同じでいいわけではなく、時には状況に応じて記憶を更新する必要があります。たとえば、人々は普段の通勤ルートを当たり前のように記憶していますが、もし途中の道が工事などでしばらく閉鎖される場合、その道を迂回(うかい)する通勤ルートを記憶し直さなければなりません。こういう場合、脳は元のルートのシナプスを弱めると同時に、新しいルートを記憶するためのシナプスを強化します。
もしすべての記憶を忘れることができないと、重大な悪影響が生じる可能性もあります。心的外傷後ストレス障害(PTSD)はトラウマ的な出来事を経験した後、日常生活に支障が出るほどの不快な反応が生じる疾患ですが、もしトラウマ的な記憶を忘れたり更新したりできない場合、PTSDの治療はさらに難しいものとなります。
ヴァネステ氏らは、「進化の観点からいえば、新しい情報に反応して古い記憶を忘れることは間違いなく有益です。狩猟採集生活をしていた私たちの祖先は、安全な水場を何度も訪れていたかもしれませんが、ある日そこにライバルの集落ができていたり、生まれたばかりの子グマがいるのを発見したりすると、彼らの脳はこの場所がもはや安全でないというラベルを貼るために記憶を更新できる必要がありました。それができなければ、彼らの生存を脅かすことになります」と述べました。
また、マウスを対象にした2014年の研究では、一度分離した記憶に関するニューロンの接続を人工的に活性化すると、失われたはずの記憶をよみがえらせることができました。これは、記憶は完全に失われるのではなく、記憶にアクセスする能力が変化しただけであることを示唆しています。
実際に、何か特定の単語は思い出せないもののその周辺情報はたくさん思い出せるという「舌先現象」は、多くの人が経験しているはずです。舌先現象については、単語と意味の間の接続が弱まった結果として発生するという説や、「この記憶は失われていない」というシグナルとして機能するという説があるとのこと。
ヴァネステ氏らは、「要するに私たちは、多くの理由で情報を忘れることがあります。私たちが注意を払っていなかったか、情報が時間経過と共に衰退したためです。思い出を更新するために忘れてしまうこともあります。また、忘れられた情報は永久に失われるのではなく、アクセスできなくなるだけです。これらすべての忘却は、私たちの脳が効率的に機能するのを助け、何世代にもわたって私たちの生存を支えてきたのです」と述べ、忘却には進化的な利点があると主張しました。
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