徳川家康の「伊賀越え」を徒歩で再現する旅は失敗に終わったので家康が成し遂げられた理由を考えてみた
本能寺の変の知らせを聞いた徳川家康が大阪から愛知県に位置する岡崎城まで3日で帰ったという「伊賀越え」を徒歩で再現する旅に挑んでいたのですが、2日目にして足の裏が激しく痛むトラブルが発生し、結局3日目は1歩も進めず伊賀越えは失敗に終わりました。なぜ失敗してしまったのかを振り返りつつ、伊賀越えを成し遂げた家康の身体能力について考察してみることにします。
◆伊賀越えとは?
本能寺の変で織田信長が討たれた際に、家康は堺(現在の大阪府堺市)周辺を遊覧中でした。家康は堺から大阪府四條畷市に位置する四條畷神社に移動した際に本能寺の変の知らせを聞き、そこから伊賀を経由しつつ愛知県岡崎市に位置する岡崎城まで3日で帰り着いたと伝わっています。この大移動は「伊賀越え」や「神君伊賀越え」として現代にまで言い伝えられているのですが、「3日という短期間で四條畷神社から岡崎城まで移動する」ということが本当に可能だったのか気になったので、実際に徒歩で旅程を再現してみようと思い立ったわけです。
伊賀越え再現旅行の予定ルートや、再現に向けてのトレーニング記録については、以下の記事にまとめています。
徳川家康が本能寺の変で大ピンチになり大阪から愛知まで命懸けで爆速帰還した「伊賀越え」を徒歩で再現する旅に出ます - GIGAZINE
◆伊賀越えの再現は失敗に終わった
伊賀越え1日目は予定とは少し異なるルートを進んだものの、31kmを歩き通して目的地の山口城までたどり着くことに成功しました。しかし、2日目に甲賀市に入った段階で足の裏に痛みが生じ、12.5km進むのに5時間かかるほどのスローペースでしか歩けなくなりました。結局2日目には予定ルートの半分程度しか進めず、バスや電車を乗り継いで宿泊地へ向かうこととなりました。2日目の歩みは以下の記事にまとめています。
「伊賀越え」を徒歩で再現する旅2日目にしてトラブル発生【2日目:山口城~小川城跡】 - GIGAZINE
その後、一晩経過して足の痛みが和らいだように思えたのですが、宿泊地の最寄り駅まで約500m歩いただけで痛みが再発し、これ以上の続行は不可能と判断してギブアップしました。
3日目までに歩いたルートは以下の通り。Googleマップではルートを完全再現できないので距離にズレがありますが、進んだ距離は53.2kmで、終着点は甲賀。伊賀越えどころか伊賀に入ることすらできませんでした。宣教師ルイス・フロイスが著した「日本史」によると、家康の「伊賀越え」一行から脱落した穴山梅雪は落ち武者狩りに遭い討ち死にしたとのことなので、もし当時なら、途中で歩けなくなった者は無事では済まなかったかもしれません。
◆伊賀越えに失敗した理由は?
伊賀越えを再現できなかった最も大きな理由は「足の裏の痛み」です。他にも熱中症や体力不足といった原因も考えられますが、水分や塩分はこまめに補給していたので熱中症の可能性は低め。また、足の裏が痛む際も息切れはしていなかったので、体力不足の線も薄そうです。では、なぜ足の裏が痛くなってしまったのか考えると、以下の要因が挙げられます。
・アスファルト対策が足りなかった
伊賀越えの再現ルートは、極一部を除いてアスファルトで舗装された道で構成されています。このアスファルトの硬さが足を徐々に痛めつけていたのでしょう。
足が痛くなった後も未舗装路では足の痛みが和らいだという事実も、アスファルトが足を痛めつけている説を裏付けています。
「硬いアスファルトは登山道と違って足への負荷が大きい」という知識はあったので、「登山靴ではなく履き慣れたスニーカーを使う」「分厚い靴下を履く」といった対策を行ったのですが、これでは対策が足りなかったのでしょう。
・連日の負荷に耐えられなかった
伊賀越えに挑戦する前の準備としてランニングや登山などを行い、体力は十分につけたつもりでした。また、伊賀越え本番を想定して重めの荷物を背負って標高差1800mの道を18.1km歩く縦走登山も敢行しており、重たい荷物を背負った際のスタミナにも自信がありました。
しかし、ランニングは3日に1回程度の頻度で行っており、縦走登山も1度しかしていません、つまり、「3日連続で長距離を移動する」という練習は1度もしていなかったわけです。伊賀越えを成功させるには、単純な体力だけでなく、翌日までに全快するほどの回復力も必要なのでしょう。
◆徳川家康はなぜ伊賀越えを成し遂げられたのか?
伊賀越え再現失敗の要因を踏まえて、なぜ家康は伊賀越えのを成し遂げられたのか考えてみました。
・家康は現代人よりも健脚だった?
国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所は東海道に関するQ&Aの中で、江戸時代の旅人は毎日10時間、約32km~40kmほど歩き続けていたと考えられると述べています。徳川氏による天下統一以前・以後で急激に人の歩く距離が伸びるとは考えられないので、「伊賀越え」をした時点でも当時の人は30kmぐらいなら連日歩けたはず。つまり、現代人よりも健脚だった家康にとって、この「伊賀越え」の歩きそのものは苦ではなかった可能性があります。
・家康は馬に乗っていた?
そもそも家康自身は徒歩で「伊賀越え」をしたとは限りません。実際、経路途上にある山口城では案内板に「ここで馬を乗り換えた」という記述がありました。出典は「宇治田原町史」で、少なくとも宇治田原には「家康は馬に乗っていた」という言い伝えがあったといえます。しかしこれは徒歩での挑戦が無意味になってしまう結論なので、できれば大河ドラマ「真田丸」で内野聖陽さんの演じた徳川家康がそうだったように、必死の形相で走っていて欲しいものです。
今回の伊賀越え再現の旅では、「10km走るのに1時間かかる程度の身体力では徒歩での伊賀越えは不可能」ということが分かりました。身体を鍛え上げ、いつか伊賀越えに再チャレンジしたいものです。また、「徒歩での伊賀越えはかなり大変だ」ということを知った上で、大河ドラマ「どうする家康」の松本潤さん演じる徳川家康の伊賀越えがどう描かれるのかに注目したいと思います。
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