1台のカメラがいかにして「プライバシー権」を形作ったのか?
携帯電話やスマートフォンの普及により、現代では誰もが当たり前にカメラを持ち歩くようになり、これに伴ってプライバシーの問題も身近なものになりました。手軽に使える安価なポータブルカメラの先駆けであるコダックのカメラ「ブローニー」の登場により、プライバシーが権利として確立されるまでに至った歴史を、写真とカメラ専門のニュースサイト・PetaPixelが論じています。
How the Kodak Brownie Changed Privacy Rights Forever | PetaPixel
https://petapixel.com/2021/10/19/how-the-kodak-brownie-changed-privacy-rights-forever/
アメリカでは、19世紀後半には可搬式のカメラが市場に出回るようになりましたが、当時のカメラは1台25ドル(現代の価値に換算すると約700ドル/約8万円)もしたため庶民の手には届かず、カメラを持ち歩くのはもっぱら新聞記者でした。そのため、アメリカで最初にプライバシー権の問題に声を上げたのは、パパラッチの標的になりやすい上流階級の人々でした。
1890年に発表され、後にアメリカの法制史において最も影響力のある論文の1つと言われることになる「The Right to Privacy」の中で、著者の1人であり資産家でもあったサミュエル・D・ウォーレンは「怠惰な人々の卑わいな趣味を満足させるために、家庭内に土足で踏み込むことでしかつかめないくだらないゴシップが毎日のように紙面を踊るようになった」と述べて、怒りをあらわにしています。
しかし、この論文が発表された10年後の1900年にコダックから「ブローニー」が発売されると、プライバシーに関する悩みが富裕層だけのものだった状況に変化が訪れます。1台当たりたった1ドル(現代の価値に換算すると約32ドル/約3600円)のブローニーは生産開始から1年で150万台も売れ、特に主なターゲットだった若者を中心に瞬く間に普及したため、当時のアメリカの学校はさながら写真撮影用のスタジオのようだったそうです。
こうしてアメリカ社会にカメラが浸透したことを一般市民が自覚するようになったきっかけは、ニューヨーク州ロチェスターに住むアビゲイル・ロバートソンという女性が、地元のスタジオで撮影した1枚のポートレートです。ロバートソンの写真を撮ったポスター制作会社は、その写真を無断で製粉会社の広告に使用し、2万5000枚のポスターを印刷して街の至る所に貼り出しました。
現代では、モデルの写真がポスターに使われるのは珍しいことではありませんが、当時の10代の女性にとっては耐えがたい屈辱だったとのこと。自分の顔が知らない間に商品のマスコットになったロバートソンは、恥ずかしさと戸惑いから精神を病み、寝たきりになってしまいました。そして、顔写真の使用差し止めを求めて、ポスター制作会社と製粉会社を相手にした裁判を起こしました。
法廷でのポスター制作会社側の主張はシンプルで、「写真を使ってはならないという法律はない」というものでした。これに対し、ロバートソン側の弁護士は「The Right to Privacy」を引き合いにプライバシーの尊重を訴えたものの敗訴。裁判官らは「原告の女性の顔に固有の価値はなく、物理的な財産が盗まれたわけでもない」と結論づけてロバートソンの権利を認めず、裁判を担当したアルトン・パーカー裁判長はロバートソンに「顔が美しいと思われたことをむしろ光栄に思うべきだ」とまで言い放ちました。この1902年の有名な判決は、「Roberson v. Rochester. Folding Box Co.」と呼ばれ、現在でもプライバシー権を論じる際によく引用されているとのことです。
裁判に負けたロバートソンの姿に、当時の多くのアメリカ人が共感し怒りの声を上げたことで、プライバシーは一気にブルジョアジーの悩みから庶民の問題になりました。そして、怒りの声に突き動かされたニューヨーク州議会は1903年に、「書面による同意なしに、存命中の個人の使命、肖像、または写真を広告や商取引に使ってはならない」とする州法を制定。ニューヨーク州はプライバシー権を法律で認めたアメリカ初の地方自治体となり、他の州もこれに追随しました。
こうしてアメリカ社会に定着したプライバシー権は、アメリカ史上最も重要なプライバシー権の勝利とされる「ロー対ウェイド事件」につながりました。この裁判では、「妊娠を継続するか否かに関する女性の決定は、プライバシー権に含まれる」とする判決が下され、アメリカにおける人工妊娠中絶合法化の契機となりました。
PetaPixelは末尾で、「最近でも、ソーシャルメディアの著作権やプライバシーの問題がよく取り沙汰されます。メディアの歴史の中でも間違いなく最大の写真アルバムであるSNSの論争がどんな結果になるかは分かりませんが、1つ間違いないのは手頃なカメラと写真がコダックによって開拓され、安価なブローニーによって新しい時代が始まったことが、プライバシーの議論が社会のあらゆる場所に広まる契機になったことです」と述べました。
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