100年前に「研究資金の使途に政府が口出しするべきではない」と主張した「ホールデンの原則」とは?
by Nestlé
研究者たちが最先端の科学的研究を行って技術を進歩させていくためには、政府による研究資金の提供が必要不可欠です。その一方で研究資金の使い道を政府が指定することになれば、自由な学問が妨げられてしまいます。そんな研究資金と政府の問題について、1918年にイギリスの政治家であったリチャード・バードン・ホールデン氏は「研究資金の使い道は政治家ではなく研究者によって決められるべきだ」という「Haldane principle(ホールデンの原則)」を提唱しました。
A 100th birthday wish: uphold academic freedom in dark times
https://www.nature.com/articles/d41586-018-07518-3
1918年、イギリスは「大英帝国」として世界の5分の1もの土地を支配し、全人口の4分の1を大英帝国とその植民地の人々が占めていました。ところが第一次世界大戦の勃発により大英帝国の支配は揺らぎつつあり、1917年にイギリス政府は戦争終結後の世界に対応し、イギリスの省庁を再編成する委員会の委員長にホールデン氏を指名しました。委員会には経済学者のベアトリス・ウェッブ氏やイギリス領インド帝国の国務長官を務めたエドウィン・モンタギュー氏など、さまざまなメンバーが選出されたとのこと。
ホールデン氏はかつてイギリスの大法官を務めたことがある経験豊富な政治家でしたが、当時戦争中であったドイツの教育・科学組織を賞賛したために新聞から「イギリスの敵」と非難され、ポストを追われてしまいました。ドイツのゲオルク・アウグスト大学で哲学を学んだホールデン氏は学者としても有名であり、1921年にはアインシュタイン物理学の解説書を発表するなど、いくつかの著作を残しています。
委員会は第一次世界大戦が終結した後の1918年、当時の首相であったデビッド・ロイド・ジョージ宛におよそ80ページにわたる報告書を提出しました。この報告書には今日の国々が立脚するさまざまな視点が含まれており、教育と保健について閣僚レベルの大臣を置き、これらの省庁が積極的に専門家の助言を仰ぐべきだと述べています。思想家でもあったホールデン氏は大臣ができるだけ細かい手続きから解放され、政策についてじっくり考える時間が必要だと考えていました。
また、ホールデン氏の報告書における特に革新的な提言として、「研究と情報」に関する全く新しい省庁を設置するように主張した点が挙げられます。ホールデン氏はこの省庁の長官は閣僚などの政治家ではなく、「非常に訓練された思索家」であるべきだとしました。報告書によると、研究と情報に関する省庁は政府のシンクタンクと研究所が融合した存在であり、「政策が決定される前に研究に対する研究資金の提供がされるべきだ」とされています。
当時提出された報告書そのものに「ホールデンの原則」が直接記されていたわけではないと、歴史家のデイヴィッド・エドガートン氏は指摘しています。エドガートン氏によれば、ホールデンの原則が記されていたのは1918年2月から3月にかけて書かれた「政府を再編するための3つの原則」というメモ書きであり、そこに「政府は研究資金の使い道を決定するべきではない」と記されているとのこと。メモ書きは報告書よりも直接的な言葉で書かれており、「首相は国民に対する広報官としての役割が強く、バカであってはならない」など、当時のジョージ首相を送り主として意図していたとみられます。
結局のところホールデン氏が望んだ「研究と情報」に関する省庁は実現しませんでしたが、ホールデン氏の理想は今でも受け継がれています。今日の科学・技術・教育などに関連する省庁は教育機関や大学などの研究機関に対する資金供給に責任を負っており、専門家が省庁に助言をすることもあるだけでなく、ドイツやイギリスでは専門家が産業関連の政策立案にも携わることもあります。
ホールデン氏の報告書がジョージ首相のもとに届いた時、イギリスは第一次世界大戦の終戦に伴って非常に多忙であり、実際の政策にほとんど影響を及ぼしませんでした。報告書の内容が脚光を浴びたのは、第二次世界大戦中から戦後にかけてです。第二次世界大戦では多くの国々の研究者が戦争に協力させられ、原子爆弾をはじめとする兵器を開発したことが注目されており、政治による科学研究への関与を弱める必要性が認識され始めていました。
政治と科学研究が距離を置いた結果、少しずつ科学研究が独立して世界の課題について問題提起を行うことも増えています。地球温暖化や自然保護について科学者が国際的な協力を行い、政府に働きかけるといった動きも今では珍しくありません。
近年ではポピュリズムが隆盛しつつあり、科学者らは自らの研究に政府が関与を強めてくる危険性を認識しています。ホールデン氏は1928年に死去していますが、ホールデンの原則は提唱から1世紀が経過しても色あせることなく、重要な洞察として伝えられています。
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