「お客様のなかにお医者様はいらっしゃいませんか?」で実際に医師が対処した結果、わかってきた問題点とは?
By Rosmarie Voegtli
上空を飛行中の飛行機で急病人が発生し、医師による対応が必要になるケースは日本航空の場合だと1年あたり200件ほど発生しています。そんな場合には「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」というドクターコールが行われることになるのですが、実は処置中や処置後に思わぬトラブルが起こることが懸念されることから、対応を躊躇するケースがあることが指摘されています。
Yes, There IS a Doctor on The Plane. What I Learned at 30,000 Feet. - FemInEM
https://feminem.org/2016/09/01/doctor-on-plane/
2016年に入り、日本の2大航空会社である日本航空と全日空は、医師が飛行機に搭乗する際にあらかじめ医師であることを登録しておく制度をそれぞれスタートさせました。これは、各社のマイレージクラブのアカウントを用いる形で登録する仕組みとなっており、搭乗時に登録者がどの席に座っているのかを把握しておくことで、措置が必要な事態が起こった際の迅速な対応を可能にすること、そして機内に従来のような「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」というアナウンスが流れることで他の搭乗者に与える不要な動揺を抑える狙いがあります。
JALマイレージバンク - JAL DOCTOR登録制度
https://www.jal.co.jp/jmb/doctor/
医師登録制度「ANA Doctor on board」を開始します|プレスリリース|ANAグループ企業情報
https://www.ana.co.jp/group/pr/201605/20160526.html
あらかじめ医師の存在を把握しておくことで、客室乗務員の対応がスムーズになること、そして医師以外の乗客の場合は万が一の際にも手際の良い対応を受けることが期待できるため、誰にとってもメリットがありそうな制度ですが、実際には措置後の責任をめぐって訴訟騒ぎになりかねないなど、一筋縄ではいかない状況が存在しています。
この状況は日本に限らず、世界中で同じようなことが起こっています。ジャネール・エヴァンス医師が遭遇したのは、乗客ではなく客室乗務員の誤解による、思わぬ抵抗でした。
エヴァンス医師が17時間に及ぶロングフライトに乗っていたところ、出発から8時間あまりが過ぎた頃にある異変が機内で発生しました。エヴァンス医師は非常口の横にある非常口シートに座っていたのですが、ある乗客の男性がその席の近くで失神状態に陥ってしまったとのこと。男性は顔から出血しており、その後は便意の制御がままならない状況に陥ったそうです。
By Caribb
男性の妻によると、男性は糖尿病を患っており、潰瘍性出血からの貧血の症状を抱えているとのこと。男性は機内で下血しており、大量の血便がトイレにほど近い非常口シートの床に広がっていた状況。その状況を目の当たりにしたエヴァンス医師の連れ合いは、手助けを求めるために客室乗務員を呼びに行きました。
やがて客室乗務員のチーフが到着し、エヴァンス医師らは男性をトイレに運び込みました。男性の顔色は青く、脈が弱くて血圧を測定することも難しい状態だったとのこと。ここでエヴァンス医師と、同じ便に乗り合わせた救急救命医は客室乗務員に救急医療キットを持ってくるように求めましたが、医師であることを証明するカードが提示されていないことを理由に提供を拒否されたそうです。
医療キットの提供には定められたルールがあるため、客室乗務員の反応はルールに従ったものだったと思われますが、エヴァンス医師は今は緊急事態であること、そして処置能力を持つことが明らかであることを主張。結果的に、同じ便に搭乗していた4名の医師のうち、ただ1人携帯用の医師証を持参していたエヴァンス医師がカードを提示することで、医療キットの使用が認められました。
ここである客室乗務員が救命医に対して自分の席に戻るように指示したそうです。その理由は、彼女が医師証を持参していなかったからというものだったのですが、この医師はその指示を拒否して処置を続けます。男性の脈は非常に弱く、エヴァンス医師と救命医は胃腸管出血と糖尿病からくる心筋梗塞を疑い、機内の2本の通路をつなぐ横向きの通路に男性を寝かせようとしたところ、客室乗務員からの強い抵抗を受けたとのこと。他の乗客に迷惑がかかることがその理由だったのですが、すでに通路には男性の下血が広がっていた状況でその主張には不自然さが残ります。なにより、重体の患者が処置を必要としている際において強硬な抵抗は、乗客の命を危険にさらす行為とも言えます。
By Jeff Boyd
エヴァンス医師らは抵抗を無視して必要な処置を行ったとのこと。客室乗務員には点滴とAEDの処置に必要な照明を求めたのですが、またしても迷惑がかかることを理由に拒絶されます。仕方なく、エヴァンス医師は友人が照らしてくれた携帯電話のLEDライトを頼りに点滴の挿入を行いました。その後、同じ便に乗り合わせていた歯科医が点滴の圧力の調節を行ったそうです。
AEDの自動診断では、心臓は通常の脈動を行っていることが判明。エヴァンス医師は今後の処置のために医療キットの中を確認したところ、FAA(アメリカ連邦航空局)が乗客35人以上の飛行機に搭載するよう定めているアスピリンやニトログリセリン、そして処置に必要なマスクや体液を除去するための備品、気道確保用の道具などが備わっていなかったことが判明。わずかに搭載されていたのが、エピネフリン(アドレナリン)と50%ブドウ糖溶液が入った小瓶だけだったそうです。
その後、パイロットがダイバート(目的地変更)の必要があるかを確認するためにやって来ました。男性の症状はある程度落ち着いたと思われるのですが、エヴァンス医師らがパイロットに対応している間に、件の客室乗務員が医療キットを元の収納場所に戻そうとしたとのこと。エヴァンス医師らはキットを取り戻すために、客室乗務員と対峙することになったのですが、症状が落ち着いたとは言え、容態の急変に備えることが誰の目にも明白である状況にも関わらず、やはりその客室乗務員はエヴァンス医師らに対して非常に怒っている状態だったとのこと。
By Jürgen Stemper
その後、男性の状態は小康状態に入り、エヴァンス医師は地上管制官との話し合いの結果、ダイバートは必要ないとの結論に至りました。とはいえ、いつ男性の容態が変化しても対応できるように、着陸するまで20分おきのバイタルチェックを継続したそうです。
この一件のあと、エヴァンス医師は状況を振り返って学んだことを以下のようにまとめており、客室乗務員の行動によって乗客の命を危険にさらしかねなかったデルタ航空にも共有して欲しいとして記事を公開しています。
・客室乗務員の大部分は、長距離フライトでの緊急事態への対応心得が備わっていた。彼らは必要な援助に対応してくれ、事態後も私が注意を継続できるように、定期的にコーヒーを淹れて持ってきてくれた。しかし、ある乗務員はこれに加わらず、端的に言えばこの男性の命を危険にさらす行動を取った。この人物は客室乗務員の責任者でもある。この一件後、私はFAAのガイドラインを入手し、デルタ航空のパイロットとも話し合った結果、彼女にそのような権力を持たせるべきではないという結論に達した。
・客室乗務員からサポートを拒否されて疑問を感じた時は、医療従事者としてパイロットと話をすることを求めること。
・16時間を超えるフライトにも関わらず、搭載されていた医療キットの在庫量は50%以下だった。航空法の規定に照らし合わせると、これは長距離フライトに対する備えとして不十分であることは明らかである。デルタ航空に対してFAAの規定違反であると警告したが反応がなかったので、私はFAAホットラインに直接連絡した。さらに私は個人的に血中酸素濃度を計測するパルスオキシメーターとポーチ大の医療キット、そしてLEDライトを購入して次回以降のフライトの際に持参することにした。
・飛行機がダイバートできるかどうかを決められるのはパイロットだけであると規則で定められている。しかし、このフライトではいったい誰が決定権を持っているのか不明確だった。
・仮に医療処置を行ったとしても、航空会社から感謝を受けることは期待しないこと。彼らは何が起こって私がどのように対応したのかを全て知っているが、何の反応もなかった。今回の一件は、いかにリスクをマネジメントするかという問題だったが、航空会社が行ったのは、いかにしてフライトを予定通り続けるかということだった。
エヴァンス医師はこのようにアクシデントの総括を行っていました。フライト中の急病人に対する対応というのは実は根が深い問題で、前述のように処置を行った医師の処置内容に疑問を持つ家族から訴訟を起こされてしまうというリスクが存在しています。なぜ医師がフライト中のドクターコールに手を挙げにくいのか、その理由は以下の記事にもまとめられています。
なぜ医者は「飛行機の中にお医者さんはいませんか」に手を挙げないのか?医師の本音(中山祐次郎) - 個人 - Yahoo!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakayamayujiro/20160804-00060527/
上空を飛行中の機内は、医療用器材が大きく不足していること、そしてエンジン音などの騒音が大きいために、聴診器で呼吸の状態を把握することすら難しく、上空の機内で判断できることは「この患者の命が危ないか、危なくないか」レベルでしかないと語る医師もいるとのこと。普段では診療できない環境で医療行為を突然担わされ、しかも結果的に誤診だった場合には大きな責任を負わされるということになると、たとえ善意で命を救おうという気持ちがある医師であっても、急病人の救護に手を挙げることが難しいと感じてしまうことも当然といわざるを得ないのかも知れません。しかも、医師には助けを求められた際にその要請を断ってはいけないという応召義務が課せられており、場合によっては「医師としての品格」を問われてしまうという、非常に過酷な前提が存在しています。
このような状況において、医師がリスクの存在に惑わされずに職責を全うできるようにするための考え方「善きサマリア人の法」というものが、欧米では取り入れられています。これは、「災難に遭ったり急病になったりした人などを救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法であり、医師が訴訟などのリスクを恐れて対応を躊躇することで、救われるはずの命が失われてしまうことを防ぐ狙いがあります。
善きサマリア人の法 - Wikipedia
記事作成時点では、日本ではこの考え方を取り入れるための検討が進められているといわれています。冒頭で挙げた医師登録制度はこれらの問題を解決に向かわせるための一歩と言えるのかも知れません。善意が善意として安心して行使されるための環境作りが重要といえそうです。
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