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お菓子の容器の密輸で4億7000万円を稼いだ「ペッツ・アウトロー」とは?

by Chris McSorley

ペパーミント風味のキャンディー「PEZ」は筒状のケースにミッキーマウスやスヌーピーなどの頭が載っていて、頭をくいっと引き上げるとキャンディーが出てくるというユニークな容器が特徴です。1990年代にはアメリカで大流行し、ペッツの容器だけを集めるコレクターもいたぐらいなのですが、日々の暮らしにも困っていたほどの男性が、ペッツを使って4億円以上を稼ぎ出すという事態も起きました。ペッツ本社を巻き込み、時代の動きを変えたとも言える男性が、一体どのように大金を作り出したのか、Playboyがまとめています。

How a Michigan Farmer Made $4 Million Smuggling Rare Pez Containers into the U.S. | Playboy
http://www.playboy.com/articles/pez-outlaw

◆容器が人気のお菓子「ペッツ」とは
1927年に大人向けの口臭防止用お菓子として発売された「ペッツ」は、もともとオーストリアで生まれたものでした。かつて連合軍のスパイとしてアウシュビッツ強制収容所に潜入した経験のあるカーティス・アリアナ氏を1952年に雇い入れ、ペッツはアメリカに渡ります。伝えられているところによると、アリアナ氏はペッツとともにキューバ葉巻といったアイテムも密輸していたとのこと。そしてアメリカでミントがはやりだした時、ペッツはミッキーマウスやポパイの頭を容器に取り付けた子ども用のお菓子を販売することで事業に成功、1990年頃にはペッツと共に育った元子どもたちがコレクターとなり、食べるためではなく趣味のためにペッツの容器を集め出しました。

by Katey

その後1992年にペッツは1800万ドル(22億円)の売り上げを記録し、雑誌Forbesの表紙を飾るまでになりました。コレクターたちはペッツ容器のプロトタイプまで集め始め、時には3000ドル(36万円)の値がつけられることもあったそうです。

◆「ペッツ・アウトロー」ことスティーブ・グリュー
一世を風靡することとなったペッツの容器ですが、人気のアイテムだけあって海賊版も多く出回りました。その中で名をはせたのがスティーブ・グリュー氏です。グリュー氏は13カ国あまりで税関員をだまし75万個ものペッツ容器をアメリカに持ち込み、400万ドル(約4億7000万円)を稼ぎ出したと主張しています。「10年にわたってペッツの闇市場を支配した私を、人は『ペッツ・アウトロー』と呼ぶよ」とグリュー氏は語っています。

グリュー氏は少年時代、ドラッグ中毒に苦しんでいました。リハビリを受けて中毒を克服した後に、19歳で馬の調教師であるキャシーさんに出会い結婚、3人の子どもをもうけてからはお酒も断っていましたが、そのグリュー氏にとって失われた子ども時代の心の穴を埋めるものがオモチャ集めでした。生活のためにコレクションを売ることもありましたが、強迫観念にかられるようにして、1991年にはミシガン州にあるグランドレッジというリサイクル場でシリアルの空き箱やティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズのプラスチックフィギュアなどの収集を始めました。このオモチャ集めの中で出会ったのが「ペッツ」でした。

by Chris Devers

カラフルでコレクションしがいのあるペッツの容器に瞬く間に魅了されてしまったグリュー氏は、「カナダのペッツはヨーロッパの工場で作られているものとは別物らしい」という話を耳にするとカナダに出向いて大量のペッツを箱買い。息子のジョシュア氏は、レアなペッツを1個50ドル(6000円)でアメリカのコレクター向けに販売・郵送するサービスを開始しました。

◆「ペッツ・アウトロー」誕生の転機
グリュー氏が「ペッツ・アウトロー」と呼ばれるほどの存在になる転機は1993年、とある女性に銀色のペッツ容器を見せられたことでした。女性からスロベニアの工場に同様の容器が多くあることを聞いたグリュー氏はパスポートを取得、高所恐怖症を押して、1994年2月にスロベニアに渡航しました。

ジョシュア氏とともにスロベニア入りしたグリュー氏は、女性からのメッセージ「コリーンスカーに向かえ」が町の名前ではなく倉庫の名前を指していることに気付いて、該当する倉庫へ向かいましたが、コリーンスカーは販売用の在庫を保管する場所で、容器の製造はオルモジュという町であることがわかりました。当時、スロベニアはユーゴスラビアから独立して2年しか経っておらず、オルモジュはクロアチアとの国境の町だったので現地の人が「行くのはやめた方が良い」と言うほどでしたが、グリュー氏らはオルモジュへ直行。

by Bret Arnett

何とか建物が見えるぐらいのスモッグのなか、2人はペッツ容器の製造工場に到着。無事中に入れてもらえた2人は、ラボで最新のペッツ容器を触っている1人の男性と出会いました。「エルビス」と呼ばれるこの男性について、ジョシュア氏は「エルビスは天才だったけれど、すごくフラストレーションがたまっていた。彼が行うペッツ容器に関する実験は、オーストリアのボスにことごとく却下されていたんだ。僕は彼に『アメリカにはあなたの実験に狂喜するコレクターがいますよ』と伝えたんだ」と語りました。

ラボの棚には却下されたキャラクターのペッツ容器がズラリと並んでおり、それを見たグリュー氏は興奮で汗をかきだすほど。すぐに、車に積んできたお金をジョシュア氏に取ってこさせて、運べるだけのペッツ容器を購入しました。このとき黒人のサンタクロースの容器をエルビスに見せてもらったグリュー氏は「跪きたい気分だった」とのこと。アメリカに持ち帰ったあと、これらの容器を1つ100ドル(約1万円)以上で販売したグリュー氏は「必ず、もっとお金を持って再びヨーロッパに向かう」と誓いました。

◆暗躍する「ペッツ・アウトロー」
2週間後、グリュー氏は今度はハンガリーにあるペッツ本社に潜入。マネージャーにわいろを渡してつながりを作り、工場でペッツ容器を購入することに成功しました。例えば工場の設立を祝って作られた銀色のペッツ容器は1つ28セント(約34円)でグリュー氏の手に渡り、アメリカで200ドル(約2万4000円)で販売されたとのこと。グリュー氏によると、1度の旅で利益は2万ドル(約240万円)にも上り、そのお金でジョシュア氏は大学にも進学できたそうです。訪問を重ね、わいろの額を増やすなど、時間の経過とともにグリュー氏はペッツ容器密輸の方法を確立していきました。


グリュー氏とペッツのイベントで知り合ったペッツ・ディーラーのデービッド・ウェルチ氏は当時のグリュー氏について「彼のことは本当に好きでしたが、その時彼のやっていたことのいくつかは完全に違法でした」と語っています。また、コレクターのクリス・ジョーダン氏は「彼はすごく面白いやつだった。ペッツのイベントではゴリラの格好をしていて、ビンゴでブルース・スプリングスティーンの『Born to Run』に合わせて踊っていたよ」と語りました。時にはペッツ容器を無料で配ったり、ホテルのバルコニーに出てロビーにペッツ容器の雨を降らせることもあったそうです。一方で、息子のジョシュア氏は大学生活の傍らで国際的なビジネスを行って友人をあっと言わせたり、ガールフレンドをペッツのミッションに連れていき、旅行感覚でディナーを共にして喜ばせていたとのこと。

写真の男性がジョシュア氏。


1996年にはグリュー氏はミシガンのオフィスに5人の常勤職員を雇うようになり、1年に200万個以上のペッツを販売し、50万ドル(6000万円)をペッツ容器の購入に費やしました。しかし、事業の規模が大きくなるのに比例して、彼は傲慢になり、マーケットを操作してライバルを締め出すように。夫の様子がおかしいことに気づいたキャシーさんがグリュー氏を病院につれていったところ、双極性障害と診断されましたが、グリュー氏は「まさか!私はやっと自分の情熱の使い道を見つけたんだ」とコメントしたとのこと。

◆「ペッツ・アウトロー」対「Pezident」
グリュー氏のウワサはコレクターの間だけに留まらず、ペッツ本社にまで届くことになります。PezとPresident(社長)を組み合わせた「Pezident」と呼ばれたアメリカPez代表のスコット・マクウィニー氏は工場の規模を2倍にし、24時間操業を始めたとして知られていますが、同時に、彼は従業員が商品を盗んでいると主張したり、コレクターを排除するために工場のゴミ箱の回りにフェンスを建てたりするほど厳しく目を光らせていました。マクウィニー氏にとって、コレクターは売り上げに何のプラスももたらさない邪魔者だったのです。

マクウィニー氏は1996年3月に行われたインタビューで「我々は黒人サンタのペッツを作っていません。そのため、黒人サンタのペッツが出回るというこの状況は、工場外の誰かが関わっているに違いないのです」と語っており、ペッツの容器がヨーロッパの工場から流出していることに気付いていました。また、グリュー氏がエルビスから入手して、アメリカで1個1000ドル(約12万円)で販売していたバブルガムのプロトタイプ容器を、マクウィニー氏は全国で販売することにして、希少価値を減らして高値がつかないようにしました。

by Ani-Bee

そして、ついにマクウィニー氏はヨーロッパの工場へやってきて怒り狂い、正規販売品以外を作れないようにするため、用途を終えた金型は破壊するようにと指示を下しました。それまで我が物顔で工場内を歩いていたグリュー氏でしたが、従業員から「あなたに売れるものはもうない。ここには来ないでくれ」と言われたり、ハンガリーの工場マネージャーからは「ここから出て行き、二度と帰ってこない方がいい」と忠告されたりする状態に陥りました。

◆「ペッツ・アウトロー」の破綻
1997年に、グリュー氏とジョシュア氏の事業は後退し、仲買人としての業務に集中しだします。そして、スペインや南アフリカ、オーストラリアを旅して、これまでに出回ったペッツ容器を収集している途中で「あなたの望むものを何でも作れる」と主張するブローカーに出会います。

「そろそろ合法的手段に移るべきだ」と思ったグリュー氏は、これまでの商売を考えると非常に高コストだったのですが、自分でデザインした奇妙なお菓子容器を作り出します。オレンジ色の雪だるま兵士や奇妙なサンタのギャングなど、多岐に及ぶ容器を作るためグリュー氏は銀行にお金を借り、50万ドル(約6000万円)かけて大量の容器を製造し、1つ25ドル(約3000円)で売り始めました。この時点で、息子のジョシュア氏は事業から完全に手を引きました。


市場に出回り始めた海賊版ペッツ容器は、マクウィニー氏が「あれはニセモノです。我々はゴミみたいな容器を市場に出すことには興味がありませんと」と声明を出していたこともあってまったく売れず、グリュー氏は不良在庫で苦しむことになります。

そしてとうとう、ペッツが「社会に順応できない人の容器」と題して、グリュー氏のデザインした海賊版ペッツ容器をコピーして販売する事態に至ります。グリュー氏は価格を25ドル(約3000円)から15ドル(約1800円)に下げましたが、ペッツは4.95ドル(約600円)で販売したため売り上げが伸びることはなく、事業から手を引いていたジョシュア氏が出てきて従業員を全員解雇し、最後には自らも解雇。ありとあらゆるものを処分し、銀行に家を差し押さえられてなお、グリュー氏は25万ドル(約3000万円)の負債を抱えることに。

◆「ペッツ・アウトロー」の今
養蜂家として生計を立てるジョシュア氏は現在の生活を「元の場所に戻った」と語りました。グリュー氏の妻・キャシーさんは「ペッツが私の人生を破壊することを、もっと知っておくべきでした」と語っていますが、過去の日々を「夫と息子の冒険だった」と認識している様子。

ペッツでは「Pezident」マクウィニー氏が退任。現在のペッツはコレクターに対して敬意を払っており、2011年にビジターセンターをオープンして、毎年多くのお客さんを集めています。一方、現在63歳のグリュー氏は、日々ペッツに対する脅迫をブログに綴って過ごしています。そして秘密の地下室ではケロッグの箱を収集し、「これを手に入れるためには何だってやるよ」と語っていたとのことです。

by sokole oko

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in メモ, Posted by darkhorse_log

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