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Apple創業時のメンバーでジョブズとウォズニアックを引き合わせたビル・フェルナンデス氏が当時を語る

By Fabio Bini

Appleの前身であるApple Computerをスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが創業したことは有名ですが、この二人を引き合わせた人物ビル・フェルナンデス氏についてはあまり知られていません。ウォズの幼なじみにしてジョブズの親友でもあり、二人を引き合わせただけでなく、創業間もないApple Computerで働いたフェルナンデス氏がインタビューで、当時のことを詳細に語っています。

Employee #1: Apple · The Macro
http://themacro.com/articles/2016/07/employee-1-apple/

フェルナンデス:
私が5歳の時に、両親はアメリカのサニーベールに引っ越しました。通りを渡って3軒隣がウォズ(スティーブ・ウォズニアック)の家でした。ウォズの父のジェリーは数学者であり技術者で、まさに天才。ロッキードの秘密のプロジェクトで働いていました。彼には2人の息子と1人の娘がいて、年長の息子がウォズです。

ウォズも私も地元のホームステッド高校に通っていて、彼は私よりも4歳年上だったので、私が入学する1年前に高校を卒業しました。通りを挟んで一緒に育ったので、彼とはよく知った仲でした。ともに電子機器が趣味だったのですぐに仲良くなり、電子工作のプロジェクトを一緒にやりました。ある夏にはテレビの電波妨害をしたり、ガレージでコンピューターをいじったり。これがウォズとのつながりです。


私がクパチーノ中学の7年生か8年生だった頃に、スティーブ・ジョブズが7年生として入ってきました。彼も私もすごく内気で哲学的で、互いに引かれあって、すぐにつるみ始めたのです。

Q:
ジョブズの性格に腹を立てたというような特別な出来事はありますか?

フェルナンデス:
これといっては特に思い出せないですね。中学生のときにはお互いの家によく出入りしていて、私の母は彼のことを5人目の息子のように思っていましたよ。ジョブズが日本の芸術について学んだのは私の家でした。日本式の木目調の柄、すっきりとしたラインなど。これが、彼のデザインへの考え方や好みに大きな影響を与えたのです。

Q:
ジョブズとウォズニアックはどうやって知り合ったのですか?

By mac_filko

フェルナンデス:
私が5歳のときからウォズのことはよく知っています。ジョブズと仲良くなったのは12、3歳のころでしょうか。その後、私とジョブズはホームステッド高校に通うことになりました。私が高校1年生の頃はウォズとプロジェクトをスタートさせていました。

ウォズの家の向かいがテイラーさんの家でした。テイラーさんは電子工作の部品を売る店を運営していましたが、彼は店が終わると電子部品をガレージに移動させていました。そこで私は「テイラーさん、トランジスタとキャパシタが必要なんです」と言っては、テイラーさんの手伝いをしていました。

ある日、ジョブズが自転車でやってきて二人乗りでテイラーさんの店に行き、欲しかったパーツを手に入れました。その後で通りを渡っていると、ウォズと電子工作仲間が車を洗っていて、そのときにジョブズを彼らに紹介したんです。

Q:
素晴らしい。二人はすぐに友達に?

フェルナンデス:
電光石火という訳ではありませんがね。ご承知の通り彼らは意気投合して、一緒にプロジェクトを始めました。ウォズがパンクが好きなことが分かって、ジョブズも反体制的な考えをしていました。彼らが最初に一緒になって取り組んだのは、"中指を立てる"ようなことですよ(笑) 巨大なポスターを学校の屋根に掲げたりね。

Q:
ウォズは4歳年上なんですよね?彼はそのとき何をしていたのですか?

フェルナンデス:
たしか、彼はコロラド州に行って、追い出されたはずです。その後、しばらくの間はコンピューターを時間貸しする会社で働いていました。それから、カリフォルニア大学バークレー校に行って、その後は有名なブルーボックス(電話を無料でかけるガジェット)の時代です。

Q:
あなたはそのころ何をしていたのですか?

フェルナンデス:
高校を卒業してSiliconix社、その後でAntex社で働いていました。それから大学に行って、HPで働きましたが3年で辞めました。

Q:
HPでは何を?

フェルナンデス:
HPの電子工学研究所の電子技術者をしていました。そこは電子計算機を担当する部署でした。「HP-35」という395ドルの端末が、私が高校生のころ大ヒットしていました。巨大な端末でしたがバッテリー駆動で携帯できたのです。ちょうどそのころ、ウォズがHPでエンジニアとして働き出しました。大学のころウォズから電話があり、HPのサマージョブ(インターンシップ)に参加しないかというのです。夏の間、HPで働き、そのまま3年間、HPで働いたというわけです。ウォズも私も電子計算機を開発していました。

Q:
ウォズとジョブズはどの時点で一緒になり、Appleを始めることに決めたのですか?

フェルナンデス:
HP時代は私はウォズと一緒にいました。ウォズは勤務時間が終わった後で、ゲームの「Pong」を開発していました。ピザ屋やレストランなどで大人気だったPongを、ウォズはTVに映し出す回路を設計していたのです。

その後、ウォズは自分用のコンピューターを作り始めて、スタンフォード大学のLinear Accelerator Center(SLAC)のコンピュータークラブにも参加し出しました。いくつもの事が同時に起きていて、彼は自作のコンピューターを会合で見せびらかしていました。ある時点で、ジョブズもこのコンピューターに興味を見せるようになりました。ジョブズとウォズが自作のコンピューターについて語り合ったかどうかは知りませんが、ジョブズが常々言っていたのは「僕らはプリント基板の電子回路を作って、コンピューターのパーツを組み上げて自分のコンピューターを手に入れられない人たちに完成品として売ろうと思うんだ。コンピューター好きの人たちがどれほど結びついているかを証明してみせる。僕らは彼らのためにやりたいんだ」という内容でした。これがApple Computerの始まりです。

Q:
彼らはどの時点であなたをApple Computerに誘ったのですか?

フェルナンデス:
彼らが会社を設立してすぐです。1976年か1977年でしょうか。会社を設立して従業員が必要になりました。「HPを辞めてジョブズの自宅のガレージで働かないか?」と聞いてきました。

Q:
HPとAppleの賃金を比較するとどうでしたか?

フェルナンデス:
仮にお金がもらえなかったとしても十分だと考えました。はっきりと思い出せないのですが、十分な額をもらっていた思います。問題はHPが特別な電機会社だということ。巨大な上に素晴らしい会社で、給料もよく、何よりとても安定した会社でした。けれども、私はAppleの仕事をとても面白いと思い、当時、実家に住んでいて自動車も手放していたこともあり、金銭面で自由がきく状態でした。仮に失敗しても、別の仕事を探せば大丈夫だと考えたのです。

Q:
そのとき、何歳ですか?

フェルナンデス:
たしか22歳です。

Q:
なるほど。それであなたは「OK」と言ったと。当時のテクノロジー系のスタートアップについて、世間の人はどのように考えていたのですか?なぜ、あなたはAppleに飛び込もうと思ったのですか?

フェルナンデス:
当時は何はさておき「ハードウェア」の時代です。基本的にはソフトウェアのスタートアップはありません。「シリコンバレー」と呼ばれるようになったのも、ハードウェアのスタートアップや部品を売る小さなショップがたくさんあったからです。

もちろんHPのような技術者をたくさん抱えるような巨大な企業もありました。そして、HPのような大企業から独立して新しいビジネスを起こすたくさんの人がいました。その動きは1940年代、1950年代からあり、Appleの創業は1970年代です。つまり少なくとも30年以上は、ハードウェアビジネスが作り続けられたということです。そんな環境の中、ウォズもジョブズも私も育ったのです。

Q:
環境があなたの感性を育んだと。ジョブズやウォズがあなたに「よし、彼らと働こう」と思わせたような、特別なものはありますか?

フェルナンデス:
長い間、ウォズやジョブズと一緒にいろいろなプロジェクトをしていました。彼らは私にとって最も親しい友人であり、幼なじみです。そして、私の親友たちはとても偉大な仕事をやろうとしていました。自分たちの手でコンピューターを組み上げるという素晴らしい機会は、まさに偉大なものでした。

By Fabio Bini

Q:
Appleに入って最初にした仕事は何ですか?

フェルナンデス:
私の肩書きは「電子技術者」でした。肩書きの本来の意味は、知的で有能な人を表しています。ところが私が実際にしていたのは雑用でした。ジョブズには常々、パーツを片付けたり届けたりという指令を与えられました。

Q:
そんな雑用の仕事はどれくらいで終わったのですか?

フェルナンデス:
私たちはガレージで働き出して、その後に最初の建物に移りました。住所は確か「20863 Stevens Creek Boulevard Suite, B3」だったはず。

Q:
すごい記憶力ですね。

フェルナンデス:
ちょうどGood Earthレストランの1号店の隣です。いつもそこで食べていました。

すぐに会社が手狭になって、2番目の引越をしました。2ブロック先のBandley Driveにある建物を借りました。数年かけて、だんだん会社が大きくなって、Bandley Driveに8つの建物を借りるようになりました。けれどもそのころでもウォズとジョブズと私はガレージにいました。ウォズはいまだにアパート住まいで、HPでの仕事を続けていました。彼はHPを辞めたくなかったのです。

Q:
知りませんでした。

フェルナンデス:
最終的に、マイク・マークラが「ウォズ。あなたはHPを辞めて、Appleでフルタイムで働かなければいけない。私たちは投資をしている。私もお金をつぎ込んでいるし、あなたもそうするべきだ」と説得しました。

Q:
そのような状態はどれくらい続いたのですか?

フェルナンデス:
だいたい1年半です。小さなオフィスに移ってからはより真剣になり、秘書や会計士、技術者、工業デザイナー、製造業の技術者も雇いました。ちょうどそのころAtariからロッド・ホルトを引き抜き、彼がApple IIの素晴らしい電源を設計したのです。

たった1年半でAppleはあらゆる面で成長し、多様化しました。多くのビルを持ち、多くの部署を持ち、多くの従業員がいて、国際色も豊かになりました。けれども私の仕事はほとんど変わらず、すこし飽き飽きしてきたのです。

Q:
Appleを辞めてから、日本にも行き、その後再びAppleに復帰しました。

フェルナンデス:
Appleは大きく変わっていました。本当に別の会社になっていました。私は職を探していて、ジョブズは私をMacチームに入れました。すぐにMacチームがとてもクールな集団だと分かりました。

Q:
1990年代までMacチームにいましたね。

フェルナンデス:
Appleに戻ったのが1981年で、1994年までいました。以前とは異なりUIデザインの仕事を担当し、とても面白いことが分かりました。1990年代にはUIデザインの仕事はとても新しい仕事のように思えます。今でもMac OSのファインダーに残っているUIデザインは私が当時、担当したものです。

Q:
Appleに戻った頃を振り返ってどう感じますか?

フェルナンデス:
とても複雑な出来事でしたが、基本的に「良かった」と思います。

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in メモ,   ハードウェア, Posted by darkhorse_log

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