アニメ

ピクサーはいかにして「最悪のハードウェア会社」から「世界最高のアニメ映画会社」になったのか、創立秘話を共同創立者のアルヴィ・レイ・スミスが語る


スター・ウォーズ」などを手がけた映像製作会社のルーカスフィルムから独立したピクサー・アニメーション・スタジオは、「トイ・ストーリー」や「カーズ」などの人気アニメーション映画を多数制作しましたが、実は創立当初のピクサーはアニメ映画会社ではなく、ほとんど売れないハードウェアを開発する企業でした。ムーアの法則を信じて開発を続けたピクサーが、どのようにして生まれたのか、いかにして世界的なアニメ映画会社に成長したのかについて、ピクサーの共同創立者であるアルヴィ・レイ・スミス氏が明かしています。

The Real Story of Pixar - IEEE Spectrum
https://spectrum.ieee.org/the-real-story-of-pixar

◆全ての始まり
ヒューレット・パッカードがガレージで創業し、Facebookが大学寮から始まったように、技術系の企業は企業となる前に物語がスタートすることがよくありますが、ピクサーの「始まり」も、ルーカスフィルムから独立する前の段階にあります。

スミス氏によると、当時、一部のコンピューターグラフィックスの研究者らの間で、テクノロジーを使って新しい芸術の形である「デジタルアニメ映画」を作れると見方が生まれており、スミス氏らも膨大な計算能力を使って映画を作り出すことについての議論をしていたとのこと。1970年代半ばにおいて、このような計算能力は高コストでしたが、ムーアの法則を考えると、10年以内に計算に必要なコストは大幅に下がると考えられました。そこでコストが下がるまでの間、スミス氏は映画制作を可能にするソフトウェア開発に集中しました。

当時、アニメーション映画に手描きの絵を組み込むことはできませんでしたが、それを可能にするツールが少しずつ現れてきていました。最初に登場したのはコンピューターで2Dの画像を作成できるソフトウェア。次に登場したのは仮想3Dオブジェクトを作成できるソフトウェアです。そして、スミス氏らはこれらのオブジェクトを移動したり、レンダリングしたり、シェーディングしたりする方法を学びました。


この方法はスミス氏らの間で徐々に定着し始めたとのこと。1975年、ニューヨーク工科大学がユタ大学で3Dの幾何学的オブジェクトを構築するソフトウェアの開発に携わっていたエドウィン・キャットマル氏とマルコム・ブランチャード氏を雇い、その後すぐパロアルト研究所でペイントのソフトウェアを開発していたスミス氏とデビッド・ディフランチェスコ氏を加えました。そして、スミス氏ら4人は従来のセルアニメーションをコンピューターに組み込むという仕事を始めることになります。

セルアニメーションという手法は1915年に開発されましたが、アニメーションの作成に多くの才能と非常に長い時間を要するものでした。スミス氏らは、このセルアニメーションの作業がコンピューターにより簡単に行えると考え、4年かけて技術を開発。最終的に十数人が集まったスミス氏らのグループは、1979年に22分の短編アニメーション「Measure for Measure(尺には尺を)」を作成しました。しかし、それは映画と呼ぶにはほど遠く、短すぎるだけでなく、セルの多くはまだ手描きでした。

以下の動画は1979年にスミス氏らによって作成されたアニメーション「Sunstone」です。

Sunstone (1979) - YouTube


◆「ソフトウェア開発者集団」がルーカスフィルムへ
1980年、最初にソフトウェア開発に携わったスミス氏・キャットマル氏・ブランチャード氏・ディフランチェスコ氏の4人がルーカスフィルムに雇われ、ルーカスフィルムにはこの4人が属する「コンピューター部門」が新設されました。スミス氏らはここで編集や音響、特殊効果、そしてスミス氏が「これら3つと同じくらい難しい」と話す会計の仕事も行っていたとのこと。また、コンピューター部門を率いたキャットマル氏は、スミス氏を特殊効果を担当する「コンピューターグラフィックスグループ」の長に据えました。

スミス氏はルーカスフィルムで「コンピューターで生成された3D映画」を作るために必要なソフトウェアの開発を続け、特殊なハードウェア「ピクサー・イメージ・コンピュータ」を設計しました。このコンピューターは一般使用を目的とする従来のコンピューターの4倍の速度で計算可能な代物でした。

by Pargon

このピクサー・イメージ・コンピュータを使ってスミス氏らが初めて完全にコンピューターで作成したアニメーションは、1982年の映画「スタートレックII カーンの逆襲」に登場します。1分間の映像で、裸の惑星が燃え、溶け、山と海と森が形成される様子を映し出したものでした。この次にスミス氏らが作成したアニメーションは「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還」の、デス・スターのホログラムのシーンで用いられました。これら数分足らずのアニメーションは「アニメーション映画」にはまだまだ及ばないものでしたが、スミス氏らはムーアの法則を信じ、数年もすればアニメーション映画を実現できるだろうと考えていました。スミス氏らのコンピューター部門は40人のグループにまで成長しましたが、一方で「業績が芳しくない」とも評価されていました。

◆ルーカスフィルムの経営難で開発グループが危機に
そんな中、1983年にルーカスフィルムの社長であったジョージ・ルーカス氏が離婚。ルーカス氏が居住しているカリフォルニア州はコミュニティ・プロパティ制度を導入している州のため、ルーカス氏は一夜にして財産の半分を失うことになりました。この影響で、コンピューター部門は後にルーカスアーツとなるゲームプロジェクトを残してすべて売却される運びとなり、1985年にはスミス氏らのグループだけが残るという結果となりました。

スミス氏はキャットマル氏のオフィスに足を踏み入れ、「私たちはいずれ解雇されるよ、エド。ジョージは決して私たちのことを理解しないし、ジョージにはもはや私たちを養うだけの余裕がない。世界に通用する私たちのグループをみすみす解散させるのは罪だよ。チームを養うためにも、会社を作ろう」と話しました。

しかし、上記の発言について、スミス氏は当時を振り返り「これは2人のコンピューターオタクの世迷い言であり、中間管理職が持ち得る以上の知識とセンスは持ち合わせていなかった」と語っています。その後スミス氏とキャットマル氏は、起業についての本を1人2冊ずつ買って勉強を始めました。


◆独立、そしてソフトウェア開発集団が「最悪のハードウェア会社」に
スミス氏とキャットマル氏はどちらも、コンピューターグラフィックスで映画専門の独立会社を作ることは不可能だと理解しており、ソフトウェア会社であっても、広告制作会社であっても、40人を食べさせていけるだけの利益は生み出さないだろうと確信していました。そのため、スミス氏らが選んだ路線は「ハードウェア」でした。

幸いなことに、スミス氏らにはピクサー・イメージ・コンピュータがあったため、スミス氏とキャットマル氏はこれを「ピクセル用スーパーコンピューター」として製造・販売する事業計画を作成しました。その裏で、専門家たちの小さなチームを5年かけて育て、アニメーション映画を作成するつもりだったとスミス氏は語っています。

まず最初にスミス氏らは残り38人のメンバーに対し、「職務内容に関係なく、全員が会社を所有すること」を強調し、事業計画を説明しました。それから、スミス氏とキャットマル氏は資金調達を開始。スミス氏らは始めにベンチャーキャピタルにアプローチをかけてみたのですがうまくいかず、代わりに大企業との戦略的パートナーシップを結ぶという方針に切り替えました。スミス氏らが真剣に話し合った10社のうち、8社には断られてしまったとのことですが、残りの2社、ゼネラルモーターズフィリップスとは共同契約の締結直前までこぎつけました。

スミス氏らの呼びかけに応じたのは、ゼネラルモーターズに合併されたElectronic Data Systemsの創立者で、ゼネラルモーターズの経営陣にも名を連ねていたロス・ペロー氏です。ゼネラルモーターズはスミス氏らの技術を工業用粘土で作るクレイモデリングに代わる、新車設計のための新たな技術として目をつけていました。また、ゼネラルモーターズと提携して資金調達の負担を分担することになっていたフィリップスは、CATスキャンにより人間の内部の3D構造を作成するレンダリングテクノロジーに興味を持っていました。

by J Jakobson

スミス氏らは1985年11月7日付けでゼネラルモーターズとフィリップスとの同意書に署名しましたが、その契約が最終的に締結されることはありませんでした。なぜならば、ペロー氏が署名の3日前にゼネラルモーターズとヒューズ・ツール・カンパニーとの多額の取引についてゼネラルモーターズの取締役会を批判しており、ウォール・ストリート・ジャーナルがすぐさまこれを報じたことで、ペロー氏らはゼネラルモーターズでの立場を失っていたためでした。2社との契約はスミス氏らの最後の頼みの綱だったため、スミス氏とキャットマル氏は冷静さを失ったとのことですが、スミス氏は「カリフォルニアへ帰る飛行機の中で天啓を得た」と語ります。それはApple創設者の1人であるスティーブ・ジョブズ氏の存在でした。

by Andrea Fistetto

◆◆スティーブ・ジョブズとの出会いと「ピクサー」としての活動
署名の3カ月前の8月4日、スミス氏と財務担当のアジット・ギル氏は、Appleから追放されたばかりのジョブズ氏にカリフォルニア州ウッドサイドの邸宅に招かれ、買収の相談を受けていました。スミス氏らは「自分たちで会社を経営したいので買収は断り、ベンチャー投資として契約するのであれば同意する」と話し、ジョブズ氏も賛同してくれていたとのことですが、契約金の額がゼネラルモーターズとフィリップスの約3分の1であったため、スミス氏らはあまりジョブズ氏との契約を重視していなかったのです。

ゼネラルモーターズとフィリップスとの契約が破綻したため、スミス氏とキャットマル氏がジョブズ氏に連絡して契約を依頼したところ、これが実現に至りました。ジョブズ氏はピクサーに資金提供を行い、ジョブズ氏は資本の70%を取得し、スミス氏ら従業員が残りの30%を取得しました。そして、スミス氏らはジョブズ氏から受け取った小切手でピクサー・イメージ・コンピュータなどの権利をルーカスフィルムから購入。そして1986年2月3日、カリフォルニア州サンラフェルでピクサーが正式に誕生しました。

その後、ピクサーはアカデミー賞にノミネートされた「ルクソーJr.」(1986)や、「レッズ・ドリーム」(1987)、アカデミー賞を受賞した「ティン・トイ」(1988)、「ニックナック」(1989)という4つの作品を作りました。スミス氏はこれらを「輝かしい4つの宝石」と呼び、「私たちにとって厳しいものとなった数年間の支えとなりました」と語ります。

「ルクソーJr.」「レッズ・ドリーム」はYouTubeで視聴可能。以下が「ルクソーJr.」で……

Pixar Animation- Luxo Jr. - YouTube


以下が「レッズ・ドリーム」です。

03 Pixar Red's Dream 1987 - YouTube


これらのアニメーションには、ところどころにピクサーの基盤となるテクノロジーの向上が見られます。例えばルクソーJr.は複数の光源からの影を付けた最初の関節物体であり、レッズ・ドリームの背景として登場する自転車店は、ピクサー・イメージ・コンピュータによって作られた、当時最も複雑にレンダリングされた映像でした。

スミス氏が「5番目の宝石」と呼ぶものは、スミス氏らがニューヨーク工科大学でセルアニメーションに取り組んだ経験に基づき、後にディズニーのために作成したソフトウェア「CAPS(Computer Animation Production System)」です。このソフトウェアの制作でディズニーとの関係が深まり、その後数年間で発表された合計18本のすべてのディスニー長編映画は、ディズニーの人々によって作られた複雑な製造プロセスと、ピクサー・イメージ・コンピュータ、およびCAPSが使用されることになりました。1989年公開の「リトル・マーメイド」はCAPSを使用した最初の作品であり、1990年公開の「ビアンカの大冒険」は、初めて全編にわたりCAPSを使用した作品です。

6番目の宝石は「RenderMan」です。RenderManはピクサーの従業員がユタ大学で培ったシェーディング技術から、シェーディング言語を一般化してレンダリングを容易にするソフトウェア群として開発し、アニメーションのピクセル生成などを行っていました。

しかし、スミス氏いわく「ピクサーは依然としてお粗末なハードウェア企業」であったとのこと。スミス氏らは創立1年目に何度か失敗を経験し、資金を使い果たして従業員に賃金を支払うことができなくなってしまいました。もし資金提供を行った人物がジョブズ氏以外であったならば、スミス氏らは身動きが取れなくなっていたとのこと。失敗のたびにジョブズ氏はスミス氏らをとがめ、そのたびに小切手を切りました。ジョブズ氏はピクサーに何度も貸し付けを行い、最終的に財産の半分をピクサーに注ぎました。1991年3月6日、ジョブズ氏はピクサーを完全に買収しました。

by Gary King

それでもなお、ピクサーは深刻な財政難に陥っていました。スミス氏らはテレビコマーシャル作成などの様々な方法で収益を上げようと試みましたが、いずれも経営をまかなえるほどではありませんでした。ジョブズ氏は自身が立ち上げたコンピューター企業のNeXTとピクサーを合併することも考えたとのことですが、NeXTの共同創立者が合併を望んでいませんでした。

しかし、スミス氏らはついにムーアの法則により転機を迎えます。コンピューターの価格が下がり続けたことで、待ち望んでいた映画が経済的に実現可能になりました。スミス氏らは映画作成に向けて動き出し、キャットマル氏は1991年7月にディズニーとの映画契約を結びました。スミス氏らにとって、1970年代からの夢であり目標でもあった映画がついに実現する時がきたのです。

なお、この頃ジョブズ氏とスミス氏の間に確執が生まれ、スミス氏はピクサーを去らなければなりませんでした。ジョブズ氏がスミス氏に口撃を加えたという「ホワイトボード事件」の詳細は、ウォルター・アイザックソンの著書「スティーブ・ジョブズ」で説明されているとのこと。

1991年から4年かけてピクサーはトイ・ストーリーを完成させ、1995年に初公開しました。トイストーリーは封切り直後から大成功を収め、批評家にも熱く受け止められました。

当時のピクサーは故障したハードウェアの一部を売り払って得たお金以外、ほとんど資金を持っていなかったとのことですが、それでもジョブズ氏は1995年11月29日に株式を公開。その後2006年、ディズニーがピクサーを買収しました。スミス氏は1970年代当時を振り返り、「私たちの最初の状況から考えると、これは驚くべきことです」と語ります。

ピクサーはその後、「バグズ・ライフ」や「モンスターズ・インク」など、記事作成時点で24作品のアニメーション映画を作成しました。

この記事のタイトルとURLをコピーする

・関連記事
ピクサーとディズニーの社長が1972年に作成した世界初の貴重な3Dレンダリングムービー - GIGAZINE

トイ・ストーリーのCG生成に使われたマシンはiPhone6の半分程度の性能 - GIGAZINE

ピクサーの作品に秘められた物語を書くための22の法則 - GIGAZINE

無料でピクサーのストーリーテリング技術を学べる「The Art of Storytelling」が公開に - GIGAZINE

in 動画,   映画,   アニメ,   アート, Posted by log1p_kr

You can read the machine translated English article here.