ハードウェア

世界初の磁気ディスク式記憶装置(ハードディスク)「RAMAC」がIBMで誕生するまでの物語


データを記憶させる装置(ストレージ)は磁気ディスク式のHDDからフラッシュメモリを使ったSSDへと主役の座が移りつつありますが、磁気ディスク式記憶装置は第二次世界大戦直後から半世紀以上にわたってストレージデバイスの最前線で活躍してきました。コンピューターの大幅な進化を支える重要な役割を果たしてた磁気ディスク式記憶装置は、IBMからどのようにして誕生したのかの物語がEngineering and Technology History Wiki(ETHW)で明かされています。

Creating Magnetic Disk Storage at IBM - ETHW
http://ethw.org/Creating_Magnetic_Disk_Storage_at_IBM

1945年に第二次世界大戦が終わると、IBMにとって軍需産業に依存していたビジネスモデルからの転換が急務となりました。当時のIBMの社長であるトーマス・ワトソン・シニアは、陸軍から復帰した息子のワトソン・ジュニアをIBMに復職させるために、ペンシルバニア大学のムーア校を見学させました。そこで、後に「ENIAC」として知られることになる、部屋一面をうめつくすほどのスペースを必要とする巨大な計算機を見たワトソン・ジュニアは、ENIACが1万8000本の真空管を持ち、燃えてしまった真空管を毎日のように取り換えざるをえない様子を見て「これは売り物にならない」と感じたそうです。

ペンシルバニア大学の見学から戻ってきたワトソン・ジュニアは、数週間後に父が経営するIBMの開発するコンピューターに関する極秘プロジェクトについて明かされます。後に「IBM 603」として発表されることになるこのコンピューターは、第二次世界大戦前から開発がスタートしていたものの、商品化の見込みが立っていない状態でした。しかし、そのデキに感動したワトソン・ジュニアは、父に対して「たとえごくわずかしか生産できないとしても、『世界初の商用電子計算機』という触れ込みで公表すべき」と強く訴えたところ、父は提案を受け入れ、「では、君がやりなさい」と、ワトソン・ジュニアを責任者に据えることで、まんまとワトソン・ジュニアのIBM復帰を成功させました。


そして、ワトソン・ジュニアがIBMに復帰した1947年にIBM 603は発表され、それから2年後にはより高速で汎用性の高い「IBM 604」へと進化しました。


1951年にアメリカ国税調査局が大統領選の開票予測用コンピューターを導入するためにUNIVACと契約した時に、電子計算とデータ処理分野におけるIBMの第一人者としての立場が大きく揺れ動きます。UNIVACは当時の記録装置として一般的だったパンチカードを金属製の磁気テープに置き換えていましたが、パンチカードに対する磁気テープの優位性は明らかで、IBMのパンチカード装置がすべて置き換えられるのではないかと、IBM社内に激震が走ったそうです。Eckert-Mauchly Computer CorporationEngineering Research Associatesも磁気テープ式に乗り換えたことで、ワトソン・ジュニアは、パンチカードの終焉を再確認するとともに、これに変わる新しい装置の開発の必要性を強く感じます。


ワトソン・ジュニアは1950年当時1000人未満だった研究部門の従業員数を1955年までに4000人以上にするよう、社長であるワトソン・シニアを説得しました。しかし、当時、優秀な技術者・研究者はアメリカ西海岸に多く、IBMが本社を構える東海岸のニューヨークに引っ越してくることに消極的で、優秀な技術者の獲得に苦労したとのこと。そこで、ワトソン・ジュニアは西海岸で技術者を獲得するために、カリフォルニア州・サンノゼに研究所を開設。1934年にワトソン・シニアに引き抜かれたレイノルズ・ジョンソンをトップに任命しました。


IBMのサンノゼ研究所の建物は5年間のリース契約が交わされ、ジョンソンはエレクトロニクスのバックグラウンドを持つ技術者に限定した上で、どの企業の研究開発部門よりも良い条件を提供し、積極的に求人広告を出しました。その結果、海軍のレーダー技術者として働いた経験を持つルイス・スティーブンスの獲得に成功。夏に30人だった技術者の数は年末には60人に倍増したそうです。IBMサンノゼ研究所開設後、数カ月間の主要なタスクは、新入社員のための優れた研究プロジェクトを決定することだったとのこと。


ジョンソンはパンチカードに変わる記憶装置の開発責任者に任命されるとIBMポキプシー研究所のラルフ・パーマーの採用していたオープンな開発環境を参考に、技術者同士が垣根なく議論し助け合う環境の整備に着手。各エンジニアは自分が割り当てられた作業以上に他の研究者を助けることが求められ、なんと「研究所の他のエンジニアを助けること」が最優先課題に掲げられたそうです。この方針は、協調的な研究環境を作り出すだけでなく、各研究者が他人から刺激を受けることができる結果、急速な技術開発を生み出すことにつながりました。

1952年にIBMに加わったアーサー・クリッチロウは、パンチカードがバッチ処理でデータを順次処理する場合に非常に高い性能を発揮する反面、ランダムなデータアクセスになると極めて速度が遅くなるという深刻な問題を抱えていることを問題視していました。IBMの研究者の間で、ランダムアクセス性能を高めるために磁気ディスク方式が優れているという点についてはコンセンサスがあったものの、コンピューター業界において前例のない製品を開発することの難しさをよく知るIBMエンジニアたちは、開発に及び腰だったとのこと。

そんな中、1952年8月にヤコブ・ラビノーによって磁気ディスク記憶装置に関する初めての研究がコンピューター専門誌に掲載されると、IBMの研究者も本格的に磁気ディスク記憶装置の開発に着手。1953年1月にジェフリー・ホッサムは、ラビノーの磁気ディスクを改良したディスクを設計し、クリッチロウに提出。パンチカードを置き換える装置として提案しました。


ジョンソンが作り上げた風通しの良い開発環境ではホッサムの磁気ディスク記憶装置の仕組みが瞬く間にIBMサンノゼ研究所中に広がり、ホッサム案は多くの支持を取り付けることに成功。それと同時に潜在的な問題とその解決方法が活発に議論されました。そして、問題解決が完全に行われていない状態であったにもかかわらず、ジョンソンは他のあらゆるストレージの選択肢を捨て、開発対象を磁気ディスク方式に一本化するという英断を下しました。この判断は、当時のIBMサンノゼ研究所でも、「その方式を他のライバル企業が開発していないという事実は、問題の大きさを説明する理由になる」という反対意見がありましたが、ジョンソンは決断を下したそうです。

その後、1953年4月にロサンゼルスで開催されたIBMの事業会議に参加したジョンソンは、営業や新製品の担当者に磁気ディスク記憶装置開発の必要性と緊急性を説明し、IBMの役員をも説得。磁気ディスク開発のゴーサインを手土産にIBMサンノゼ研究所に戻ると、研究所のエンジニアから大歓迎を受けたそうです。

磁気ディスク開発がスタートするとジョンソンは、開発責任者にウィリアム・ゴダートを任命し、その右腕にホッサムを指名しました。磁気ディスクはアルミニウム板が採用されましたが、開発当初はあまりに大きなブレが生じるため、厚さや金属表面のなまし方に工夫が重ねられました。


また、回転によってディスクに塗布した鉄酸化物の粒子が飛び散ってしまうという問題が発生し、コーティング技術の改良も重ねられました。そして、回転する磁気ディスクとデータを読み書きする磁気ヘッドの間隔を一定に維持するという最大の問題に直面すると、空気軸受によってこれをクリア。


こうして開発された磁気ディスク記憶装置「RAMAC」は、直径24インチ、厚さ0.1インチのアルミ製ディスクを50枚備えた巨大な装置で、記憶容量は500万文字(5MB)、磁気ディスクの回転数は毎分1200回転、読み書きしたいトラックやセクタにヘッドが移動するのに必要な時間は最大で0.8秒という性能だったとのこと。


1955年1月、スティーブンスはIBMサンノゼ研究所トップのジョンソンにRAMAC試作機が正確に動作したことを報告。その知らせを受けたIBMの経営陣はすぐにRAMACプロジェクトの重要性を認識して、IBM社内および特別な顧客のためにRAMAC14機の製作を指示したそうです。そして、RAMAC改良のためのフィードバックを得る目的で1956年6月にサンプル出荷がついに行われ、世界初の商用HDDがここに誕生しました。

1956年5月に父からIBMのCEOの座を引き継いだワトソン・ジュニアは、1956年9月に「IBM 305 RAMAC」として世界初のHDDを正式に発表。システム処理部分のIBM 305が月額3200ドル(当時のレートで約115万円)、ストレージ部分「IBM 350」が月額650ドル(当時のレートで約23万円)でレンタルされました。RAMACは当時のIBMのコンピューター「IBM 650」の周辺機器として人気を博し、その組み合わせは「IBM 650 RAMAC」と呼ばれたそうです。


1957年にはリースではなく買取型のIBM 305が発売され、1961年の販売終了までに1000台以上のIBM 305が製造されました。


めざましい技術革新が次々と起こるコンピューターテクノロジー分野で50年以上も一線級で通用する磁気ディスク式記憶装置を生み出したIBMですが、IBMは2002年に日立にディスクドライブ部門を売却することで、HDD製造から退いています。

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in ハードウェア, Posted by darkhorse_log

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