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ナチスの猛攻やスターリンによる大粛清を生き延びたユーゴスラビアの指導者とは?


第二次世界大戦時にユーゴスラビア王国の人民解放軍総司令官として活躍し、戦後はユーゴスラビア社会主義連邦の初代首相・終身大統領に就任した政治家がヨシップ・ブロズ・チトーです。そんなチトーがどうやってナチス・ドイツ、そしてソビエト連邦の独裁者だったヨシフ・スターリンの暗殺から生き延びたのかを、歴史に関するニュースサイトであるHistory Collectionが解説しています。

The Yugoslavian Leader Who Survived Waves of Stalin’s Assassins and Hitler’s Best Troops
https://historycollection.com/josip-broz-tito-yugoslavian-leader-survived-waves-stalins-assassins-hitlers-best-troops/

ユーゴスラビアのある東欧では第二次世界大戦以前から、ソビエト連邦共産党の党書記長として実権を握ったスターリンの影響力が強まっていました。特にユーゴスラビア共産党はスターリンから警戒されていたようで、多くの共産党員がスターリンの粛清の的となりました。チトーが国のトップに上り詰めたのは、チトーの友人や仲間が次々とスターリンの送りこんだ暗殺者に殺されてしまったのが一因といわれています。


第二次世界大戦前、チトーがユーゴスラビア共産党の書記としてモスクワに住むことになったとき、チトーを逮捕しようとする者が多く存在しました。しかし、カリスマ性の高かったチトーには味方になってくれる仲間が多く、著名な共産主義者が彼の身元を保証したため、チトーは逮捕や処刑を免れることができました。

第二次世界大戦が勃発すると、チトーはすぐにユーゴスラビアに戻り、亡命政府と共に人民解放軍を組織しました。当時のユーゴスラビアには共産主義を支持する者が多く、「ユーゴスラビアを征服しようとするナチス・ドイツ VS 共産主義の人民解放軍」という図式ができあがりました。チトーはユーゴスラビア共産党から人民解放軍の総司令官に任命され、ナチス・ドイツから逃亡したユダヤ人を援助し、自軍に迎えました。


1944年5月25日、ナチス・ドイツはユーゴスラビアの人民解放軍本部を破壊し、さらにチトーを殺害あるいは捕獲するための作戦「Operation Rösselsprung」を開始しました。この作戦は当時ユーゴスラビアの都市だったドルヴァル周辺を徹底的に爆撃した上で侵攻するというものでした。激しい砲火によりチトーや軍幹部が洞窟に数日間閉じこもることもありましたが、将校の訓練が行われていたドルヴァルは人民解放軍の戦力が豊富で、さらにドイツ軍の補給物資を奪うことで、人民解放軍はナチス・ドイツに対抗しました。

Operation Rösselsprungにおける死傷者はナチス・ドイツ側が約2000人、人民解放軍側が約1000人でした。レジスタンス本部は崩壊し、一部の幹部は戦死しましたが、チトーは無事脱出。人民解放軍の再建に成功し、Operation Rösselsprungは失敗に終わりました。

第二次世界大戦が終わると、チトー率いる人民解放軍は亡命していたユーゴスラビア王政と共に「ユーゴスラビア社会主義連邦」として国を再建。チトーは戦後行われた国民投票で首相に選出されました。この時設立されたユーゴスラビア政府は、同じ社会主義国であるソビエト連邦を参考にしましたが、チトーは一部を改変し、独自の政府体系を作り上げました。さらにアドリア海東岸にあったイタリア領を併合し、ギリシャ内戦でも共産主義側だったギリシャ人民解放軍を支援しました。


しかし、終戦直後のユーゴスラビアの勢いもあり、スターリンはユーゴスラビアとチトーをさらに強く警戒するようになり、第二次世界大戦直後からユーゴスラビア政府にはソビエト連邦のスパイが深く入り込んでいました。スターリンはチトーに対して「ソビエト連邦の支援がなければユーゴスラビアは崩壊するぞ」という手紙を送りましたが、チトーはこの手紙を無視し、ソビエト連邦が主催するコミンフォルムの会議への出席をキャンセルしました。


チトーがコミンフォルムをキャンセルしたことで、ユーゴスラビアはコミンフォルムから追放されました。ユーゴスラビアとコミンフォルムの関係が緊張したものとなり、戦争も起こり得る状態でしたが、事を荒立てずに場を収めたがったスターリンはチトーを暗殺するべく、何人もの刺客をユーゴスラビアに送りこみました。しかし、チトーは秘密警察を総動員し、スターリンの送った暗殺者をすべて逮捕してしまいました。

チトーはスターリンに宛てて「私を暗殺するために人を送りこむのはやめてください。我々はすでに5人の暗殺者を逮捕しました。ある者は爆弾を、ある者はライフルを所有していました。もしあなたが暗殺者を送るのをやめないなら、こちらからモスクワに暗殺者を送ります。2人目を送る必要はないでしょう」という手紙を送りました。「毎日寝る場所を複数用意してランダムに決める」ほど暗殺をとにかく恐れていたスターリンは、チトーが手紙を送ってから暗殺者を送りこむのをやめたそうです。

チトーがスターリンに対して強硬な姿勢を見せていたことから、ユーゴスラビアは社会主義国でありながら、西側諸国との距離を縮めました。そのため、アメリカとソビエト連邦がにらみ合う冷戦下になっても、ユーゴスラビアは東西陣営どちらの国とも良好な関係を築きました。また、冷戦下でも東西のいずれの陣営に参加せず中立すると表明する国を集めて非同盟運動を立ち上げました。


チトーは1974年までユーゴスラビアの首脳として活躍し、その後ほとんどの権限を放棄しましたが、国内外でのユーゴスラビアの外交役を担いました。History Collectionは、「チトーが1980年に亡くなった後、長きにわたる政治的混乱により、1990年代にユーゴスラビアは崩壊しました。そのことで、ユーゴスラビアをまとめるだけでも大変なことであることが証明されました」と述べ、チトーを指導者として高く評価しています。

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in メモ, Posted by log1i_yk

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