樋口真嗣監督が特撮業界に入ったキッカケ・特撮に携わる者としての思いについてインタビュー
樋口真嗣監督というと、平成ガメラシリーズの特撮監督であり、「ローレライ」「日本沈没」「のぼうの城」の監督でもあり、「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公・碇シンジの名前の元ネタでもある人物です。
この樋口監督がCG全盛の今の時代にあえてMADE IN JAPANの特撮にスポットライトを当て、特撮界の職人たちに話を聞き、その腕から生み出された後々に残していくべき作品を放送する、という企画が「特撮国宝」です。7月4日から日本映画専門チャンネルで放送がスタートしますが、それに先駆ける形で、樋口監督が特撮に興味を持ち業界に入るキッカケはなんだったのか、そこからどういう道を歩んできたのか、なぜ今この企画なのかについて、話を伺ってきました。
特撮国宝|7月4日(木)よる11時スタート 3カ月限定企画、企画監修・出演:樋口真嗣|日本映画専門チャンネル
http://www.nihon-eiga.com/osusume/tokuho/
「特撮国宝」は番組自体も特撮っぽい雰囲気にしたいということから、収録を原鉄道模型博物館で実施。
この巨大ジオラマの前で収録が行われました。
◆特撮との出会い
GIGAZINE(以下、G):
樋口さんが特撮業界へ入られたきっかけは1984年公開の映画「ゴジラ」ですが、興味を持たれたのは子どものころに「ゴジラ対ヘドラ」の製作現場の写真を見たからだとお伺いしました。よほど鮮烈に印象に残るものだったのでしょうか。
樋口真嗣監督(以下、樋):
それはもう、すごいですよ!見た当時は幼稚園児でしたが、ただでさえ「怪獣がいる」っていうのがおかしなことなのに、そこに同じ大きさの人間もいるというのがさらにおかしかった。巨大な人間が土足で入り込んで準備とかをしているようにも見えた写真だったので、二重の意味ですごいものを見ちゃったというような印象を持ちました、それまでの価値観が狂うというか……。この体験は、子どものころに見ていて怖かったものが「これは怖くないんだ」っていうことと、「これは誰かが作ってるものなんだ」ということを教えてくれました。よく、そうやって舞台裏を見せるということは夢を壊すんじゃないかと指摘されることがありますが、むしろ、俺はそれで夢が広がったわけです、「これも誰かが作ってるんだ!」と。そのときには、自分でも作れるかなんてことは全く考えてはいなかったですけど。
G:
てっきり、それをきっかけに「自分も同じように作り手になりたい」ということなのかなと。
樋:
いやいや、それは選ばれた人が作るものであると思っていて、まさにその「作っている」という作業を見るのが好きだったみたいなんですね。めちゃくちゃ不純な動機なんですが(笑)
G:
ちなみに、子どものころ、他にはどういったものを見ていましたか?
樋:
特撮モノはだいたい見ていました。ちょうど自分たちが物心ついたのは、ウルトラセブンが終わっていて、怪獣ブームが去った後だったんですね。
細かいことですけど、怪獣ブームは何度か波があって、それこそ「ウルトラQ」「ウルトラマン」があって半年お休みがあり、その円谷プロが休んでいる間に東映の「キャプテンウルトラ」があって、そして再び円谷の「ウルトラセブン」が始まる、というのが3年ぐらいの間に集中しているわけですよ。映画館では「ガメラ」シリーズが始まり、当然「ゴジラ」シリーズもやっているし、それとは別に「サンダ対ガイラ」とかの中途半端にでかい巨人シリーズみたいなのがありました。松竹は「ギララ」というのを作っていて、大映はガメラの他に「大魔神」もあってシリーズ二本立てですから、もういわば「毎日怪獣をやってる」という時期だったんです。
でも、それはいつしか飽きられて、その後に水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」や「河童の三平」などの妖怪ブームというのがあって、だんだん怪獣ブームから妖怪ブームになっていった。怪獣が廃れると同時に「巨人の星」とか「キックの鬼」とかのスポ根ものが流行りだしたこともあって、怪獣は一回終わったかに思われました。そのとき、確かにウルトラシリーズなどいろんなものがパタッとなくなったんですよね。そういう端境期に自分たちは育ったんです。
G:
なるほど……!!
樋:
このころ、ウルトラシリーズの名場面を短く編集して5分間の帯番組にした「ウルトラファイト」というのを、よくないことに放送していたんです。それがすごく強烈に印象に残っています。短く編集してあり、そこに普段はスポーツ中継も担当しているアナウンサーによる、戦いを実況をしているようなノリのナレーションが入っていて、お芝居部分とかドラマといった怪獣とヒーロー以外の要素は一切なし、それだけをずっと毎日やってるわけですよ。例えるなら、カルピスの原液だけをずっと飲まされるみたいな感じです。それがぼくらの世代の脳を根本的に破壊したっていうんですかね……「おかずはご飯と一緒に食べなさい!」って言われてるのにおかずだけ食べちゃうみたいな、お寿司をネタだけはがして食べてるような、そういう状態なわけですよ。
樋:
でも、それが長続きすることもなく、結局ウルトラマンとウルトラセブンのストックがなくなった時点で流すものがなくなってしまいました。次に何をやったかっていうと、その当時はデパートの屋上とかで「アトラクション」と呼ばれる怪獣ショーをやっていたんですが、それ向けに作られた、ちょっとオリジナルとは似ていないアバウトな作りのぬいぐるみを手近な造成地とかに運んでとっくみあわせる、みたいなことをやるんですけど、当然のことながらその怪獣が全然大きく見えない。
G:
ははは。
樋:
大きく見えないけどそれをひたすらやって、でも内容とかも行き詰まってどんどんシュールになっていったんです。それを見て育っちゃったんで、我々の年代は相当ダメなんですよね。
G:
なるほど。でも樋口監督は東宝の撮影所で見学をした経験があるという、同世代の中でも特に熱心な特撮ファンだったようですが。
樋:
原則として、そういう撮影所の見学はできないんですよ。俺は縁があって見学ができたんですが、その時点である意味「選ばれたもの」みたいなところはありました。ただ、楽しそうに聞こえますけど、その当時の日本の特撮は今以上にどん底だったんですよ。なぜかというと、1977年にスター・ウォーズの1作目ができて、「アメリカではこんなのやってるのに日本じゃ何やってんだ」みたいな状態だったからです。日本ではダサいブリキのロケットみたいなのを飛ばしていて「ダセー!」みたいな感じに、あのときは全員がなっていたわけですよ。このころ「日本の特撮の現場が見られる」っていっても、友達を誘っても誰もついてこない。もう、孤立状態ですよね。
樋:
しかも「スター・ウォーズ」はアメリカでの公開が1977年で、日本での公開が1978年。今だったら日米同時公開とかなのにそんなことはなくて、1年という間があったんですよ。その1年の間に「スター・ウォーズっていう、アメリカのすごい映画が来る!」っていうことが日本でもすごく話題になって、いろいろな雑誌に写真だけが出て、みんな妄想を膨らましていたわけですよ。それで日本の映画会社が何をやるかっていうと「じゃあ1年間猶予があるから、その間に俺たちもバッタもん作っちゃえ」みたいな(笑)。東宝が「惑星大戦争」、東映が「宇宙からのメッセージ」と、それぞれ宇宙を舞台にした映画をスター・ウォーズ公開前に作ったんです。それがまた当然、早かろう悪かろうみたいなところもあるんですけれど、俺にはその映画がすごくおもしろかったんですよ!
特に、東映が作った深作欣二監督の「宇宙からのメッセージ」が良かった。宇宙で時代劇やってるような完全にとんちんかんな内容なんですけど、そのとんちんかんぶりがすばらしいんですよ。最初に出てくるのが宇宙パトカーに追われる宇宙暴走族なんです(笑)
G:
なんなんでしょうね、それは(笑)
樋:
宇宙暴走族が「チキン・ランだ!」とか「度胸試しだ!」とか言って大気圏に突入して、地面ぎりぎりで操縦桿を引く、みたいな危険なゲームに興じているんです。あと、宇宙チンピラも出てくる。結局、族車ならぬ族宇宙船の改造費で借金が膨らんじゃって宇宙チンピラに宇宙酒場へ売り飛ばされるような奴が宇宙の危機を救う、というような話なんですが、なんかそれがおもしろかったんですよね。これが中学1年ぐらいのときで、俺がすごい興奮して「宇宙からのメッセージはすげーよ!」とか言うんだけど、周りはみんなスター・ウォーズなわけ(笑)、そりゃそうですよね……。そういうところから徐々に「俺、もしかしたらみんなと違う」「俺だけ違うぞ、これ……」と思うようになったんです。自分の中のモヤモヤしたものっていうのかな、実はその頃から「スター・ウォーズがなんじゃい!」みたいな歪んだナショナリスト意識みたいなのが芽生え始めてました。
G:
中学ぐらいの時期に自分一人だけ違うという感覚を味わうと……
樋:
そう、中二病ですよ、完全に(笑)「俺は選ばれた」とか言ってね。しかも昭和40年生まれなんで、中二の時に最初の機動戦士ガンダムですから。
G:
ピンポイントにズドンと来てますね。
樋:
中二で最初のガンダム、しかもガンダムみんな見てないんですよね。全然人気のない番組で誰も見てなくて、世の中のアニメはみんな松本零士さんの作品だったわけ。まつげの長い「あんな女いねーよ!」みたいな。それで、クラスの中で友だちの少ない我々だけが「ガンダムガンダム」言ってたけど、誰も見向きもしない。「みんなわかってねえ、すげえおもしろいのに」とか言ってるのが中二の頃でしたね。
G:
これはダメな方向にどっぷりと浸かってしまいそう。
樋:
「選ばれてるよ、俺たち」みたいな(笑)
G:
中二でこんな濃厚な体験をしてしまうと、その後が大変そうですね……。
◆東宝での仕事
G:
こういう時代を経て、造形に携わったことから業界に入られたという流れでしょうか。
樋:
最初は造形ではなく火薬だったんですよ。火薬の係があって、爆破とかするの好きだったので。ただ、その親方の車の中でゲロ吐いたってことがあって(笑)、その罪滅ぼしでただ働きを一ヶ月くらいしてたら、ただ働きなのにクビになったんですよ。
G:
クビに!?(笑)
樋:
東映の戦隊モノとかをやってる特撮研究所っていうところがあって、新規採用で大卒の男を二人雇ったという話になり、彼らが研修に来るから「もう高卒はいらねえよ」って言われて、これからは学士様の時代だなと思いました。しかも「九州大学工学部だ」とも言われて。「え!何それ!?超エリートじゃん!国立大、しかも国立一期校、工学部!?もう、負ーけーてーる!」って(笑)※樋口注
樋:
その二人組が来たから火薬のパートを解雇されることになって、その後に行ったのが美術の一番偉い人である美術デザイナーのところだったんです。そこでは美術の助手ではなく、その人の個人的なアシスタントをしました。朝来たらすぐ仕事が出来るように鉛筆を全部削っておくとか、掃除しておくとか、そういうことですね。その人は九州出身で、ものすごい酒飲みなんですよ。朝、机の下に一升瓶があったから俺が片付けてたら「おまえも飲め」みたいな話になって、朝から飲まされたりすることもあった(笑)
G:
朝からですか?(笑)
樋:
えぇ(笑)当然、へろへろに酔っ払ってるわけで、それを会社の偉い人に見つかってそこもクビになったんです。そのころは、たまたま美術の人とセット模型っていうのを作ってたんですよね。でかいセットを作る前には「この広さにこういう配置にしよう」という打ち合わせをするんですが、そのときに建物とかを小さい発泡スチロールを削ったりして作った模型を使って、「ここにこのくらいの高さのものがくるから、ここから撮ろうか」という話をみんなでするわけです。その模型の中で、怪獣がただの板だったんですよ。「板というのはちょっとないんじゃないかな」って思って、俺がありものを使ってゴジラを作って置いといたら「これいいね」みたいな話になったんですよ。最終的に、「ここにいても酔っ払ってばかりいるし、こういうことができるんだったら造形部に行け」って言われて、流れで造形部に行ったのが造形を始めた始まりですね。
G:
そんな経緯があったんですね。
樋:
ほんとにもう落語みたいでした(笑)まぁ、造形といっても粘土で作るとかそういうのじゃなくて、ゴジラのぬいぐるみって人が中に入ることになるので、それを現場で脱がしたり着せたりする係だったんですよ。それで、時々壊れることもあるのでそれを補修するみたいなことを3人ぐらいでやっていて、俺はそれの一番下のアルバイトだったんですよ。
G:
あちこちとお手伝いしている話を伺っていて、だいぶ前から東宝のスタッフみたいな状態だったのかなと思っていました。
樋:
んー、まぁそうですね。でも全くダメで高校も卒業できなくなるかもみたいな感じでした。「このままじゃ卒業できねえぞ!」というのと、「大学受験なんてもう届くか」みたいな、そういう状態でふらふらしてるときにそのゴジラのバイトに入ったんです。
G:
そういう時期だったんですか……すごい出会いですねぇ。
樋:
ここではすごく良かったことがあって、それまでにやっていた仕事は全部撮影前にやる準備パートだったわけですよ。制作進行みたいなことで弁当配ったりお茶作ったりとか、ステージの前で掃除したり、そういう身の回りの雑多なことをやったりしていたわけですけど、ゴジラの係になったおかげで撮影の現場の真ん中にいられた。ゴジラを撮る映画だから、絶えずゴジラ中心に現場が動いていくんですよ。「次のカット、ゴジラこの辺から行きます」となると「樋口、持ってこーい!」と声をかけられて、俺が「へーい」っていいながらゴジラを運んできて立たせて。テストだと脱いだり着けたりするのでそばにいなきゃいけないので、どうやって映画の準備が進んでいくのか、あるいはテストして監督が近づいてきてああしてこうしてと指示を出して良くなっていく過程とか、そういうものが目の前で見られたんですよ。「あぁ、こうやって映画って作られるんだ」ということを体験できたのはすごいラッキーだったなと思うんですよね。
G:
生きた教材というか、そのものズバリの現場ですもんね。
樋:
えぇ。現場にいても、よほどの用事がない限り他の人達はステージの中に入れないわけですよ。でも俺の用事はステージの真ん中なんですよ。だから本番直前までぎりぎりそこにいなきゃいけない。
G:
そのときの経験はその後の仕事に生きたのではないでしょうか。
樋:
そうですね。でもその後、ゴジラが終わったあとにまたちょっと冬の時代というか、東宝で特撮映画が作られなくなってしまいまして、映像の仕事じゃなくて美術館とか博物館の仕事をするようになりました。佐渡の金山に「金山博物館」があって、そこの展示物で、労働者が金を掘っているという動く人形をずっと作ってたんですよ。
G:
えぇっ!?
樋:
作ってるっていっても、鉄骨を溶接してそこに粘土を盛って作るものなので、それの骨組みだけを作る仕事です。全部粘土でやっちゃうと自重に耐えられなくなって崩れちゃうので、そうならないように中に鉄骨をつくるんですよ。その骨を作って白縄でグルグル巻きにしてという作業を、手とかボロボロになりながらやって……マッチョなおっさんの尻に粘土を盛りつけながら「いったい俺は何をしてるんだ」と。
G:
(笑)
◆庵野秀明との出会い
樋:
そのころ、大阪で自主映画を作っているという人たちと知り合いだったんですが、その中に監督をやってなおかつ主演までやっていた男が居て、「今、大阪でやってるから遊びに来ない?」みたいなことを言われたんです。明らかに社交辞令なんですけど、それを鵜呑みにして押しかけました。その男は東京でアニメーションの仕事をしていて「もうじき仕事が終わるから、そしたら大阪に行こう」ということで行ったのに終わってなくて、結局そのまま江古田のアパートに4日くらい寝泊まりしてから大阪に行ったんですよ。
大阪に行くのにしてもお金がないので、今で言うところのムーンライトながら、つまり夜行の鈍行があったんですけど、鈍行の「23時25分大垣行き」ってやつが来て、それに乗って大垣まで行って、今度は大垣から西明石行きの快速に乗り換えて、しかも混んでいて座れないからその横の戸袋みたいなところで寝てました。まぁそのときに一緒にいたのが男というのが庵野秀明さんなんですけど(笑)
樋:
向こうに行って、プロの仕事もすごい魅力的だったんですけど、「自主映画で自由に作ってる」っていうのもまたすごくうらやましかったんですよね。うらやましいんだけど、彼らにもちゃんとできてないところ、プロの現場で何ヶ月かやってるとこうすればうまくいくのに……みたいなことがあるわけですよ、そりゃ素人だから素人ならではの自由さとつたなさが同居してた。だから、俺が「ここをこうした方がもっとよくなるよ」みたいなことを言ったりして。しかも、そのときの俺の触れ込みは「東京からプロの人が来た」なんですよ。
G:
おお、なんだかすごい人が。
樋:
嘘ではないんだけれど、しかも年齢も誰も聞いてこないから言わずにいたら、当時18歳なんですけど「プロの人」だからなのかもっと年上に見られてて、みんな「さん」付けで俺を呼び、しかもちょっとしたアドバイスでみんな見ちがえるように良くなっていって「すげー!」と、尊敬のされ方がすごかったんですよね。なんかバグズ・ライフみたいで、サーカス団なのに「勇者だ!」みたいな扱いを受けながらやってました。でも結果はちゃんと出してたので、そこからなんとなく自信もついてきて、そのまま1年半くらいそこに居座っちゃって。
G:
ふむふむ。
樋:
長く居るといいことばっかりではなくて、アルバイトで稼いだ金がどんどんなくなっていって、いつしかお金の無心をするようになり、積もり積もった借金は40万円くらいに。そうすると自主映画グループの経営者である岡田斗司夫さんに呼ばれて「シンちゃん、次、何やるん?これ終わったらどうすんの?」みたいな話をされ、そこで「実は今、東京でアニメの仕事のスタジオを作ってる。バンダイからお金が出る。ひいては、君らに東京に来て助監督としてその映画のプロダクションに参加してほしいんだよ」って言われたんです。「アニメかよ……俺、全然アニメ知らねえぞ……ガンダムしか知らねえし」みたいな状態ですよ。その場では「そんなんじゃない!もっと理想は高いんだ!」みたいなことを言ったんだけど、そのとき「借金をチャラにしてやる」っていう殺し文句を言われて……。
G:
これは魅力的だ……。
樋:
うん、ほんとナニワ金融道かウシジマくんみたいな(笑)確かに、今作っている自主映画が完成したらその映画に関わってるみんな東京に出ちゃうから大阪にいても意味がない。じゃあしょうがないしっていうか、そのまま流されるがままに東京に戻ってアニメーションの仕事をしました。
G:
なるほど、これが助監督を務めた「王立宇宙軍 オネアミスの翼」に繋がるんですね。
◆企画「特撮国宝」
G:
……と、樋口さんの半生語り第一部みたいな感じになりましたが(笑)、選ばれた“特撮チルドレン”である樋口さんが今回、後世に残すべき特撮作品を放送し、特撮界の職人に迫る「特撮国宝」という企画のMCを務められているわけですが、7月4日に放送される第1回分の収録では鯨井実さんから「特撮は樋口さんが支えていかないと」というお話も出ました。
樋:
えぇ、怒られましたね(笑)
G:
樋口さんは庵野秀明監督とともに「特撮が死にそうです」というレポートを出したことが5月に話題になりました。特撮への思い、そして、今後特撮を支えていく当事者としての意気込みなど、ありますでしょうか。
樋:
そうですね……これは二つあるんですよ。これから新しい特撮が作られていくかどうかということと、今まで作られたものをどう残すかということです。
樋:
結局、残るものって限られているんですよ。有名なものだったり、お金になりそうなものだったり、そういったものしか残らないんですよね。でも、世の中にはそうではない、いろんな試行錯誤の歴史がある。そこにこそ俺は価値があると思うんですよ。でも、そういった作品って誰かが「これは凄いものだよ」って言わないとどんどん忘れられていく。そういった、自分たちが育ってくる中で見てきたものを、どこまで「あれはよかったよね、でもあれは最近見られないし」と話していくか……。気がついたら「βで撮りためたのに、βが再生できるデッキがない!」みたいなことになってるんですよね。
G:
「せっかく高画質で残してたのに」って。
樋:
そう、ハイバンドベータは見られなくなっているわけですよ。それをどうやって次につないでいくかと考えたとき、自分はたまたま日本映画専門チャンネルの宮川さんというプロデューサーとよく食事したりしていて、「ああいうの見れないんですかね~」とか「あれ流さないんですか?」とか言っていたら、その数が溜まっていて。「あれ見たいなー、あれも見たいなー」っていうところから、「じゃあ、これで番組やりますか」へと形を変えたんです。
最初はもちろんメジャーな特撮を扱う予定だったんです。でもここ数年、「特撮博物館」をやったり、あるいは庵野さんの「どうか、助けて下さい。特撮、という技術体系が終わろうとしています。」という日本特撮に関する調査報告書をまとめたりして、特にこの報告書はヤバイなってほんとに思います。調べても分からないことがいっぱいあるし、それは残せていけないんじゃないかという焦りにつながるんです。実際、すでに色々なものがなくなっている。それはモノであったり人であったり、あるいは知識とか経験とか、そういうものがどんどんなくなっているんです。だから、それをどうやって受け継いでいくかです。
俺は別に新しいものを作らなくてもいいと思っているんですよ、時代に合わせたものを作ればいいだけであって。「是が非でもミニチュアで何か作りたい」とか「ミニチュアの方が暖かい」とか、そういうことを言うつもりはないです。自分の中ではCGはCGでいいものだし、ものを作る上での道具としての良さが平等にあると思っています。ミニチュアばかりに頼ってたら映画はダメになるというのは自分も思っていたし、積極的にデジタル化を進めてたのは間違いなく自分たちの世代ですから。それはそれでいいと思うんですけれど、気がついたら「これはまずいぞ」と。「なくなっちゃうのはちょっと待って!!」という思いになりました。言っちゃダメなんですけど、もっと世知辛い話をしちゃうと、特撮を残す方法として今回みたいに「それソフトで出しませんか」ってメーカーの人に言っても、「えー、それほんとに回収できるの?」という話になるわけですよ。
G:
そうですよね……
樋:
そこで、こんなニッチなことでも許される放送のすばらしさですよね。ほんとに日本映画専門チャンネルは以前から見ていて……伊丹十三さんの「天皇の世紀」とか知ってます?
G:
はい。
樋:
それとか放送しちゃうわけですよ。これ絶対DVDにはならないだろう、ソフトにならないだろうというものをすごい高画質で流してくれる……勝新太郎さんの「警視K」とか!これはもう感謝でしかないわけですよ。そういったことをきちんとやってる人達であれば、なにか応えてくれるんじゃないかと。権利関係のクリアとか、ものすごい大変な労力を払って今回のラインナップになってるので、ある意味でスレスレなんですよ、商売になるかならないか(笑)
日本映画専門チャンネル担当者:
長い目で見てやっています(笑)
樋:
文化事業として(笑)
G:
もう一大事業ですよね。今回、この「特撮国宝」について取材をするために、取り上げられる作品を見ておこうと思ったら、「空気のなくなる日」とかどこにも見当たらないんですよね。
樋:
ないですよ、もうないですよ!だから、見られないものを見せたいわけですよ。お金をかけて!!だから今回メイクさんもつかないんです。その予算、全部テレシネ代に回しましたから、私の顔は脂ぎってテカテカですよ!お見苦しくてすいませんですよ!でもね、それを今回拾い上げなかったら歴史に埋没するんですよね、きっと。
G:
「これすごいですよ!」って言われても「でも、見られないですよ?」っていう作品が多いですよね。
樋:
えぇ、それをどうやって救助していくかっていう(笑)サンダーバードですよ。映像の!
G:
それで今回、こういうラインナップになったんですね。
樋:
えぇ。だから第1回の鯨井実さんの回にしても、恐竜探検隊ボーンフリーもあるんですけど、ボーンフリーの前に作った巨獣惑星っていうパイロット版があって、それがすごくいいんですよ、こんなものよく作ったなっていうぐらい。それをもとにボーンフリーが始まったっていうことは、知ってる人は知識として知ってるんですが、それをすぐに見られるのかというと見られなかったりする。最近だとYouTubeにあがったりするんですけど(笑)
G:
「タイムトンネル」も、鯨井さんがご自身でYouTubeにアップしなかったら他にはどこでも見られない、それこそ自主制作だから「そんなものあったの?」となっていてもおかしくない作品ですよ。
タイムトンネル - YouTube
樋:
タイムトンネルは僕もYouTubeのおかげで知りましたし、もしかしたら自分で発信することもできる今の方がいっぱい残る可能性があるんですよ。ただ、それをきちんとしたテーブルの上に載せるためには、やっぱり放送というものが必要だったりする。そういった意味で、ネットで探してそれを特撮国宝にみたいな、共存共栄ができればとは思っているんですけどね。
当時は商売のためにいろいろ作っていたはずなんだけど、商売ではなく、いい意味で歪んだものがいっぱいあるんです。残っていないのにはもちろん全部理由があるんですよ。でも、そこを含めて愛おしい。……中学の時に「宇宙からのメッセージ」を見てしまった、「ウルトラファイト」で育ったっていうことから……やっぱり親の言うとおりでしたよ、「テレビの見過ぎは良くない」(笑)漫画の読み過ぎもよくない(笑)
G:
だからこそ、今こういった特撮を救う立場になったということですから。これでよかったんですよ、選ばれていたんですよ!
樋:
これはもう、一生これはやり続けなきゃいけない(笑)
G:
今回は全部で5名の方を取り上げていますが、好評であれば……
樋:
いやぁもう、ずらっといますからね!まだまだ紹介したい人や紹介したい作品とかありますし!ただ、1つだけ残念なことがあるんですけど……なんでこれに俺が出てんだ!?(笑)自分がしゃべってるところとか、絶対に自分で見られないですよ。同族嫌悪というか、見るとすごい腹が立ってくる。しかも、たぶん自分にしか分からない欠点しか見えてこないので、今までも自分の出てるものって基本的に見ていないんですよ、腹が立つんで。今回のは、すごく見たいのにたぶん見れない(笑)この取材の前に前説の収録とかを済ませたんですが、そこでももう一人の俺が「ふざけんなおまえ!」って言ってます(笑)ほんとに続けていきたいんですけど、誰か俺の代わりをやってくれないかって点は切なる願いですね(笑)
G:
今後もぜひ続けていっていただきたい企画だと思います。樋口さんの人生ドラマの話の続き、オネアミス以降編についてもいつかお伺いしたいと思いますが、本日は長い時間、ありがとうございました。
樋:
ありがとうございました。
※樋口注
このエリート2人組のうち1人は私・樋口のガメラシリーズ以降ずっと美術を担当しているデザイナー三池敏夫で、もう1人は戦隊シリーズやライダーシリーズの特撮を担っている佛田洋。
番組のオフィシャルFacebookページでは番組の最新情報やコラムなどを掲載しています。また、日本映画専門チャンネルプレゼンツ「燃えよ特撮!祭2013」が8月3日に開催されることが決定していて、特撮ファンに語り継がれる特別ドラマ「東京大地震マグニチュード8.1」の特別上映が行われることになっています。
このイベントに80組160名を招待するとのことなので、参加希望者は特設の応募ページから応募してください。
樋口監督のインタビューに続いては、「特撮国宝」第1回のゲストである鯨井実さんへのインタビューを掲載しています。
造型師・材料屋・アニメーターといくつもの顔を持つ男「鯨井実」インタビュー
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