インタビュー

映画でいかに徹底した大嘘をつくかこだわる「爆発王」中野昭慶さんインタビュー


円谷英二のもとで特撮スタッフとしての腕を磨き、特技監督としてゴジラシリーズや「首都消失」「連合艦隊」などに携わったほか、爆破シーンでは多量の火薬を使うことから「爆発王」の異名を取る中野昭慶さん。若き日の樋口真嗣少年と出会い、その特撮入りにも影響を少なからず及ぼした人物ですが、このたび日本映画専門チャンネルの特別企画「特撮国宝」に登場すると言うことで、番組中では出てこなかったような部分の話などについて、いろいろと伺ってきました。

特撮国宝|7月4日(木)よる11時スタート 3カ月限定企画、企画監修・出演:樋口真嗣|日本映画専門チャンネル
http://www.nihon-eiga.com/osusume/tokuho/



GIGAZINE(以下、G):
中野さんと樋口真嗣さんとは、樋口さんが中学生のころにスタジオ見学に来たときからのお知り合いだそうで、こういう繋がりもあったりするのだなと驚きました。

中野昭慶(以下、中野):
俺の中で樋口さんは、もう一人カメラマンをやってる桜井景一さんという人がいるんだけれど、この人といつも一緒になっちゃうんだよね。彼も北海道かどこかから修学旅行で出てきたついでにスタジオに寄って、僕が案内してあげたのが高じて特撮を始めて今カメラマンやってるの。その彼と樋口君が頭の中で一緒になっちゃうんですよ。

G:
中野さんは中学、高校ではアメリカンフットボールをやっておられて、大学で「映画を勉強したい」と思われたそうですが、スポーツマンから映画へというのは大胆な転身だと思います。映画に初めて触れられたのはいつ頃なのでしょうか。

中野:
映画に最初に触れたのは小学生の時です。僕の父親はシベリアに抑留されていたので、お袋と僕は2人で昭和27年に引き揚げてきたの。それで、親戚を頼って住み着いたのが愛媛県の新居浜というところなんです。当時の娯楽といえば映画で、新居浜のような地方の都市でも映画館が6館あったんですよ。それこそ松竹・大映・東宝・新東宝・東映の各社と、あと洋画専門館があった。それで父親がまだ帰ってきていなかったから、母親が今の住友化学という会社の厚生課に勤めてたわけね。そこで映画の割引券を扱っていたから、その関係で映画館と顔なじみになって「おぅい!頼む!頼む!」で(笑)、毎週6本映画を見てた。

G:
おおっ、週6本とはすごい。そのころご覧になった映画で良かった作品、印象に残っている作品はどういったものですか?

中野:
これはなんといっても「七つの顔」という映画だね。今の方は分からないかなぁと思うんだけど、片岡千恵蔵さんっていう俳優が昔いたんですよ。この人が演じた多羅尾伴内っていう探偵が主人公の探偵映画なんだけど、これは後年、東映で小林旭君がやっています。どうしてこれが好きかと言うと、これはあなたもご存知だと思うんだけど、「……またある時は片目の運転手、しかしてその実体は、藤村大造だ!」って最後に見栄を切るんだよ。あそこなんか、まさに遠山金四郎なんだ。


あの「七つの顔」を作ったきっかけというのは、当時、GHQが「時代劇は日本の封建教育の権化だから、あんなものをまた日本人に見せたら『アメリカをやっつけろ!』と騒ぐかもしれない、それは困る」と考えて、時代劇製作禁止令を出したわけ。そこで我々の先輩方は「時代劇を作っちゃいけないなら、これはどう?」って「七つの顔」を出してきたんですよ。これはね、まさに時代劇なの。藤村大造という正義の味方の大将さんがドンパチドンと撃ち合いをする。あれは二丁拳銃で、チャンバラでいうと二刀流なんですね。それで、どういうわけだか悪い方が撃つ弾を避けるんですよ(笑)。これがすごくかっこいいんだ。パンパンパンッて撃つとパッて避けるわけ。そうすると、横で弾着がパーンッて光る。これはまさにチャンバラなんですよ、設定がすべて時代劇なの。それで、GHQの女性監察官に「うん、これならいいんじゃない?」と言わせてほくそ笑んだのが我々の先輩なんですよ。

G:
すごい駆け引きですね……

中野:
「現代劇で弾を避けるバカがあるか」みたいなね(笑) これがほんとの楽しい映画なんだよ。それで作ったのが「七つの顔」「十三の眼」「二十一の指紋」「三十三の足跡」で、ここまでの4本を大映で作ったわけ。その後、東映に移って何本かやって、最後の方を小林旭さんがやったんじゃないかな。そういういわくつきの映画なんだ。だから、「映画の面白さって何ですか」って聞かれたら、僕はもう「七つの顔でしょ」と。その先輩のすごさだよね、「時代劇作っちゃいけねえ!」って言われて「任せとけ!」と応じながら堂々と作ったのが時代劇であったという。だから、この辺の先輩の凄さ、バイタリティ、こだわり……それらが映画の面白さの基礎であり、基盤であった。そういう先輩がいたからこそなんじゃないかなという意味で、僕は「七つの顔」が大好きなんです。

G:
なるほど。

中野:
それともう一つ、11歳の時に見て「この女の人美しい……」って思ったのが高峰三枝子さん。この人はご丁寧に歌を歌うんだけど、これが音楽三部作と言って高峰三枝子さんが主演する「懐かしのブルース」「別れのタンゴ」「情熱のルムバ」、いまだに僕はこれを見ると当時のほんわかとしたものを感じる。高峰さんは俺が子どものくせに、なんだか女性を感じた最初の女優さんなんだよ。「あぁ、こんなに美しい人が見れる映画ってすごいなぁ」って思った。だから僕はいつも「七つの顔」シリーズと、高峰三枝子さんの音楽シリーズを挙げるんですよ。


それで毎日映画を見てたことが機になって、映画の存在自体がものすごい身近になっちゃったの。それでたしか中学の時だと思うんだけど、国語の教科書に「小島の春」っていう映画のシナリオが載ってたんだ。これはまさにシナリオだから、あのシナリオならではの表現方法、つまりフェードアウトとかフェードインとかのテクニックが書いてあるんだけど、先生はそれがどういう意味か分からないわけ。だから「ここにF.I.って書いてあるけどこれは何かの合図でね……」なんて言うもんだから、僕が「それは違いますよ、先生!」って言ってとうとうと説明したことを覚えてる。

G:
「これはフェードインというものですよ」と。

中野:
「フェードインとはこうです、フェードアウトとはこれです、オーバーラップとはこうです」とかね。映画が身近だったから、長ずるに及んで「第三の男」を見て、「俺は映画をやる!!」と思っちゃった。なぜかというと、「第三の男」までは映画音楽というのはオーケストラが常識だったんだけど、あの作品はチターっていう楽器一本で、ラストシーンがチターの演奏なんですよ。これで人を感動させる映画というのはなんというものなのだろうと思ったときにはもう「やるぞ!!」って決めちゃっていた。


G:
確かに「第三の男」のテーマ曲は軽妙で、ラストシーンで流れてきて「えっ!この音楽で終わるのか!?」みたいな感覚がありました。

中野:
でしょ?あるでしょ?でも、あれも結構感動させられてるんだよね。なんでこんなので感動してるんだ、映画っていうのはすごいなぁと思ってやることにした。

G:
中野さんが入られたのが大学の脚本コースだったので、脚本を勉強しようと思ったのはなぜだったのかお伺いしようかと思っていましたが、なるほど、教科書にシナリオが載っていたとは……。

中野:
それがシナリオだということを知っていたし、やっぱり、映画をやる以上は設計図であるシナリオを書けないとダメだろうと思ったからだね。

G:
この当時、アルバイトでドラマのシナリオなども書かれていたということなんですが。

中野:
うん、そうそう、やってました。僕のお師匠さんは当時多忙で、このままだと毎週本数が間に合わないかもしれないということがあったりして、その応援でいろいろやっていましたね。

G:
なるほど、そういうことなんですね。東宝への入社にあたっては、樋口さんから「競争率が高かったのでは?」という指摘もありましたが、就職にあたっては最初から映画会社のどれかに入ろうと考えていたのですか?

中野:
そうそう、俺は映画会社のどこでもよかったんですよ。たまたま、卒業したときに一番早く入社試験をやっていたのが東宝だったから受けたということで、「東宝が好きだから」と選んで入ったわけではないんだ(笑)、映画ができればどこでも良かったんですよ。


G:
なるほど。現場に入って、1959年から1969年までは円谷英二さんに師事する形で助監督・監督助手として特撮映画を担当していますが、中野さん自身は特撮を撮りたかったわけではなく、作っていたつもりもなかったとか。

中野:
そうなんですよ。当時、助監督会には、つく監督を誰にするか決めるのを会社の人事権でやられちゃかなわないっていう意見があったの。助監督会っていうのは生意気集団で、監督によって「ぜひこの人の助監督をやりたい」みたいなこともあったりするから、助監督会のみんなで喧嘩しないように均等に配置先を決めてたんですよ。たとえば黒澤明さんであれば、みんな付きたがるわけです。そういうのを自由に選んでたんだけど、その中でみんなが嫌いだったのが円谷組だったのね。特殊撮影を担当していたチームだけれど、要するに「やってる仕事が汚い」「何をやってるか分からない」「しんどい」。だからみんな円谷組っていうと逃げてたわけ。そこにたまたま僕が新任助監督として入っていったら「おまえ、ちょうど良いところに来た!明日から円谷組に行け!」ってのがきっかけなんですよね。

G:
なるほど。

中野:
潜水艦イ-57降伏せず」という映画で円谷さんと初めて会ったんですよ。僕はそのあと成瀬巳喜男さんともやったし岡本喜八さんともやったし、たいていの東宝の監督とは一通り組んで、決して特撮をやろうとは思っていなかったんだけれど、どういうわけか円谷さんの方から「今度もこの前の助監督、あれでいってよ」って指名が来ちゃったの。こうなると喜んだのは助監督会でね、監督からのご指名というのは金科玉条、天下の葵のご紋、これに勝るものはないわけで「そら指名が来たぞ、ほら行け!お前も喜ぶべきだ!」とか何とか言われながら指名に応じてやっていたら、こうなったという。

G:
円谷英二さんという方は、どういった方でしたか?

中野:
これも難しいな、よく聞かれるんだけどねぇ……僕はある種、円谷さんは天才だと思うよ。円谷さんというのはゼロから全部作り上げる人なのね。だから映画でもそう。映画がまだ活動写真って言われてた時代、「活動写真でこれやるとおもしろいな」とか「歌舞伎のあの芝居をやればいいんじゃない?」とか「この小説を使ってみたらどうだろう」とか、みんなが試行錯誤していろいろやってるうちに、だんだん活動写真の基盤ができて映画というのができてきたわけだけれど、あの人はそういう「一体を何やりゃ良いんだ?」という時代で、音もなきゃセリフもないサイレント時代からやってるわけですから。

当然、台本もないし芝居もない。とにかく時代劇、チャンバラでもやるかということで「俳優さんを何人か呼んでこい」って言って人を集めて、ストーリーも何もないから、脇から「ちょっとかっこいい動きやれよ」みたいな指示を出す。そうすると俳優さんも困るんだよね。「それがしは天下の……」なんてセリフを決めたいところだけれど言うことがないから、黙って演じていたら「お前、それじゃあ声出してないよ」と。「じゃあなんて言うの?」って聞いたら、円谷さんは「『テケレッツノパッパー!』って言えよ!」と言ったの。この「テケレッツノパッパー」はよく円谷さんが言う口癖なんだけど、これは号外売りが「いいかーテケレッツノパッパー」てなことで使う、たたき売りみたいな音頭取りだね。円谷さんも機嫌が良いと「ははっ、今日はテケレッツノパッパーだなぁ、じゃあ帰ろうか」っていう風に使ってた。映画をどうやって撮影するのかって言ったら「じゃあカメラ作ろうか」「撮影で高いところに行きたいねぇ、じゃあクレーン作ろうか」と、そこからやった人なんだよね。映画の世界のホリゾントというセットの背景の絵だって、それまではフィルムの感度も悪いし屋内では光量が足りないから背景は全部外で撮ってたんだけど、室内でやった方が便利だしテイクをミスしないからということで円谷さんが考え出したものなの。「ホリゾントって何するの?」と聞くと「山描いて空描けよ」と、とにかく一からやってるわけね。


今の若い人はありとあらゆることが出来ますけども、一つ一つどうしようかこうしようかっていうとことから考えていた人だということから、僕は円谷さんこそが天才だと思う。円谷さんには特技監督という肩書きがつけられていたけれど、僕は監督だったと思っていてね。実際、円谷さんは市丸さんという芸者歌手を主役にした「小唄礫 鳥追お市」っていう作品を撮ってたりするんですよ。そういう人だから何でもできるんですよ。できないことをやったわけだよね。「戦争に行って撮影することなんてできない、じゃあどうするんだ」となったら「ギアセットを作って火薬でドンパチやろうよ」なんて。だから、僕がさっきから言ってる「特撮」は特殊撮影じゃないんですよ。あれは単なる演出テクニック、つまりこの映画でこれが欲しいからあのテクニックを使うということなんです。

G:
ううん、なるほど。

中野:
円谷さんがアイデアマンだという一角は、たとえば「自動スケート」という子どもが片足で蹴って進む乗り物みたいなやつ、スケーターといえばいいのかな。

G:
ローラースルーGOGOみたいなものでしょうか。

中野:
あれも円谷さんの発明なの(編注:1917年ごろ発明)。それから「カタカタ」、子どもが押して動かすと動物とかが顔を出したりしてパタパタと音が鳴るやつ、あれも円谷さんが作ったりした。つまり、映画だけじゃないわけだよね。たまたま東京に出てきておもちゃ工場でアルバイトしていたときに円谷さんが設計したものが売れちゃったわけだよ。それで「売れた!」って喜んで、いっぱいお金をもらったからと当時工場で働いてた工員さんとか仲間を全員連れて、上野の公園でわーって花見をしてたとこで映画のプロデューサーと会うんだよ。はっはっはっはっ!


G:
うわーっ、すごい出会いですね。

中野:
円谷さんはそういう人だったから、映画が好きで「映画やります」と入った人ではない。ほんとは飛行機乗りになりたいって言ってて、熊谷の飛行学校に行きたいから東京に出てきた人だから、夢はパイロットだったの。何の世界に入っても全部やっちゃうって感じで、映画の世界だって十分にこなしちゃうから僕は円谷さんが天才かなと思う。一言で言うとしたらそういう言い方しかできないな。

G:
確かにそうですね……。円谷さんが一から発明したように、中野さんは「連合艦隊」を担当したときに「磯波を初めて表現できた」ということを仰っていました。

中野:
「連合艦隊」の映画は戦艦大和が主役なので、戦艦大和をかっこよく見せないといけない。戦艦大和をかっこよく見せるのは何だろうっていうと、やっぱり海っていう背景なんだ。これがちゃちでタライの上を走ってるようじゃダメでしょ。そうすると、かっこいい波って何かなって考えていったわけね。そうして思ったのは、「かっこいい波」っていうのは、たとえば葛飾北斎の「富嶽三十六景」に神奈川沖浪裏で、奥に小さく富士山が描かれていて、手前に大きな波が描かれているあれ。今でいうサーフィン用の波でしょう。サーフィンもドドドドドと崩れてくる波がかっこいいのであって、あれがパチャン……パチャン……という小さな波だったらサーフィンはできないし、ただ水面に丸く波紋が広がるだけ。だから、このサーフィン用の波を作ろうという根本から始めたんですよ。

そこで、「そもそも波とはなんぞや」というところから始めて、波形学から勉強していった。そうすると、波には生成順序っていうのがあるの。波のスタートは「風」なんですよ。だから風浪って言うわけだね。風浪というのは海の上に風が吹いて海面がひだになること。それと、波っていうのは伝播する性質がある。電波もそうでしょ、途中に六本木ヒルズみたいな高い障害物があるとそこで電波がおかしくなっちゃうわけだ。要するに、波にはものに当たると反射する性質があるから、電波には障害物があっちゃいけない。だけど波っていうのはぶつかる。海に出来た波はぐわーっと陸の方に押し寄せてくるわけ。そのとき、海岸と岸壁だと出来る波が違うんだ。岸壁には押し寄せた波がボンとぶつかって返る、「返り波」と言うんだけれど、それで形になっている。このときできるのは定常波という三角波で、釣りをしている人ならわかると思うけれど、岸壁近くで釣りをしているとこういう波が立っている。そこでさっきから言っている「かっこいい波」だけれど、これが磯波という波で、磯、つまり海岸にできるわけだ。

波というのは沖から伝播してきて海岸に「ずぅーっ」と浸かっていって、滑らかなところでもう最後に力をなくして帰って行く。そうすると、この帰って行くものが次に来る波のお腹を抉るから、あのサーフィン用の波の格好になるんです。古今東西、絵描きさんが描いてる波ってみんな磯波なの。磯波は海岸で出来るから、本来太平洋のど真ん中じゃ出来なくて、皆さんの思うかっこいい波ってのは磯でしか出来ないわけだよね。だから、「海」という童謡で「海は広いな大きいな」「行ってみたいなよその国」というけれど、これはかっこいい波を見て「この奥には何があるんだろう」と子どもなりに夢を託すからかっこいいんであって、実際に行ってみたら風浪のポコポコしただけの、水のちゃぽちゃぽでしかないわけよ。それほどにまでみんな磯波をかっこよく思ってるから、この磯波を作ろうということで、僕は扇風機でプールに風を起こして、プールの壁面にあたって返る波の力を利用して三角波になったところで、これを抉るためにさらに水中にフューエルポンプを設置して下側を抉ったわけ。つまり、定常波を作って、その下を抉ったら磯波になるんです。


G:
なるほど……!

中野:
それほどまでに戦艦大和の背景の海はかっこいいものにしたかったわけね。だから、あれを「かっこいい」と思ってもらえれば僕はありがたいです。

G:
かっこいい絵を作るためのこだわりですね。これまでに手がけてきたお仕事で、映像になって見てみたときに「おおっ、自分で思ってたよりも良くなってるなぁ!」というお仕事っていうのはありますか。

中野:
ないです!


G:
ないんですか!?

中野:
一つも無いですね。

G:
「もっといけたはずだ!」ということでしょうか。

中野:
「もっとこうすりゃ良かったああ!」って、全部が反省点。だから僕は「傑作は次回作だ」っていつも言ってるんですよ。

G:
いつも映像を見直してみると「ああ、ここはああすればよかったー!」となるんですか。

中野:
「なんてことやってんだ!?」「ここは、これじゃないだろ!」とかね。だから、僕の中ではせいぜい、最高点でも60点ですよ。後はもう30点、40点の世界かなぁ、だって全部反省点なんだもの。満足したものはないんだよね。


G:
なるほど。

中野:
ただ、疲れたなぁとかしんどかったなとかもういやだと思うのはいろいろあるけどね。満足出来ないんだよなぁ。

G:
たとえば、特撮国宝第3回放送では「首都消失」を扱いますが、ここで出てくる東京を覆う雲でも「もうちょっとこう出来たなぁ」という思いがありますか?

中野:
うん、そうそう。あの色といい、形といい……あと、映画の中での表現ね。反省点いっぱいありますよ。

G:
最後に穴を開けるところなんか「おおっ、雲が抉れてる!抉れてる!」とワクワクしますけれど、目標は高くということで。

中野:
ですね。あれ、今だったらCGが使えるから楽でしょうね。なんせ、僕のやった世界っていうのはアナログで一から手作業ですからね。

G:
最後の質問になるんですが、仕事をするにあたって持っているこだわりというのは何でしょうか。

中野:
「もっともらしさ、大嘘」。嘘は、徹底して嘘つかないとダメなんですよ、どこまでこだわれるかという。さっきの波の話もそうだけど、徹底して波にこだわってみるとああなるんです。だから、僕は映像作りはこだわりと粘りだと思う、こだわりがないとダメだと思うんだね。樋口監督も「こだわりたいけれど、こだわれないんですよ」なんてことを言っていて、そこにはいろいろと大変なことがあるんだろうけれど(笑)、やっぱり最終はこだわりだろうね。どこまでこだわれたかっていうのが勝負だと思う。大先輩の人たちがやっている「名作」っていわれるものは、みんなこのこだわりの極致だよね。

G:
新しく映像を作るときはこだわりを持って、次こそは100点をと。

中野:
今一番やりたいのは、10歳から11歳くらいのときの子どもの目から見た第二次大戦ですね。これはどういうことかというと、大人の世界だと反戦運動だとか「戦争はいけない」とか「つらいよ」とか「しんどいよ」とかいろいろ言うけど、僕は子どものころ物心ついたときから「お前は日本に生まれた天皇の子である。ゆくゆくは天皇のために命を捧げてこそ、お前の生き様である」みたいな教育をされてるから、もう戦争が当たり前なんだよね。アメリカとイギリスのことを鬼だという「鬼畜米英」なんて言葉があって、それが未だに残ってるとこもあるんだよね。そういう子どもを教育した大人って一体何者よ、そんなことしてよかったの?みたいな、そういう目も含めた子どもの目から見た戦争って言うのをぜひ今やりたいと思ってるんですよ。


G:
なるほど。

中野:
それが出来たときはもしかしたら傑作になるかもしれない。

G:
なるほど!これまでは過去最高でも60点とのことですが、次は……

中野:
これはぜひ、70点を(笑)

G:
点が厳しいですね(笑) 今日はお話いただき、ありがとうございました。

中野:
いえいえ、楽しかったよ。どうも。

収録が行われた原鉄道模型博物館で、一番ゲージの巨大レイアウトを前に並ぶ樋口監督と中野監督。


特撮国宝第3回は「首都消失」。8月1日23時ほかの放送です。

首都消失|日本映画・邦画を見るなら日本映画専門チャンネル
http://www.nihon-eiga.com/program/detail/nh10001008_0001.html



特撮国宝オフィシャルfacebookページでは各種告知やコラム連載などが行われています。


続く第4回・第5回のゲストは川北紘一さんです。

特撮にかける思いや「東宝式」「大映式」の違いについて川北紘一が語る - GIGAZINE

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